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石川-8 安宅の関は勧進帳の舞台

2021年11月15日 | 平安時代

 一の谷、屋島、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させた義経は 頼朝から大勝利に対する賞賛を受けるのが望みであったが、それどころか鎌倉へ入ることさえ許されず、ここで初めて義経は愕然とするのである。 頼朝の側近である大江広元を頼って兄へのとりなしを願った書状が鎌倉の手前の腰越で書かれたから腰越状という。 この仕打ちに義経は激怒し、追い討ちをかけるように所領の没収が沙汰され、土佐坊昌俊という刺客に狙われたことから、義経の決意は固まった。 義経は後白河法皇に頼朝追討の院宣をを求めたのである。院宣を錦の御旗にして再起すべく精鋭200人とともに摂津・大物浦に集結した一行は九州に向けて出向した。 しかし神に見放されていた義経を襲ったのは嵐であった。ほとんどの精鋭を失った義経は身篭った静とも分かれることとなる。 安宅での監視の目をくぐり抜けた義経は後に藤原秀衝の庇護を受ける。 

 安宅での関所破りは能の安宅、歌舞伎の勧進帳として後世に伝えられた。 義経一向は東大寺の大仏復興のために寄附を募る山伏となって安宅の関を通ろうというのである。 しかし関守の富樫左衛門は一行を見咎めて、趣意書である勧進帳を持っているだろうと迫る。 そんなものを持つはずもない弁慶は白紙の巻物を取り出し、朗々と読み上げると、一応は疑いが晴れる。 次に富樫は強力が義経殿に似ていると言い出したから、弁慶は義経を打ちのめすことにより難を逃れたという。 実は富樫左衛門は義経を見抜いており、弁慶の忠義に免じて見逃すという情けの人として描かれており、真実の程はわからない。 こうして一行は鎌倉の追っ手を逃れて奥州藤原氏のもとにたどり着いたのである。 

 ところで、この安宅の関はもともと如意の渡が原型であるというのが、ここ富山県・伏木の如意の渡である。 説明書によると以下のようになっています。  『 室町時代の軍記物語である義経記のなかに、 如意の渡にて義経を弁慶打奉るの事 という挿話がありますが、この如意の渡はかつてこのあたりにあったと伝えられています。1187年奥州に落ちる義経一行が如意の渡から船で六渡寺へ進もうとしましたが渡し守の平権守が義経をさして判官殿ではないか と怪しみました。 もし、義経であることが見破られ頼朝に通報されたら一大事と考えた弁慶は あれは加賀白山よりつれてきた御坊で判官殿とおもわれるのは心外だ と言ってとっさに疑念を晴らすために 扇で義経をさんざん打ちのめしました。 このようなやりとりがあって一行は無事如意の渡を渡りました。 この話は金剛杖になったり場所も安宅の関になるなど、だんだん変えられてのちに謡曲・安宅 や歌舞伎・勧進帳 が創作されました。 』  

 

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