【篤姫命名の理由】 島津の一姫であった彼女が篤姫と改名したのには、先代の篤姫にあやかって名前をもらったことによる。先代の篤姫というのは後に茂姫として長い時代を過ごし出家後は広大院といった。この広大院というのは島津重豪の娘で、幼少のころに一橋治済の長男と婚儀が整っていた。島津重豪の正妻・保姫は徳川宗尹の娘で、娘・悟姫をもうけて仲睦まじかったが、保姫は若くして亡くなっている。島津家にしてみれば治水事件で幕府からさんざんの目にあったが、反抗するわけにもいかずに将軍家と姻戚関係を結んだのである。成長した重豪は将軍家との縁を切らすまいとして長女である篤姫(後の広大院)と一橋治済の長男との婚約を成立させた。ところがこの長男、一橋家の当主で終わるはずであったが、十代将軍・家治の系列が不可解な死を遂げたことで、11代将軍・徳川家斉になってしまった。家斉の妻である広大院は将軍家の正妻となり、重豪は将軍・家斉の舅となった。本来であれば外様大名である島津家の娘が将軍の正妻になることなどありえないのであるが、それが実現してしまった。そして将軍家は薩摩藩を弾圧し、改易に追い込むことができなくなった。こうして島津重豪にとってはうれしいことであったが、それが江戸将軍に負けじと贅沢の限りを尽くして益々財政難を招くという結果となった。
【篤姫が家定の御台所に、家茂の養母になる】 13代将軍徳川家定・正室となった篤姫は、叔父にあたる薩摩藩主島津斉彬の養女となる。家定の世嗣に一橋慶喜を擁立する目的で斉彬は敬子を正室を亡くした家定の後室に推す。将軍家の正室は宮家公卿からとされていたため敬子はいったん近衛左大臣忠煕の養女となり、篤子と改名して御台所となった。ところが家定は一年半後、三十五歳という若さで没し、篤子は二十三歳で未亡人になる。その後、実家・島津家に反して次期将軍に紀伊徳川の慶福(のちの家茂)を立てて養母となった。元々篤姫は一橋家側・斉彬の養女である。家茂の死後跡を継ぐのは一橋慶喜が当然のことながら優勢であったに違いない。ところが結果は紀州の慶福が徳川家茂として第14代将軍となった。これは大奥・瀧山の勝利である。一橋の斉昭が品行方正に欠けて大奥に嫌われていたことや、一橋慶喜自身が将軍になりたくなかったことも大いに関係していたとは思うが、瀧山の権力が将軍を選ぶところにまで及んでいたことには驚く。
【大奥取締役・瀧山の実力】 家茂の御台所として和宮が降嫁するのにあたり、大奥から二の丸に移る。和宮が降嫁したのは1861年、花嫁行列は京都から江戸まで530kmの道のりを25日かけて移動した。総勢25000人、長さ50kmに及ぶ行列である。その費用は900万両であったというから、現在のお金にして1.8兆円。これは日本の海上自衛隊の年間予算に等しい。そしてこれらを取りまとめたのは大奥の取締役・瀧山(将軍5代に仕え実像は不明)であったことが日記から分かった。この日記は瀧山贈答品日記(1859-1868)といい、御台所・和宮からは絹織物・羽二重が、14代将軍や将軍の母・実成院、和宮の母・勧行院からも贈られたことが記されている。因みに1866年7月将軍・家茂の死去のときも、瀧山日記からお悔やみの様子が窺い知れる。
幕府の人事を預かる 明細短冊から大坂町奉行・跡部良弼の異例なる出世 by 本寿院(徳川家定の母:跡部家の出身)
米を幕府に横流し⇒大塩平八郎の乱
【篤姫の権威】 篤姫は、江戸城開城ののちは家定・生母とともに一橋家へ、その後も紀伊邸、尾州家下屋敷、赤坂相良屋敷、千駄ヶ谷(徳川公爵邸)へと移ったが島津家には戻らなかった。将軍・家定の死で、篤姫が天璋院となり喪に服していた頃、大奥に残る決意をしていたまるは、中臈に昇格して女中たちを取り仕切る立場となり、新将軍・家茂と天皇の皇女・和宮の結婚話が進み、大奥に嵐が近づいていた。諸外国との条約調印問題などで対立が深刻化した朝廷と幕府を融和させる政略結婚である。天璋院となった篤姫は、将軍家茂の養母として江戸城大奥を束ね、強い発言力を持ち続ける。将軍家茂に降嫁してきた皇女和宮との嫁.姑の争いは有名な話。しかも家茂付奥女中は約130人、天璋院付奥女中は90人、和宮付奥女中は70人、この他に家定生母の本寿院付、家茂生母の実成院付の奥女中たちと、部屋方といって大奥女中たちが自分の部屋で使う女中も合わせれば、およそ八百人の女たちが江戸城本丸の大奥で暮らしていた。
【大奥瀧山が江戸城を出たあと】 瀧山は1806年、大岡家の娘として四谷に生まれた。大岡多喜は鉄砲百人組の娘で年収は今の100万円程度だというから貧困生活である。16世の時大奥に居た叔母・染嶋の手引きで11代将軍家斉の奉公で大奥にあがった。するとすぐに才覚を認められて御鍵口から御客応答、御年寄りに昇進した。12代将軍・家慶の時に力を持っていた姉小路という上臈御年寄りに可愛がられていたようである。そして家定、家茂、慶喜と5代に渡って将軍に仕えた。瀧山御贈答日記では、全国各地の藩から贈答品を貰うだけではなく、その10年間で395人へ贈り物をしていたことがわかる。瀧山の粋な計らいが伺える。やがて江戸城の開城の前、1867/10月に瀧山は大奥を去っていた。その先は、瀧山の次女・仲野の生家がある埼玉県川口であった。瀧山は次女仲野の親戚を夫婦養子として迎えて瀧山の初代とし大岡姓は残さなかったのである。そして晩年の瀧山の様子を次女仲野(?-1901年)は手記に残している。そして8年後の1876年に瀧山は70歳で亡くなった。墓は錫杖寺にあるが、仲野も同じ瀧山家墓所にある。そして現在瀧山家の子孫が川口市に住んでいるが、そこで瀧山の贈答日記が発見されたのである。
鶴丸城跡地内にある篤姫像
16代島津義久1566-1587
┣17代義弘━18代忠恒(初代薩摩藩主)━2代光久━3代綱貴━4代吉貴━5代継豊┓
┗━━家久1547-1587(義弘 家久の父は貫久) ┃
┣島津豊久1570-1600 ┃
樺山善久娘 ┃
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┃
┃ 徳川宗尹1721-1764(一橋家初代当主・徳川吉宗の四男)
┃ ┗保姫1747-1769
┃ ┣悟姫
┗6代宗信━7代重年━8代重豪┓
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┣広大院1773-1844(篤姫・茂姫)
┃┣-
┃一橋家斉1787-1837(治済1751-1827(一橋家二代当主)の長男)
┃
┃ 徳川宗尹┓
┗島津斉宣1774-1841(第9代薩摩藩主 母:春光院 養母:保姫)
┣島津斉興1791-1859(第10代薩摩藩主)
┣┃┃━島津忠剛1806-1854(今泉家10代当主)
┃┃┃ ┃┃ ┣忠冬1824-1859(今泉家11代当主)
┃┃┃ ┃┃ ┣久敬1829-
┃┃┃ ┃┃島津久丙 ┣一1836-1883
┃┃┃ ┃┃ ┗お幸(島津久丙娘)-1869
┃┃┃ ┃┣島津忠敬1832-1892(今泉家12代当主)
┃┃┃ ┃河野通記娘
┃┃┃ ┣お熊1838-1842
┃┃┃ ┣お龍1840-1840
┃┃┃ 海老原庄蔵娘
┣┃┃━松平勝善1817-1856(伊予松山12代藩主)
┃┃┃ ┗松平勝成(聟養嗣)
┃┃┃ 貞姫(斉彬娘)
┗┃┃━郁姫(島津興子)1807-1850 ┣篤麿1863-1904
┃┃ ┣忠房1838-1873
┃┃ 近衛忠熈1808-1898(安政の大獄で失脚)
┃┃
┃┃直仁親王┓
┃┃ 鷹司政熈(関白)┓一条忠良(公卿)┓堀利邦(旗本)┓
┃┃ 鷹司任子(天親院),一条秀子(澄心院),お志賀(豊倹院)
┃┃徳川家慶1793-1853 ┣-
┃┃ ┣13代徳川家定1824-1858
┃┃実津 ┣-
┃┃ ┏篤姫1836-1883(近衛忠熈養女)
┃┣島津斉彬1809-1858
┃┃ ┃┃┣夭折
┃┃ ┃┃恒姫(徳川斉敦娘)1805-1858
┃┃ ┃┣寛之助1845-1848
┃┃ ┃横瀬克己娘
┃┃ ┣篤之助
┃┃ ┣暐姫(島津忠義室)1851-1869
┃┃ ┣典姫(島津珍彦室)
┃┃ ┣寧姫(島津忠義室)1853-1879近衛忠熈養女
┃┃ 伊集院寿満
┃┣池田斉敏1811-1842
┃┣候姫1815-1880
┃┃┣- 督姫(家康次女)
┃┃山内豊熈1815-1848
┃弥姫(周子:鳥取藩主・池田治道娘)
┣島津久光1817-1887
┃┃┣忠義1840-1897薩摩藩12代藩主
┃┃┣久治1841-1872宮之城家15代当主
┃┃┣珍彦 重富家
┃┃島津千百子
┃┗忠欣 今和泉家
┣唯七郎
┣智姫
お由羅1795-1866斉彬廃嫡を謀略(お由羅騒動)