清少納言と中宮定子
清少納言といえば「枕草子」、そして枕草子の中で憧憬を描き続けた中宮様は藤原定子です。 定子は第66代一条天皇の皇后。 一条天皇は父に円融天皇、母に藤原兼家の娘・詮子を持ち、藤原摂関家全盛の力を受けて日本文化の中でも最も華やかな一条朝時代を築いた天皇です。 定子の父は藤原道隆、母は高階貴子という歌人でもあります。 定子(詳細は平安絵巻五 藤原定子に詳述)は990年に14歳で、11歳の一条帝の女御として入内し同年中宮となります。 その3年後に出仕したのが清少納言( 清少納言は梨壺の五人の一人である清原元輔を父に、管弦の名手と云われた清原深養父を祖父に持ち、981年頃、橘則光と結婚し則長を産みますがすぐに破局を迎えています。 )で、枕草子のほぼ全編を通して定子の姿を描いています。 清少納言が定子の後宮に出仕してすぐに里下りしたときに、定子は 「いかにして過ぎにし方を過ぐしけん暮らしわづらふ昨日今日かな」 と贈ると 「雲の上も暮らしかねける春の日をところがらとも眺めつるかな」 と清少納言が返歌しています。 後宮での楽しい毎日が一変したことの心に、毎日心ときめいて過ごせる喜びを伝えています。
また乳母である大輔の命婦が夫の赴任地・日向に向かうとき、餞別として贈った扇には、「あかねさす日に向かいても思ひでよ都は晴れぬ眺めすらむと」
定子入内の5年後、995年父・道隆が没し翌年、兄伊周・隆家らが失脚すると宮中での定子は一転して存在力を失い、道長の長女・彰子の入内により、形式上の皇后となり排除されてしまいます。 以降は一条帝から寵愛を受けるものの1000年、女美子内親王を出産したときに25歳で生涯を閉じます。 この時の辞世の句が 「夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき」 「知る人もなき別れ路に今はとて心細くも急ぎ立つかな」 があります。 また赤染衛門の栄華物語には 「煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれと眺めよ」 が記されています。 そして定子の葬列に列することができずに宮中に残って見送った一条天皇は 「野辺までに心ひとつは通えども我がみゆきとは知らずやあるらん」 という魂の返歌をし定子に対する愛情の深さを伝えているのです。
彰子が入内し中宮になり、定子が排除されたとき、その寂しさに忠勤した清少納言に対して定子は 「みな人の花や蝶やといそぐ日も我が心をば君ぞ知りける」 と褒めたのに対して清少納言は喜びで一杯になります。 こうした奥深いところで繋がり、中宮定子の才能と感性に触れながら、歌人として成長できたからこそ、清少納言は類稀なる文体によって創造された枕草子を生み出すことができたのです。 「春は曙。やうやう白くなり行山ぎは、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。・・・・・」 季節の瞬間美を詠った冒頭です。 春といえばすばらしきは、曙時といっています。 それよりも前の暁時ではなく、また後のあさぼらけでもなく。 徐々に明るくなって山際は・・・赤紫の雲が・・・と刻々と移り変わる自然の情景美を表現しています。 こうした鋭い感性を磨いたのは中宮定子であり、宮中での至上のときを快活に表現したのが枕草子なのです。
1000年定子の崩御で清少納言は定子一族と運命を同じくして宮廷を去り、摂津守藤原棟世と結婚し小馬命婦を産みます。 小馬命婦は彰子に仕えたことから上東門院小馬命婦とも云われ、 後に元輔の旧居に住む清少納言のことが赤染衛門集でてくる程度で、消息は定かではありません。
┳ 道隆953-995(中関白家)
┃ ┣━┳伊周コレチカ974-1010┳道雅(三条帝娘・当子内親王と恋愛)
┃ 高階成忠┳タカシナ貴子┃ ┣大姫
┃(高二位殿)┃ -996 ┣隆家979-1044 ┗小姫
┃ 923-998 ┣信順マサノフ┣御匣殿985-1002(定子亡き後、養母として入内)
┃ ┣明順 ┣頼子姫(敦道親王師ノ宮の妻)
┃ ┗光子 ┣原子姫980-1002(居貞親王女御)
┃ (定子乳母)┗定子977-1000 里邸二条
┣ 道兼961-995┳兼隆985-1053┣脩子内親王 996-1049
┣兼綱 ┣敦康親王 999-1018
┣尊子984-1022┣よし子内親王1000-1008
繁子(師輔娘)┃ ┃
66一条帝980-1011(乳母は橘徳子)
┃ ┣ ┗在国
┃義子974-1053(公季娘)
元子979-?(顕光と盛子内親王の娘)