壇ノ浦での源平戦況は潮の流れが勝敗を決める状況になっていた。序盤は平家方の優勢ではあったが、平家の船軍のなかでも四国の阿波民部が、源氏方へ寝返ったのは大きかった。阿波民部は桜間の介の兄軍である。平宗盛の器量のなさに愛想をつかした桜間の介は既に義経側についていたが、兄を説得して源氏方へなびかせたと同時に、源氏との和義を図ろうとする平時忠やその息子・讃岐殿と義経との仲をとりもつ役とかってでていた。義経の眼中には三種の神器と安徳天皇しかない。平家を打ち破ったとしても、三種の神器を取り戻すことができなければ、この戦の意味はないからである。時忠と安徳天皇、建礼門院、二位の尼などの命を保障する密約をかわしていた義経は、赤間の関の陸路に身を隠す平時忠、讃岐中将時実から安徳天皇を乗せた船の御印情報を得、それへ急いだ。黄印の旗を掲げた小船へである。そしてこの時に、義経は平家随一の武将、能登守・教経に決戦を挑まれることになる。このとき既に源平の小船は随所で衝突しており、小松新三位資盛、弟有盛は海の藻屑と消えていた。また、左中将清経や、教経の郎党権藤内貞綱も討ち死にしていた。一人気をはいていたのが能登守・教経である。義経の眼中にあるのは黄旗の小船のみであり、小船を伝って黄旗へと急いでいた。能登守教経は 義経との一騎打ちを望んだが、空しく義経の郎党・安芸大領実康の子・太郎実光、次郎兄弟に捕まり、お互いを道連れに海中へ沈んだ。
平家の総領宗盛の船は舵の自由を失い漂っていた。伊勢三郎をはじめとする源軍はこの船に襲い掛かると、左馬頭行盛は斬死にした。同じ船にいた教経の父・門脇中納言教盛は、もはや最期と自ら海中へ身を消した。そしてこの船の大将・宗盛はというと身を海に投げようとはするが、ためらっているのを見た武将が 未練なお主かなと海へ突き落とし、自らも入水した。そして宗盛の息子・右衛門督(平清宗)も後から入水する。しかし、この親子は源氏の小船によって引き上げられ、生け捕られたのである。黄旗の小船のまわりには源軍の小船が群がっている。梶原景時、伊勢三郎、田代冠者等々詰め掛けたときには、すでに義経は黄旗の船に駆け上がり愕然としていた。帝(安徳天皇)は二位の尼(清盛の妻・時子)に抱かれて既に入水し、そのあとを追いかけて帝の母・建礼門院も入水していたからである。そしてそれを見届けた師の局(平時忠の妻)は動揺してなきくれている。平家随一の武将・知盛は平家一門の最期を見届けると、誰かを待っていたかのごとくその身は鬼のごとく、しかし心は穏やかである。源氏の総大将・九郎判官義経を待っていたのである。そして、今となっては平家の終焉を迎え、たとえ帝が生きていようとも洛での生活を思えばまともな成人を迎えられるはずもなく・・・・と語り、落ち延びた平家を気遣いつつ、我が身は何ら思い残すことはない、と義経に語ると、海中へ飛び込んだのである。源氏方は総勢を挙げて、帝や三種の神器を探したが、建礼門院のみを探し当てたに過ぎなかった。鎌倉の頼朝の命を受けて翌日には、義経は洛へ向かっていた。この血なまぐさい壇ノ浦にはいたたまれなかったし、早く静にも会いたかったのは言うまでもない。洛へ帰ると、民衆の囚人への哀れみやら、平家に仕えてきた女房や乳母が人目でも・・・・と懇願する声ばかりである。義経は後白河法皇からはたいそう労いの言葉を受け、その多忙から堀川邸の静に逢える日はなかなか来なかった。
平家随一の武将・知盛
関門海峡の下は当時赤間の潮と恐れられる激しい潮流。平家一門はこの潮を味方につけるべく源氏をおびき寄せたが・・・