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法然と光明寺

2008年11月23日 | 鎌倉・室町時代

 先週、光明寺を訪れたので紅葉をテーマに写真を載せたが、ここでは法然上人をテーマとしたい。 法然は法然房源空ともいい、美作の出身で父は漆間時国という押領使(平安時代、兵を率いて反乱などの鎮定にあたった令外の官)で母は秦氏の出自である。 法然が幼いころに館が夜討ちをかけられ父が殺された。その後法然は延暦寺にはいって修行を重ね専修念仏を唱えることとなる。やがて身分の上下に関係なく帰依を受けるようになり、関白・九条兼実(東福寺開基の九条道家の祖父にあたり慈円の兄)も信者のひとりとなった。 法然の代表作・選択本願念仏集は兼実が政界で失脚していたときに書いたものである。 法然の人望が高まるにつれて延暦寺・興福寺などの旧勢力から敵視されるようになり、法然の弟子は死罪、自身も土佐へ流される事件もおきている。 因みにこのとき弟子である親鸞も越後に流された。 罷免された法然はやがて帰洛し東山大谷の禅房に篭ったが、5年後の80歳に亡くなった。法然の死後16年たって再び法然教団への弾圧が始まり、延暦寺の宗徒が法然の墓を破却しようとした。(嘉禄の法難) 六波羅探題によって制止されたが前途を危ぶんだ弟子は法然の遺骸を京都西方の粟生野に移し、荼毘にふした。このとき在京の坂東の武士たちは護衛に参加している。粟生野・長岡市にある光明寺は鎌倉武士として名を知られた熊谷直実(源平の合戦・一の谷須磨の浦では平家の敦盛との一騎打ちがあまりにも有名)が法然の弟子となって出家して立てたものである。

 

 以上の経緯から光明寺の境内には法然の廟がある。 浄土宗が広まったのには弟子・源智の働きは大きく、源智は法然の死後、法然供養のために阿弥陀如来像を作ることを目標にかかげ、精力的に布教活動をおこなっていた。 嘉禄の法難後に源智らは法然の大谷禅房を再興して大谷寺としたのが知恩院の始まりである。 現在の知恩院は徳川幕府の庇護もあって広大な境内に多くの伽藍が配置され、三門は最大、80トンの鐘楼も最大である。 ついでに、知恩院の北側には青蓮院といって天台宗の門跡寺院がある。 慈円が門跡を務めた頃から栄え、室町時代の門跡・義円は還俗して足利将軍(義教)になっている。

光明寺本堂から見た法然像、鐘楼等

 

法然(1133-1212)と親鸞(1173-1262)

 15歳で出家して比叡山で修行を積んだ法然が専修念仏を確信したのは43歳である。 主著「選択本願念仏集」をあらわしたのは66歳で親鸞が弟子入りしたのが69歳、流罪となったのは75歳のときだった。 この時親鸞は35歳である。 親鸞が出家したのは1181年、9歳のときで「愚管抄」を著した慈円のところに入門した。 この頃女性を抱いてはいけないという戒律を守っている僧は少なく、この戒律に疑問をもっていた。 後に親鸞の妻となる恵信尼という女性との悩みで京の六角堂という寺に参籠した。 このとき夢告を受けた親鸞はすぐに比叡山を離れて法然の下に弟子入りした。 親鸞は僧でありながら初めて公式に妻帯したのである。 親鸞が越後に流罪になったときに恵信尼との間に信蓮という男子がうまれた。 親鸞にはその前に善鸞という子もおり、三男三女の子福者であった。 「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人をや」 は親鸞の言葉として有名であるが、 これは親鸞の晩年の弟子である唯円が「歎異抄」に記載している言葉である。 この親鸞の教えはたちまち広まったと誤解されているが、実は室町時代には忘れ去られた存在であり、 戦国時代の本願寺に布教家である蓮如がでてきたが、彼が親鸞を深く広く知らしめたのである。 

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