平家一門の総帥・清盛の嫡男である重盛の嫡男は維盛で、母は藤原親盛の娘である。 嫡系の貴公子であるから将来を嘱望された。 後白河法皇の前で舞った時はあまりの美しさに人々は桜梅少将と呼んだ。 本来であれば平家の棟梁として後世に名を残す予定であったが、頼朝の挙兵によって総大将に選ばれた23歳の維盛は富士川の合戦で敗走する。 惨敗の翌年、頼朝の叔父である源行家軍を墨俣の戦いで破ったことにより名誉挽回し右近衛中将に昇進した。 そして今度は木曾義仲追討軍の大将に任命され、 維盛の真価が問われることになる。 結果は平維盛はあえなく倶利伽羅峠で木曾義仲の奇襲にあって大敗を喫することとなるのである。 この戦いを前にして木曾義仲は倶利伽羅峠のすぐ東にある埴生護国八幡宮に必勝祈願をしたと云われています。 埴生八幡宮は、奈良時代養老年間に、宇佐八幡宮の分霊を勧請したのに始まるといい、越中の国司であった大伴家持が、国家安寧の祈願をしたとも伝えられています。
一方 平家側は総大将・維盛を中心に陣をひき、木曾義仲との戦いに備えた場所を猿ヶ馬場といい、跡地には石碑が残されています。 平維盛率いる平家軍と木曽義仲軍の合わせて6万有余が、世に云う砺波山の戦いを繰り広げます。 初戦は勝敗なく終わりましたが、義仲は夜半、牛の角に松明をつけて、まどろんでいる平家軍のなかにこれを乱入させるという 「火牛の計」 により、平家軍を打ち破ったと『源平盛衰記』では伝えられています。 東西北から襲撃された平家軍は逃げ場を失い、南の谷深く落ちてゆき、多くの兵が命を落としたといいます。
この戦いで敗れた維盛は居場所をなくし、平家が屋島に逃れた後出家し、地位も妻子も捨てて高野山に向かい滝口入道を頼りますが、熊野詣のたびに出たあと、将来に対する絶望感からか、1184年那智勝浦の沖へ船出し入水自殺を遂げます。 ところで、埴生八幡宮から猿ヶ馬場へ向かう途中に何故か巴御前と葵御前の供養塚があります。 木曾義仲の妾である葵御前は、後に頼朝が追討に送り込んだ義経の手により滋賀にて討ち取られ、木曾義仲の妻・巴御前は生け捕られたあと、鎌倉の頼朝の元へ送られ、和田義盛と再婚して91歳の長寿を全うするのですが。。