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藤原道隆の次男・伊周

2010年06月17日 | 平安時代

 993年、太政大臣・為光と左大臣・源雅信(道長妻・倫子の父)が74歳で亡くなった。道長にとって大きな打撃であるが、さらに追い討ちをかけたのは兄・道隆の次男・伊周が道長と同じ権大納言となったことである。 それまで、源重光が権大納言であったが70歳の老齢を理由に伊周に譲ったのである。 源重光は父が醍醐天皇の第三皇子・代明親王、母が藤原定方の娘で、源高明とは従兄弟同士の間柄であるが、娘が藤原伊周に嫁いでいたのである。 道長が姉・詮子という後ろ盾を得て従二位になってはいたが、すぐ後ろにまで伊周は迫ってきていた。 世間ではこの年は疫病が蔓延して風葬・火葬にされずに道端には捨てられた遺体の山であったという。世が不安定になると放火・強盗が増え、宮中の後涼殿(一条帝の寝所である清涼殿の続きの御殿)にまで放火されている。この頃に宮中に才女として登場するのが清少納言である。 道隆が40歳で栄華を誇っていた頃、中宮・定子に仕えた30歳前後の清少納言が残した枕草子からは、疫病が蔓延して放火騒ぎにあけくれた世間とは全く別世界の宮中が艶やかに描かれている。恐らく清少納言にとっては道隆というのは手の届かない存在であったに違いない。 

 疫病神を祀る御霊会などが行われた秋に、また人事異動があった。右大臣・源重信は左大臣、藤原道兼は右大臣、そして権大納言の伊周が内大臣となり道長をもついに追い抜いてしまった。  994年、あいかわらず疫病が流行しているさなかの5月9日、東宮女御の娍子が三条天皇との間に第一皇子を産んだ。 後に皇位候補となる敦明親王である。 こうなると心中穏やかでないのは道隆である。しかも娍子は藤原済時の娘、小一条家であるから反九条側であり、まだ18歳であどけない定子が身篭りそうにないことを思うとなお更である。東宮は一条帝よりも4歳年上であるし、娍子は23歳で肢体も熟れきっているから定子よりも先に皇子が誕生するのは仕方ないことなのである。 道隆が小一条・済時を抑えるために先手を打って伊周を内大臣に据えたのも頷ける。 そして翌年995年1月19日に、道隆は次女の原子を東宮女御として押し込んでいる。 この時、原子は15歳で娍子が生まれたばかりの皇子を抱いて里邸に下がり、しきたりとはいえ親子は別れることになるが、もう一人影が薄くなった女性がいる。 道長の異母妹・綏子である。父・兼家がなくなり後ろ盾をなくした綏子は、三条天皇に入内した時の煌びやかさとはうってかわってひっそりとしていた。ところが実はこの時、綏子にはこともあろうに源頼定という公達と道ならぬ恋を楽しんでいたのである。 源頼定といえば、安和の変で失脚した為平親王の許に嫁いだ源高明の娘・保子が産んだ遊び人である。 綏子はおっとりした反面、母親譲りの大胆不敵な一面があるようだ。

  第67代三条天皇陵は花山天皇陵のすぐ北側の住宅地内にあります。 三条天皇は冷泉天皇と藤原超子の間にうまれ、兼家の寵愛をうけたが、一条天皇の長期政権により1011年、36歳という異例の即位であった。 順風であった兼家時代から、道長の時代にはいっては皇子の敦明親王の立皇太子を約束して、1016年退位し、翌年に御崩御。  即位後に藤原綏子、藤原原子を妃として持ったがともに皇子女を持つことはなく、綏子は臣下・源頼定と密通し、原子は不審な死を遂げるなど、不遇な世を送った。

 

 この年の3月、関白・道隆が病に倒れ、関白辞任を申し出、代わって内大臣の伊周に文書の内覧をさせたいという。 文書の内覧とは天皇の許に提出される書類を下見することであるが、実質的にはこれで行政全般を掌握することができる。 つまり伊周への実質的な権限委譲を図ったのである。これらは蔵人を通じて天皇とやり取りするが、このときの蔵人は源俊賢と並んで蔵人を務めていた近衛中将藤原斉信である。 斉信は為光の次男で、兄・誠信と違って四納言(他の3人は源俊賢、藤原公任、藤原行成)とうたわれる程才覚に満ちた御方でした。 またこの時、伊周を押し上げるために高階信順などの高階一族(伊周の母方)が働きかけを行ったのは言うまでもない。

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