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1180年 富士川の戦いの地

2018年06月10日 | 平家物語

 富士川の戦いでは総大将小松少将維盛、副将に薩摩守忠度が任命されたが大敗に終わり、これにより源頼朝の鎌倉は盤石なものとなった。富士川の戦いは、平安時代1180年11月に富士川で源頼朝、武田信義と平維盛が戦った合戦であるが、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。

 1180/8/23石橋山の戦いで敗れた源頼朝は安房国で挙兵、すると東国武士が参集して大軍に膨れ上がり鎌倉に入った。一方、甲斐国で挙兵した武田信義らは駿河国目代を討ち取った。その両者が駿河国で合流し、平維盛率いる追討軍と戦い勝利したため、頼朝は南坂東で、武田信義ら甲斐源氏は甲斐・駿河・遠江での拠を確立させた。政変により知行国主の多くが変更となると、上総氏、千葉氏、工藤氏などの旧知行国主に近い豪族たちが新知行国主の息のかかった平氏家人により圧迫されていた。1180/9/8伊豆国に流されていた源頼朝は以仁王の令旨を奉じて、舅の北条時政や土肥実平、佐々木盛綱らと挙兵し、伊豆目代山木兼隆の館を襲撃して殺害した。しかし8/23石橋山の戦いで頼朝は大庭景親、伊東祐親率いる平家方に惨敗した。

 9/13頼朝は300騎を率いて安房国を出立すると、千葉常胤一族や上総広常と合流すると2万5000余騎に膨れ上がった。10/2頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じると頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり本拠地・鎌倉に入った。頼朝挙兵の報は、大庭景親より福原に伝わり、平清盛は追討軍を関東へ派遣することを決定する。平維盛、忠度、知度らによる追討軍が福原を出立したのは10/22。

 平家方が時間を空費している間に頼朝は関東で勢力を回復し、甲斐国では甲斐源氏が、信濃国では源義仲が挙兵した。追討軍は進軍しながら7万騎の大軍となる。10/13追討軍は駿河国へ入ると頼朝はこれを迎え撃つべく鎌倉を発する。甲斐源氏の兵は富士川の東岸に進む。また、平家方はその西岸に布陣した。『吾妻鏡』によると、この時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であったという。両軍が対峙したその夜、平氏軍は突如撤退し、大規模な戦闘が行なわれないまま富士川の戦いは終結する。この件に関しては、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れる。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立った。『吾妻鏡』には「その羽音はひとえに軍勢の如く」とある。これに驚いた平家方は大混乱に陥った。

 

上総広常は 、 豪族、房総平氏 惣領 家頭首であり、 源頼朝 の挙兵に呼応して平家との戦いに臨んだ。上総氏は上総・下総二ヶ国に所領を持ち、大きな勢力を有していた。上総は親王任国 であるため、実質的な国府の長である。広常は、 鎌倉 を本拠とする 源義朝 の郎党であった。1156年の保元の乱では義朝に属し、1159年の平治の乱では義朝の長男・ 源義平に従い活躍。義平十七騎の一騎に数えられた。

千葉常胤は、千葉氏を豪族から御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖といわれる。常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。鎌倉幕府成立に貢献した有力御家人の一人

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