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幕末の志士が会合した翠紅館跡

2010年03月24日 | 幕末

 京都東山の八坂五重塔から産寧坂とも三年坂とも呼ばれる風情あふれる参道をあるいていると、翠紅館があったという石碑にでくわした。 幕末に吹き荒れた尊王攘夷が一瞬にして潰れ、長州藩士や天誅組が闇に葬られたきっかけとなった会議が行われたのが、ここ翠紅館なのである。 今となっては多くの行楽客が訪れ、東山特有の情緒あふれる観光スポットであるが、160年前にはまさに激動の舞台であった。 

 翠紅館は正法寺の子院で、眺望に優れ庶民の遊興や文人の詩歌・書画会などの貸席として使われ叔阿弥と称した。1830年頃に西本願寺の所有となり荒廃していた庭園や書院は整備されて翠紅館と称した。   八坂の塔から東山を登ると東山三十六峰の霊山がある。 その歴史も平安時代に遡り、清少納言が「釈迦仏の御住処」と書いているように近畿の代表的な霊山寺があった。 この霊山寺がすたれたあと時宗の僧・国阿が寺を復興したのが正法寺なのである。 時宗は伊予の河野氏の出である一遍がはじめ発展した。 一遍に率いられた男女の集団はよく旅をし、それを遊行といった。 国阿は伊勢神宮を信仰したびたび伊勢参詣にでかけたという。 正法寺のお堂にある木像は国阿のものらしく、伊勢参詣の前には必ず国阿堂に参り、行路の無事を祈願したという。  

 ところで正法寺の子院である翠紅館は、幕末の時代に勤王の志士達が頻繁に集会をおこなったことから有名になった。 1863年には反幕府勢力の各藩志士代表者の会議がもたれ、攘夷の具体策が検討されたが、これを翠紅館会議といった。 この石標は翠紅館の跡を示すもので、現在では料亭として使用されている。 1863年の正月27日には土佐藩武市半平太、長州藩井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まったという。 また、同年6月17日にも、長州藩桂小五郎、久留米藩真木和泉守らが集まった。 つまり、尊皇攘夷派の長州藩と公家は、孝明天皇の大和行幸の機会に攘夷の実行を幕府将軍・諸大名に命ずる事を孝明天皇に献策しようとしたのである。 しかし錦の御旗をもととした献策は事前に薩摩藩に察知され、薩摩藩・会津藩・孝明天皇・公武合体派公家(青蓮院宮ら)の連帯により長州藩の計画は潰された。 これが8月18日の政変・文久の政変である。

 実はこの数年前から攘夷運動は徐々に高まっていき、1863年8月13日には孝明天皇の大和行幸の詔書が出されて攘夷運動は頂点に達したのであるが、天誅組挙兵直後の8月18日の政変により、三条ら尊攘派公卿は失脚、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされた。 孤立した吉村寅太郎ら天誅組は、幕府の討伐軍に対抗するために十津川郷士を募兵するが、 諸藩の大軍の攻撃を受けて敗退し、 中山忠光を逆賊とする詔が下るに及んで十津川郷士も離反する。 天誅組は諸藩からの攻撃から脱出すべく紀州・彦根藩兵と吉野山にて戦闘となり、主将の中山忠光は辛うじて脱出するが、ほとんどが戦死するか捕縛され天誅組は壊滅した。 この時、吉村虎太郎も津藩兵に発見され射殺されている。

 

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