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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

中宮彰子と紫式部

2007年02月10日 | 平安時代

中宮彰子と紫式部

 藤原彰子(詳細は平安絵巻六 藤原彰子に記載)は藤原道長と源倫子の長女として988年に生まれ十二歳で入内し一条帝の女御から中宮となり、道長・頼通の時勢に、敦成親王(後の後一条天皇)敦良親王(後の後朱雀天皇)を産み、39歳で出家し上東門院の院号宣下を受けた女性である。 この間に後宮では多くの女性文化人を育成しています。 代表的なのが紫式部で、紫式部日記には入内10年目にして後の後一条天皇を出産したときの様子が印されています。 この出産が政権掌握を担う道長にとっていかに重要であったかは、1008年皇子誕生後七夜の祝賀の日に詠まれた 「めづらしき光さし添ふ盃はもちながらこそ千代もめぐらめ」 「曇りなく千歳に澄める水の面に宿れる月の影ものどけし」に象徴されています。

 彰子の時代から約200年後に藤原定家が百人一首を編纂しますが、56番から61番までの6人が中宮彰子に仕える女性歌人であることは驚きです。 簡単に紹介しますと、

  56番「あらざらむこの世の外の思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな
   ・1009年、40歳の頃に彰子に仕えた和泉式部の歌
   ・この出仕が縁で道長の家司・藤原保昌と再婚して道長一門の一人となっています。

 57番は「めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲がくれにし夜半の月かな
   ・と詠んだのは30半ばで彰子に出仕し、道長の財力を後ろ盾に源氏物語を書いた紫式部です。

 58番「有馬山いなの篠原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
   ・大弐三位といって藤原宣孝の娘で母は紫式部です。
   ・名は藤原賢子で、彰子が出家をした後に出仕し、藤原兼隆の妻
   ・一条天皇の孫・親仁親王(後の後冷泉天皇)の乳母
   ・その後、正三位大宰大弐高階成章と再婚し1038年為家を生む
   ・1045年後冷泉天皇即位とともに、従三位典侍となったことから大弐三位と呼ばれるようになったのです。

 59番「やすらはでねなましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな
   ・「栄華物語」の著者で、道長を通して完全なる理想像を描いた赤染衛門です。
   ・受領・赤染時用の娘で、道長の正妻・源倫子に仕え、後に文章道の学者大江匡衡の妻となっています。

 60番「大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立
   ・和泉式部の娘で、藤原教通・藤原定頼・藤原範永など多くの高貴な男性との交際で知られ
   ・藤原道長の五男教通との間には静円、範永との間には娘をもうけた小式部の歌です。

 61番「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂いぬるかな
   ・頼通の時代には上東門院筆頭女房として政治的にも力を発揮した伊勢大輔
   ・この歌により一躍宮中に名声を博したのです。 
   ・こうしてみると、いかに彰子の周りで偉大な女性歌人が育っていったかがわかります。

なかでも世界的に評価の高い長編小説・源氏物語を残した紫式部
   ・藤原道長が選んで後宮に入れた女房
   ・源氏物語のなかに約8百首に及ぶ歌を残しました
   ・源氏物語は紫式部が夫・藤原宣孝と死別した1001年頃から書き始め、約10年をかけて54帖を完成させたといいます
   ・その後紫式部日記を書き、一時は後宮の出仕から退下したものの1018年に再び彰子に出仕し、
   ・晩年には紫式部集を編集しています。

1011年一条帝は32歳で崩御し24歳の彰子
   ・幼き敦成親王、敦良親王とともに残された時に次の歌を残しています。
   ・
逢ふことも今はなきねの夢ならでいつかは君を又はみるべき
   ・
うつつとも思ひ分かれで過ぐるまに見し世の夢をなに語りけん
   ・
見るままに露ぞこぼるるおくれにし心も知らぬ撫子の花
   ・
彰子は妹・嬉子や息子・敦成親王、女房・小式部の死を体験して出家を志し、
   ・1026年上東門院となりますが、悟りに到達することは難しく
   ・「にごりなき亀井の水をむすびあげて心の塵をすすぎつるかな」と詠んでいます。

 ┣ 道長━┳ 頼通━┳ 師実━━ 師通━━ 忠実━┳ 忠通
 ┃    ┃ ┃ 宇治殿 ┗ 寛子(後冷泉后)     ┗ 頼長
 ┃┏源倫子┣ 教通(996-1075 和泉式部娘・小式部を妾とする。本妻は公任・娘)                          
 ┃┃(鷹司)┃      ┣ 歓子(1021-1102後冷泉后)   ┣信長  
 ┃┗時中 ┃      ┣ 真子(後冷泉女御)      公任娘 
 
┃父:雅信┃920-993 ┗ 生子(1014-1068後朱雀女御) 
 ┃  重信┃-995          ┃延子(藤原頼宗娘) 
 ┃    ┃              ┃ ┃嫄子(敦康親王娘)1016-1039 
 
┃    ┣ 彰子988-1074上東門院 ┃ ┃┣祐子内親王,禖子内親王

 ┃    ┃ ┣敦良親王(69代後朱雀)1009-1045━┳良子、娟子内親王(斎院)
 ┃    ┃ ┣敦成親王(68代後一条)1008-1036┓┣尊仁親王(71三条帝)
 ┣ 道綱 ┃ 66代一条帝980-1011       ┃┃┣貞仁72白川帝1053-1129   
 ┣ 道義 ┃                          ┃┃┣篤子内親王(斎院)1060-1114
 ┃    ┃ 67代三条帝976-1017         ┃┃藤原公成娘
  ┃974-1004┃ ┣禎子内親王1013-1094陽明門院  ┃┛
 ┣ 綏子 ┣ 妍子994-1027          ┣章子内親王1026-馨子内親王1028- 

 ┃  ┃ ┣ 威子998-1036         ━━━━━┛ 藤原教通娘・歓子1021-1102 
 ┃  ┃ ┗ 嬉子1007-1025(産後死去,後冷泉母) ┣ - 

 ┃  ┃        ┣親仁親王70代後冷泉(紫式部娘賢子が乳母) 
  ┃  ┗━━━━┓69代後朱雀               ┣ - 
 ┃954-982       ┃娍子972-1025(藤原済時娘)     藤原頼通娘・寛子1036-1127
 ┣ 超子(ゆきこ)┃ ┣敦明親王994-1051小一条院

 ┃  ┃    ┃ ┃ ┣敦貞親王
 ┃  ┃    ┃ ┃延子(顕光娘、一条帝女御元子の妹) 
 ┃  ┃    ┃ ┣敦儀、敦平、師明親王、当子(斎宮)、子内親王
 ┃  ┣居貞イヤサダ親王67代三条帝976-1017 
 ┃  ┃      ┣ 
 ┃  ┃     道隆次女・原子
 ┃  ┣為尊親王977-1002(弾正ノ宮:和泉式部を寵愛)
 ┃  ┃  ┣
 ┃  ┃ 九ノ御方(伊尹娘)
 ┃  ┣敦道親王981-1007(師ノ宮:和泉式部を寵愛) 
 ┃ 63冷泉帝        ┣ 
  ┃   ┣ -        藤原娍子の妹
  ┃   昌子内親王950-999 
 ┗ 詮子(東三条院 兼家娘)962-1001出家後土御門第へ移り、道長は一条院へ。 
    ┣懐仁カネヒト親王(66代一条帝)
   64円融帝959-992
     ┣ - 
    后・遵子-1018(頼忠小野宮殿娘)

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