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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

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幕末51 1857年 吉田東洋再起用

2013年04月05日 | 幕末

 坂本竜馬が実家近くの日根野道場で剣術修行を行っていた1857年頃、土佐藩主・山内容堂1827-1872は謹慎の身となっていた参謀・吉田東洋を呼び戻して藩政改革を行おうとしていた。10代藩主・山内豊策の五男豊著を父とする山内容堂は、追手邸(高知城のすぐ東の追手筋)で生まれる。 容堂の生母は、下級武士であった下士平石氏の娘で、豊著の側室である。13代藩主・山内豊熈、その弟で14代藩主・山内豊惇が相次いで急死したために、分家で当時22歳の豊信が藩主候補となった。豊熈の妻・智鏡院の実家に当たる薩摩藩などが老中首座であった阿部正弘に働きかけ、豊信が藩主に就任したのである。後の容堂である。藩主の座に就いた豊信は門閥・旧臣による藩政を嫌い、革新派グループ「新おこぜ組」の中心人物・吉田東洋を見出して起用し、1853年東洋を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じ、家老を押しのけて改革を断行した。年代からしてペリー来航の影響を受けての改革であったと推測される。翌年6月、吉田東洋は山内家姻戚に当たる旗本・松下嘉兵衛との間にいさかいをおこして失脚、謹慎の身となったのであるが、3年後の1857年再び容堂に呼び戻された。このとき吉田東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝悌らを起用しているから、人を見る目と将来の見据えた改革方針は佐久間象山と同様であったことも伺えるのである。

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