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白拍子 静御前

2005年09月21日 | 平家物語
私は静御前のファン♪♪

陰陽座のボーカル黒猫は白拍子姿で歌い、踊ります。その勇姿を見れば、誰しもファンになることでしょう。ただ、立烏帽子は着用しませんが・・・。ここで、静御前についてご存知とは思いますがふれてみたいと思います。
磯の善次(磯禅師)の娘として(拾われて育てられた)1167年に生まれた静は6歳で父を亡くし、思い出多い故郷に別れを告げ、母と京都に上りました。巧みな舞と美しさで静は指折りの白拍子に成長。寿永元年(1182年)7月、後白河上皇が京の神泉苑で雨乞いの神事を行った時、召されて舞った直後に大雨となり「日本一」のお誉めにあずかりました。また堺の住吉神社の舞会で平家追討に来ていた源義経に見初められて側室に。静18歳、義経27歳でした。
義経は平家滅亡後、兄頼朝と不仲になり、1185年、11月6日静を連れて吉野山に逃げましたが、途中雪の中で別れ別れとなり、身重の静は11月17日捕らわれて1186年3月1日磯禅師とともに鎌倉に送られました。文治2年(1186年)4月8日、鶴岡八幡宮で頼朝をはじめ並みいる武士たちの前であざやかに舞ったのは有名です。
“吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき 
しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今になすよしもがな"
と義経を慕って歌ったのが頼朝の怒りにふれ、幽閉されました。静は1185年7月29日に男児を生みましたが子は由比ヶ浜に棄てられました。後に許され、1186年9月16日に禅尼となった母と懐かしい故郷の磯に帰った静は、生家跡に小さな庵をつくり、義経の無事と愛児の冥福を祈りました。1189年文治5年静22歳の春により安全な北陸ルートで奥州に向かう。京からの長旅の疲れと病で越後の山里 栃尾の地 栃堀(高徳寺)に来て息を引きとったと言われている。時は建久元年(1190)4月28日静御前23歳 山には雪が残る越後の遅い春のことでした。供として同行した侍女が尼となり静の墓を守ったそうです。その後北条氏(政子)が勢力を増した時に静のことを哀れに思い庵を造り静を供養したそうです。この庵が後の高徳寺だそうです。
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