東福寺北大門を東へ行くと東福寺塔頭・退耕庵がある。 退耕庵は、1346年に東福寺・性海霊見和尚によって創建された。 応仁の乱(1467~77)により荒廃するも、関ヶ原の合戦前年の1599年に退耕庵・住持 安国寺恵瓊によって再興された。 恵瓊は安芸国の守護大名・武田信重の子で、毛利元就に滅ぼされ安国寺に逃げると修行に励み僧となった。 そして東福寺塔頭・退耕庵主の恵心の弟子となり恵瓊の法名を名乗った。 後に、石田三成、宇喜多秀家らと親しくなり、関ヶ原の合戦で破れたため、六条河原で小西行長、石田三成とともに斬首されたという。 三条河原に晒された恵瓊の首は手厚く埋葬されたという。
この退耕庵入口には小野小町遺跡である「小野小町百歳の井戸」があり、小町が老いた我が身を写して嘆いたという井戸である。 あまりにも有名な 「 花の色は移りにけりないたづらに 我が身世に降るながめせしまに」 の小町の歌が由来となっていると想像できる。