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石川-10 斉藤別当実盛は木曾軍との戦いを自分の死の場所と決めていた

2021年11月15日 | 平安時代

 倶梨伽羅の戦で惨敗した平家の残党は、それでも3万騎である。 維盛の主張で安宅の関に退いていた。 ところで今は平家の恩に報いんと、宗盛の命にて参謀を務めていた老将・斉藤別当実頼は先にも述べたように保元の乱では源氏方の優れた武将であった。 この頃に一度木曾義仲を匿っている。義仲の父は源義賢である。 鎌倉殿・為義の次男であるが、兄・義朝とは反りが合わなかった。 そして義朝の長男・義平(悪源太)に討たれるのである。 この時義仲は2歳で、母小枝に連れられて追っ手から逃げていた。 このときに二人の親子を匿ったのが斉藤別当実頼であり、信濃に逃れ、木曾の豪族中原兼遠の庇護下に育った。妻・巴御前は兼遠の娘。なお、妾の葵御前も兼遠の娘である。

 この斉藤実頼は、先の富士川での平家惨敗を悔いていた。老体でありがなら生き恥をかきながら生きるつらさもわかっていただけに、ここ北陸での木曾軍との戦いを自分の死の場所と決めていたのである。そして木曾の武者手塚太郎光盛という望むところの敵に会うと、死力をもって手向かうこともなく首を授ける心のごとく観念したのである。 その後実頼の首級を見た義仲は、幼少駒王の頃に恩を受けたこともあり、群臣の前かまわず涙したという。

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