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金戒光明寺

2008年11月24日 | 平安時代

 哲学の道から西のほうを見ると黒谷の岡が盛り上がっている。 もともと栗原岡といって叡山の寺領があったらしい。 一時法然がいたと伝えられるこの岡には黒谷さんとひたしまれる浄土宗の金戒光明寺がある。真正極楽寺には阿弥陀如来立像がある本堂・真如堂があり、いつしか真如堂が寺の名のようになった。 ここが真如堂でしられているのにはもうひとつの理由があり、それは真如堂縁起絵巻による。この絵巻は本尊の阿弥陀如来像の辿った運命を物語りにしたものであるが、なかでも応仁の乱のとき、雑兵が調度や建築用材を剥ぎ取るなどの狼藉を働く様子がしられている。  真正極楽、「真の極楽」と号するこの寺は古来から女性を救ってきた「女人の寺」でもある。 平安時代中期、一条天皇の母・詮子(藤原道長の姉:東三条院)の夢に比叡山の阿弥陀如来が現れ、「自分は一切衆生、とくに女人を救いたいと思うので、急いで山から下ろしてほしい」と告げた。 阿弥陀如来は、また戒算上人の夢に現れ、「神楽岡に真正極楽の霊地がある」と告げる。戒算は、お告げに従い、比叡山にあった阿弥陀如来像を東三条院の離宮にある神楽岡に移し、一宇を建てたといわれている。当時は、飢饉や疫病が蔓延し、戦乱の続く社会で苦しんでいた女人を迎え入れたという。  この寺は現在天台宗で、応仁の乱後の復活に際して足利義政が力をいれ、本堂は1717年の建立である。 また、その右寄りに三重塔があるが、金戒光明寺にも三重塔があり、黒谷の風物詩になっている。金戒光明寺の塔は山上の塔ともよばれ本堂の東方の小高い場所に建立され文殊菩薩を本尊とした1634年の建立である。 本堂は昭和の建築であるが、阿弥陀堂は豊臣秀頼の建立である。 山上の塔に隣接して会津藩士の墓があり、幕末の尊皇攘夷のなか会津藩主の松平容保が京都守護職に任じられ藩士ともどもこの寺を宿所にし、戦ったのである。 松平家といえば出雲の松江藩や伊予の松山藩など20あるが、幕末の動乱に活躍した藩はほとんどない。ここ黒谷の会津藩士の墓には蛤御門の変にて戦死した人々が眠っている。 この変では長州藩は賊軍、会津藩は官軍であったが、のちの鳥羽・伏見の戦い(新政府軍と幕府軍の戦いで、松平容保率いる幕府側は 小松宮彰仁親王率いる政府軍に敗ける) では逆になる。 

 

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