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安徳天皇を抱いて入水した平時子・辞世の句

2015年04月18日 | 平家物語

 平時子、いわずと知れた平清盛の正妻である。公家平氏・平時信(桓武平氏高棟王流)と藤原家範の娘(祖父は北家・藤原師家)との間に生まれ清盛がほぼ全盛の時に結婚する。 この時代は平安末期・院政の時代です。 院とは天皇が譲位した後の上皇のことを言い、力を蓄えた受領層が院と密着し時代の中心になっていった時代で、幼帝の父・院が力をもち、幼い天皇を教育する乳母の存在が力を持つ時代であり、清盛はこうした幼帝、院に密着することにより位をあげていく。 時子の弟・時忠もその時の有力者、後白河上皇に密着し、政治的手腕を発揮する。そして時子の異母妹である滋子も後白河上皇に近づき、寵愛をうけることになり、やがて皇太子(後の高倉天皇)ができ、時子の娘・徳子は後の安徳天皇を産むこととなる。 一方、後白河天皇が譲位し、息子が即位すると二条天皇となるが、後白河天皇の父・鳥羽天皇の後白河への評価は低く、孫・守仁親王を時期天皇にと考えていたが、雅仁(後白河)の乳母である紀静子の説得で後白河天皇が誕生する。 ところが後白河の即位に不満を持つ天皇家・貴族が後白河天皇側との間で武力衝突となり保元の乱へ発展する。 後白河側についたのが清盛で、勝利により確固たる立場を築く。

 この頃、清盛の妻・時子は後白河の息子・二条天皇の乳母となる。実は、二条天皇にはもともと藤原惟方の母が乳母としていたが、時子の弟・時忠との政権争いの結果、惟方は敗北し時子が乳母となったという。 後に時子は従三位をもらうと平家の栄華は頂点に達する。二条天皇が22歳で亡くなり、その皇子が六条天皇として即位するが5歳で譲位すると、滋子の息子・憲仁親王が高倉天皇として即位しており、時子は娘・徳子を高倉天皇に入内させる。 これにより天皇家に平家の血筋が流れることとなる。 ところが、平家の独走態勢を快く思わない藤原氏の反感が高まると、後白河法皇も平家を見放すようになります。 こうして、源氏の挙兵が始まると間もなく、平家は滅亡に向けての一途を辿り、最期に時子は壇ノ浦にて安徳天皇を抱いて海に没する。まさに、平家物語の冒頭にでてくる 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」 を代表する一人が平時子といえる。

平時子(二位尼)辞世 

今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下 みやこありとは

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