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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

黒田官兵衛46 黒田長政築城の福岡城

2015年07月08日 | 戦国時代

福岡城は黒田孝高(官兵衛)・長政父子によって1601年から7年の歳月をかけ築いた城

江戸時代を通じて福岡藩黒田氏の居城として知られている

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黒田官兵衛45 後藤又兵衛ゆかりの西岸寺

2015年07月05日 | 戦国時代

 加西市北条町北条にある西岸寺は、後藤又兵衛の甥が僧となった寺である。又兵衛の妹は、神吉城主・神吉頼定に嫁いだが、1578年7月16日、織田信忠軍による神吉城の戦いで落城。当時5歳だった子、房太郎は逃れて後に仏門に入り、この西岸寺の第12世の僧となったと伝えられている。

近くの北条駅で開催されている又兵衛展

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黒田官兵衛44 後藤又兵衛の菩提寺・多聞寺

2015年07月02日 | 戦国時代

 加西市にある多聞寺は黒田官兵衛の二十四騎士の一人、後藤又兵衛の菩提寺である。黒田如水・豊臣秀頼に仕えて数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」の一人に数えられた。黒田官兵衛の嫡男・長政との確執はしられているが、その裏づけとなっているのが黒田家秘書という兵庫県立図書館に行けば見ることができる古文書は、1824年に模写されたものであり、ここに紹介するものも甲申中秋との記載があることから1824年の写しとの注釈があった。播州明石の人で、黒田家帰依した高僧・空誉上人が朝鮮出兵の際も黒田家の秘書役として従軍していることから、この古文書の著者は空誉上人と思われているようです。これ以上のことはわからない。黒田家譜などの古文書に関する勉強会が不定期ではあるがあるらしいので是非その機会には参加したい。ところで著者・空誉上人は黒田官兵衛二十四騎の一人であり、キリシタンである後藤又兵衛と仲が良かった。これが災いして、黒田家3代藩主・黒田忠之により惨殺されている。 

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黒田官兵衛43 光雲神社 母里太兵衛

2015年06月10日 | 戦国時代

 ここは福岡県福岡市西公園にある光雲神社。福岡城から徒歩でも行けるところであったが、疲労困憊ゆえタクシーで移動。坂道の参道を見た瞬間歩かなくて良かったと思った次第。黒田氏初代・黒田孝高(龍光院殿)とその子で初代福岡藩主・黒田長政(興雲院殿)が祀られている。光雲神社は二人の法名から由来している。福岡といえば黒田官兵衛というのが福岡の定番であり、博多駅では黒田官兵衛せんべいなどなどゆかりのお土産がいっぱいである。しかしそれは間違いで、福岡という街を作ったのは紛れも無く黒田長政である。関ヶ原戦で功を挙げた長政は徳川家康から52万石を与えられて大大名となり、福岡藩を立ち上げて初代藩主になり福岡城を築城したのである。因みに福岡という地名は黒田ゆかりの備前の地から名づけた。その頃黒田官兵衛はというと太宰府で隠居生活をしていた。ところで光雲神社の境内には、福岡藩士で黒田二十四騎の一人・母里太兵衛像があった。像の下部には黒田節の歌詞が刻まれている。母里太兵衛が持っている槍・日本一号は福島正則からもらったもので、黒田節にでてくるのは周知のことである。

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黒田官兵衛42 隠棲生活の地

2015年04月25日 | 戦国時代

 関ヶ原の戦いの前、筑前国に入った黒田官兵衛は閑雅な太宰府に移り太宰府天満宮の境内に隠棲した。その理由の一つに「連歌」がある。文化人・黒田官兵衛は、和歌・連歌の神としても知られる菅原道真公を崇敬し、連歌会を開き太宰府天満宮に連歌を奉納するなど興隆に力をいれ、戦乱で荒廃した天満宮の境内を造営するなど太宰府天満宮の復興に尽力したという。その期間は1年半ほどの短いものであったが、茶の湯などに使っていたといわれる井戸が、今も境内にあり、井戸の裏には黒田家隆盛の礎ともいえる「目薬の木」が植えられている。

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黒田官兵衛41 赤松・尼子と歴史に残る上月城址

2015年04月19日 | 戦国時代

 播磨の国、作用の地を治めていたのは赤松氏。近辺にある播州CC、船坂CC、作用CCなどのゴルフ場へいくたびに気になっていたのが赤松氏を城主とする上月城。今回、ダイヤモンド作用CCの帰り道に頑張って登山を敢行して頂上にある上月城址まで行って来た。わずかに400mですが急勾配登山はほんとうに辛かった。。播磨国の中世が赤松氏、北条氏と大きく関わっていた説明は次。

 播磨国はもともと平家の知行国であった。源頼朝によって鎌倉幕府が成立すると守護制度が設けられ、最初に播磨守護となったのは北条義時と懇意の梶原景時であった。 赤松氏系図に登場する赤松則景が佐用庄地頭職に補任せられ、北条義時の娘を娶った豪族である。 則景の子、間島景能・上月景盛・櫛田有景など則景の一族には景の字が多く襲名されれおり、播磨守護梶原景時との関係が伺える。しかし梶原景時は、1199年千葉常胤弾劾状によって失脚し、討たれてしまった。この事件に際し、北条義時は梶原氏擁護の立場に廻っている。 梶原景時失脚後、播磨の守護は小山朝政が任ぜられたが、執権北条義時の息のかかった佐用庄では、たとえ梶原景時と関係の深い赤松則景であっても、守護や幕府はその佐用庄地頭職を解任することはできなかった。 赤松氏の祖家範は則景の末子となり、佐用庄の一部の赤松村の地頭代官に補せられた。 鎌倉時代、播磨に地頭として、あるいは地頭の被官として下向した東国武士は、元弘の乱から南北朝期にかけての赤松円心を中心とした赤松一族の躍進によって赤松氏の被官となり、さらに婚姻などによって一族化することで播磨国の中世は、赤松氏によって大きく開かれていく。

赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
  ┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
  ┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く) 
  ┣赤松則祐1314-1372 
  ┃ ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
  ┃ ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝 
  ┃ (摂津有馬氏祖)  ┣赤松祐尚(英賀城主 足利義教近習)  
  ┃                 ┃ ┗則尚1425-1455
  ┃          ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)  
  ┃           ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
   ┃           ┗赤松時勝 
   ┃   置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
   ┃              ┗娘  ┗赤松村秀1480-1540(庶流) 
   ┗赤松氏範1330-1386      ┣  ┗赤松政秀?-1570┳赤松政広1562-1600竹田城主 竜野城主 
    ┣氏春      (置塩城主)赤松義村?-1521   ┏娘┛
    ┣家則           ┣赤松晴政 1513-1565
    ┣祐春           ┃ ┗赤松義祐1537-1576 信長に通じる
    ┣季則           ┃   ┗赤松則房?-1598 秀吉に仕える
   ┗乙若丸          ┗政元1500-上月城主 ┗則英?-1600 関ヶ原では西軍・自害(赤松氏嫡流は途絶える)


 戦国時代末期になると宇喜多系上月氏、や秀吉系尼子氏が入城。三木合戦が始まる少し前、上月城の戦い(1578/4/18-7/3)が始まった。毛利軍と尼子勝久を担いだ尼子残党、つまり織田軍との戦いである。尼子勝久を担ぐ山中幸盛(鹿介)らの尼子氏再興軍が、織田側により上月城の防衛を任されたのである。毛利軍が上月城に向かったとの報を受けた羽柴秀吉は、三木城の攻撃を継続させつつ、自らの手勢を率いて尼子軍支援のために動いた。これに対して、圧倒的大軍で上月城を包囲した毛利軍は兵糧攻めにより城兵の戦意を喪失させる作戦にでる。この時、織田信長は三木城の攻略と毛利軍の足止めのために、神吉城・志方城・高砂城といった三木城の支城攻略に力を注いだため、秀吉の上月城応援の嘆願むなしく、尼子軍は絶望的な状況に立たされた。擁すれば上月城の尼子軍は事実上の捨て駒として扱われたのである。秀吉の尼子救済の嘆願は、黒田官兵衛の思惑が大きく働いていると思われる。(根拠は下記系図) 孤立した尼子勝久は自刃、山中鹿之助は毛利軍により備中松山に移送される途中で(岡山県高梁市)で殺され、首は鞆の浦(広島県福山市)に送られたという。 (高梁市も鞆の浦も行っているが山中鹿之助ゆかりの場所には気づかなかった。) かくして勝利した毛利氏はこの戦いを契機に本格的に織田氏との戦争状態に入っていった。因みに同年7月に荒木村重が石山本願寺と連携し、織田氏から離反している。

 (捕捉追記)上述のように織田信長の本意は三木城の支城を攻略することである。神吉城主・神吉民部太輔頼定は1578年8月19日陥落。そもそも加古川城での毛利討伐の軍議により、別所氏と羽柴秀吉が決裂した際に、城主・神吉頼定は別所側に就いた。秀吉は、神吉攻めのまえに、野口城を落城させ、1578年7月27日に神吉合戦が始まった。戦力が大きく違うのは明らかで、神吉城はまもなく落城したのである。そして次に落城したのは志方城、城主は櫛橋伊定、1579年9月1日のことであった。この間、三木合戦はずっと続いているのであるが、結局終わったのは1580年2月2日であるから役2年間に渡っている。この間に三木氏を継続して支援したのは、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木通秋である。海沿いにある高砂城や魚住城などに兵糧の陸揚げがされて、そこから三木城に陸送されるという陸海輸送が頻繁に行われたのである。このときに大きく応援したのが、先に当ブログで紹介した村上水軍である。

黒田重隆1508-1564(龍野城主・赤松政秀→小寺政職に仕える)
  ┗黒田職隆1522-1585(姫路城代)⇔赤松政秀
  ┃┣娘         蜂須賀正勝1526-1586           
  ┃┃┣-         ┣蜂須賀家政1558-1639   
  ┃┃浦上清宗-1564    ┗イト
  ┃┣黒田官兵衛孝高1546-1604  ┣-  
  ┃┃      ┣①黒田長政1568-1623
  ┃┃      ┣黒田熊の介 ┃      
  ┃┃ 櫛橋伊定 ┃1582-1597  ┃
  ┃┃    ┣光姫1553-1627  ┣黒田高政1612-1639東蓮寺藩初代  
  ┃┃    ┣櫛橋政伊?-?   ┃  
  ┃┃    ┣妙寿尼1545-1613┃  
  ┃┃ 小寺政隆娘┣黒田正好  ┃  
  ┃┃     上月景貞    ┃  
  ┃┃             ┃  
  ┃┣黒田利高1554-1596     ┣黒田長興1610-1665秋月藩初代      
  ┃明石宗和娘(小寺養女)    ┣②黒田忠之1602-1654
  ┣黒田利則1561-1612      栄姫 
  ┣黒田直之1564-1609         
 神吉氏

文政年間建てられた赤松氏の供養塔

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2015 花見最盛期の平野神社

2015年04月04日 | 戦国時代

 桜の時期になると花見で界隈はにぎわう。平安時代には貴族の間で楽しまれ、大規模に開催されたのは戦国時代に豊臣秀吉による醍醐の花見が最初だと思われる。1598年に醍醐寺一帯で大掛かりな花見が行われるに際して近畿各地から桜の木を移植させているが、このとき多くの武士たちが二度目の朝鮮出兵を強いられていたという裏面があることも事実である。実は醍醐寺は一般的にいう下醍醐ではなく、東方の笠取山にそびえる上醍醐から信仰は始まった。醍醐天皇が907年に醍醐寺を天皇の御願寺としたときに建立されたのが薬師堂で、現在の建物は1124年に再建されたが、上醍醐では最古の建物である。

 

 そして京都で花見といえば平野神社が有名である。その理由は約一ヶ月に渡って楽しめる品種の多さによる。60品種に及び3月末から4月終わりまで楽しめるというから凄いのである。平野神社は金閣寺の南、北野天満宮のすぐ西にあり、794年、桓武天皇による平安遷都にともない、平城京で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始まる。 『文徳天皇実録』によれば、851年今木神に従二位が授けられ、その中で当社のことを「平野神宮」と記述している。その後も神階は昇って行き、今木神に最高位の正一位の神階が授けられている。神紋は桜で、平安時代に花山天皇によって境内に数千本の桜が植えられたのが起源で、平野桜祭りとして今に残っている。

 

さて、明日は岡山県倉敷へ桜をバックに撮影をしてきます。雨模様ですがそれもまた風情があってよし。

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乃美宗勝の居城 安芸・賀儀城址

2015年02月11日 | 戦国時代

 安芸・賀儀城址は平忠盛ゆかりのJR忠海駅のすぐ西側にあり、安芸・浦氏によって築かれたわずか標高20mの水軍城であるが、瀬戸内海を一望できる。浦氏は小早川宣平の七男・氏実が豊田郡浦郷を所領して浦氏を称したことに始まり、代々小早川氏に従った。以下の系図でもわかるように毛利家と強く結びついていることがよくわかる。浦氏は五代・元安に嗣子がなかったため、乃美家氏の子賢勝に家を継がせた。賢勝の子が浦宗勝(乃美宗勝)で、毛利元就が厳島で陶晴賢を敗った厳島合戦において、村上水軍を味方にするべく外交をした人物として有名である。1561年には大友氏の武将伊美弾正左衛門を討ち取り、1568年には尼子再興軍や大内輝弘の挙兵によって、毛利の主力が九州より引き上げる中、少数にて立花山城に籠城、1575年には織田信長と対立する石山本願寺への兵糧補給戦でも活躍している。この活躍については和田竜著・「村上海賊の娘」のなかで詳しく描かれており、当ブログでも紹介した。ここ賀儀城址にはもう城の痕跡はほとんどなく一部に土塁が残っているだけである。また海側から見ると城の真下に豪が設けられており、こはや舟を格納していたと思われる。

乃美隆興1513-1598(小早川弘平の子として生まれ乃美を称した)
┗乃美大方?-1601
  ┣毛利元清1551-1597
毛利元就1497-1571  
  ┣毛利隆元1523-1563       
  ┃    ┗輝元1553-1625             
  ┃ 児玉就方1513-1586
  ┃  ┗児玉就英1534-1612(毛利家海賊衆)
  ┃
  ┣吉川元春1530-1586       
  ┣小早川隆景1533-1597    
  ┃乃美家氏
  ┃ ┗乃美賢勝
  ┃   ┣?村上吉充室
  ┃   ┗乃美宗勝1527-1592(小早川家海賊衆:賀儀城主) 竹原忠海町豊臣秀吉の文禄の役で宗勝も朝鮮へ出陣
  ┃     ┗嫡男の浦盛勝
吉川国経女

村上水軍博物館にある安宅船・関船・小早

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黒田官兵衛40 下克上の連鎖は宇喜多直家に始まる

2014年06月26日 | 戦国時代

 謀略家で知られる宇喜多直家であるが、その腕前はというとこの新聞記事に代表される。そして毛利家との結びつきによって備前での地位を固めた。ところが織田信長が毛利と敵対すると、すぐに中立の立場をとり、両方を牽制しながら結局は織田側に寝返ったが、すべては宇喜多家存続を守るための戦略である。先に次男・秀家を紹介したが、死後も秀吉に取り上げられて5大老にまで上り詰めたことを考えると直家の手腕に驚く限りである。

 岡山城、それは南北朝時代(1346年 ~1369年)に、名和氏の一族上神高直が石山台に城を築いたのが最初と「備前軍記」に書かれ、その後戦国時代まで城主は明らかではない。戦国時代(1521-1528)には、金光氏支配し、1570年宇喜多直家が金光宗高に代わってこの地を支配した。宇喜多直家は備前守護代・浦上氏の一族浦上宗景の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸張し、1573年居城である亀山城(沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行った。この頃の石山城(岡山城)には、北方の山裾にあった西国街道が、城下に導かれ、備前福岡、西大寺などから商人を呼び寄せ、流通主導による経済振興政策がとられた。信長が安土城を築城する3年前のことである。天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行いやがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置いた。この下克上の連鎖は宇喜多直家が1559年に舅の中山信正と島村観阿弥を謀殺したことに始まる。この二人は浦上宗景の重臣であったが、直家は酒に酔った信正を殺した上、援護に駆けつけた観阿弥も討ち取った。そして隣国備中で勢力を伸ばしていた三村家親も謀殺、その子元親をも1567年に破った。この時点では直家はまだ浦上宗景の家臣であったが、1569年に宗景に対して反旗を翻した。こうして備前・備中を支配すると美作まで勢力を伸ばすために城を岡山に移し、毛利輝元と同盟を結んでいる。これにより毛利輝元の助けを借りて三村元親を討ち、主君の浦上宗景をも打倒した。つまり下克上の裏側には主君と対立する立場の相手と同盟を結んで見方につけるというような戦略眼があるのである。

宇喜多興家-1536浦上氏家臣
 ┃中山信正1510-1559浦上氏家臣
 ┃ ┗娘
 
┃  ┣-
 
┗宇喜多直家1529-1582
  
┣三浦桃寿丸?-1584
  ┣容光院?-1591
  ┃ ┣
  ┃ 吉川広家1561-1625
  ┃吉川元春┛
  ┣宇喜多秀家1572-1655(八丈島に配流)
  ┃ ┣秀高1598-1641
  ┃ ┣秀継高1599-1657
  ┃ ┣娘
  ┃ ┃┣邦尚親王1615-1654
  ┃ ┃伏見宮貞清親王1596-1664(伏見宮10代当主)
   ┃豪姫1574-1634(前田利家の4女) 
   ┣忠家1533-1609
   ┣春家?
  円融院1549-?(三浦氏) 

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黒田官兵衛39 宇喜多直家が秀吉に頼んだこと

2014年06月25日 | 戦国時代

 1582年2月1日宇喜多直家は53歳で病死した。織田信長が隆盛を誇った真っ只中のことである。この時に直家は10歳の次男・秀家の将来を羽柴秀吉に託している。宇喜多秀家1572-1655は備前の大名・宇喜多直家1529-1582の嫡子として生まれた。直家は戦国大名の中でも権謀術数の達人で、始めは毛利家に味方をしていたが織田信長の勢力が強まるに連れて織田家に乗り換えることとした。当時の織田軍中国方面司令官は羽柴秀吉である。秀吉とともに毛利戦を演じていたが病に倒れ宇喜多家の行く末を秀吉に託したのである。当時10歳の嫡男・秀家に、織田信長は難色を示したが秀吉が後見をするという条件で信長を説得する。秀家の母は備前一の美女といわれた女性で円融院1549-といい、一時は秀吉の側室であったという説もあるが定かではない。(大河・黒田官兵衛では秀吉と秀家の母との閨を描いていた) 秀吉には秀次、秀秋などの養子が何人かいたが、優秀なのは秀家のみであったということもあって秀家を特にかわいがったという。秀吉には養女もたくさんいて、そのうち最もかわいがっていた前田利家4女・豪姫を秀家の妻としている。秀吉の晩年には、秀家を五大老の一人に抜擢するほど頼りにしていた。残りの五大老は徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝といったそうそうたるメンバーである。秀吉の死後1600年に起こった関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家は石田三成側の西軍についた。西軍の中核である宇喜多秀家勢の奮闘により始めは西軍の優勢状態が続いた。とこるが、多くの武将が日和見状況の中、西軍から東軍に寝返った小早川秀秋の軍勢が宇喜多秀家勢に襲い掛かったのである。これをみた日和見勢も西軍に襲い掛かったことから、この合戦は一気に勝敗がきまった。宇喜多秀家は小早川秀秋に対して激怒し、単騎敵陣に突っ込もうとしたが家来に制止されて落ちたという。小早川秀秋は秀吉の甥であり、一時秀吉の養子になっていた男である。養子でもない自分が秀頼のために家康を討つべく戦っているのに、秀秋が裏切るとは何事だ!という怒りである。 

 関ヶ原の戦いに敗れた宇喜田秀家は領国、岡山城は取り上げられ大名としての宇喜多家は滅び、新しく岡山城の城主となったのは皮肉にも小早川秀秋であった。宇喜多秀家は薩摩の島津家を頼って潜伏していたが、徳川の天下が確立すると、秀家を匿いきれなくなり、島津の当主・家久は秀家夫人・豪姫の実家である前田家の当主・利長と相談して自訴助命嘆願をすることとなった。これにより秀家は息子とともに八丈島に流罪となり、最愛の夫人・豪姫とは二度と再会することなく在島50年の永木に渡る生涯を終えたという。さて、一方の豪姫はというと備前岡山城より娘と一部の家臣とともに兄の前田利長のもとへ戻され化粧料1500石を与えられる。他家へ嫁ぐことなく金沢西町に移り住み、賂を秀家に送り続け余生を送った。次女の伏見宮貞清親王室は金沢に帰ってから生まれた子であり、秀家が関ヶ原の戦後、各地を逃亡していたときに身篭っている。 

宇喜多興家-1536浦上氏家臣
 ┃中山信正1510-1559浦上氏家臣
 ┃ ┗娘
 
┃  ┣-
 
┗宇喜多直家1529-1582
  
┣三浦桃寿丸?-1584
  ┣容光院?-1591
  ┃ ┣
  ┃ 吉川広家1561-1625
  ┃吉川元春┛
  ┣宇喜多秀家1572-1655(八丈島に配流)
  ┃ ┣秀高1598-1641(八丈島に配流)
  ┃ ┣秀継1599-1657(八丈島に配流)
  ┃ ┣娘
  ┃ ┃┣邦尚親王1615-1654
  ┃ ┃伏見宮貞清親王1596-1664(伏見宮10代当主)
   ┃豪姫1574-1634(前田利家の4女) 
   ┣忠家1533-1609
   ┣春家?
  円融院1549-?(三浦氏) 

関ヶ原の戦いの宇喜田秀家陣跡

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黒田官兵衛38 清水宗治首塚

2014年06月24日 | 戦国時代

 本能寺の変の二日後1582年6月4日に清水宗治・備中国高松城主は秀吉の勧めに応じて自刃した。織田信長は4月安土に凱旋し、天皇・誠仁親王の勅使・勧修寺晴豊より祝勝の品を受け取った。このとき勧修寺晴豊は太政大臣、関白という天皇方の意向を伝えているが、織田信長は送り返し、すぐさま神戸信孝(織田信長の三男で、伊勢中部を支配する豪族神戸氏を継いだ)に四国攻めを命じている。一方備中に侵攻した秀吉は城々を落とした後の五月、毛利の清水宗治が籠もる高松城を囲み、足守川の水を引き入れて水攻めの策をとった。救援を求める毛利軍に対して織田信長は明智光秀、細川忠興らに先陣を命じた。信長は5月29日に上洛すると、6月1日には本能寺に博多の豪商・島井宗室らを招いて茶会を催し、信忠、公家衆、僧なども集まった。一方、光秀は出陣に備えて坂本城から丹波・亀山城に移った。ここで光秀は反乱を計画して戦勝を祈願し愛宕山に参詣している。決意した光秀は斉藤利三らに計画を明かし全軍を東の本能寺に向かわせた。2日未明、本能寺を取り囲んだ光秀軍は攻め込むと、信長は本能寺の炎の中で自刃し、森蘭丸や小姓衆も討死したのである。信忠は信長のもとに行こうと妙覚寺をでるが、村井貞勝の勧めで二条御所に逃げ込み、誠仁親王らを内裏に逃がした。しかし応戦むなしく信忠も自害した。安土城の留守居・蒲生賢秀は信長の妻妾を連れて自分の日野城に非難させたという。この光秀の裏切り・本能寺の変の直後に清水宗治は領民の命と引き換えに自刃したのである。

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黒田官兵衛37 清水宗治の備中高松城跡

2014年06月23日 | 戦国時代

 備中高松城跡地は羽柴秀吉の水攻めでもよく知られるところです。もちろん水攻めの考案者は黒田官兵衛。現在は城跡地に蓮の花が乱れ咲く池が整備されていて、当時の面影はありません。ここ高松城攻めのために秀吉が入ったのは1582年5月8日、軍師・黒田孝高の献策により城を堰堤で囲むこととなる。1582年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、3万の大軍をもって、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々に攻略するとともに、備中高松城を攻撃します。秀吉は、高松城主の清水宗治に利をもって降伏するように勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。高松城は深田や沼沢の中に囲まれた平城で水面との比高がわずかに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。秀吉は参謀・黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻めを断行し、兵糧攻めにした。秀吉は、備前国主宇喜多氏の家臣・千原九衛門勝則を奉行とし、約3kmにおよぶ堤もわずか12日間で完成させた。時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188haの大湖水ができ城は孤立した。6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。秀吉はこれをかたく秘めて 「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない。宗治の首級だけで城兵の命は助ける」 という条件で宗治を説かした。宗治は「主家(毛利氏)の安泰と部下5千の命が助かるなら明日4日切腹する」と自刃を承諾。城兵の命と引き替えに6月4日清水宗治は切腹したのである。

 

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黒田官兵衛36 秀吉の家臣・谷大膳

2014年06月22日 | 戦国時代

 しばらく休憩していた歴史ネタを再開します。谷衛好、別名・谷大膳のことを知る人はほとんどいない。1578年の三木城攻めのときに別所の軍勢に討たれた羽柴秀吉側の武士である。もともとは美濃の生まれで、六角氏に仕える伯父・谷野綱衛の養子となって谷野姓を称した人物である。斎藤道三、龍興までの美濃斎藤氏に仕え、斎藤氏滅亡後は織田信長に仕え、1576年の石山合戦では武功を挙げたことから信長の信頼を勝ち得た。羽柴秀吉が中国方面総司令官になると秀吉の与力となり、1578年に播磨平田城6000石の知行を与えられた。そして秀吉による三木城攻めにも参加し、9月に三木城の糧道を断つために息子の衛友と立て籠もるが、別所長治ら三木城兵の(大村合戦)抵抗にあって討ち死にしている。家督は衛友が継ぎ、江戸時代に続く谷家の基礎を築いた。谷大膳の墓は、ここ平田山砦跡にある。実は目的をもってここへ来たわけではなく、偶然見つけて立ち寄った。

 平田山砦を解説するとこうなる。別所長治の篭城によりほとんど食糧が尽きた三木城内へ兵糧を運ぶため、毛利方は雑賀衆八千余りで周りを固めてい。食糧運搬のルートは魚住~三木城までで、これを阻止すべく多くの砦が羽柴秀吉により築かれていた。そのひとつが、ここ「平田山砦」である。そしてここを守っていたのが羽柴秀吉に従っていた谷大膳亮衛好である。三木城へ食糧を補給しようとした毛利方は暗闇の中、谷を襲いかかった。三木城内からは別所吉親が戦いに加わったが、平井山の本陣からは秀吉軍の千余騎が駆けつけことで別所方は大敗に終わった。この戦いで大長刀をふるって奮戦した谷大膳も亡くなった。結果、三木城には僅かの食糧しか届かなかったことから、三木城の敗戦を決定づけたとこ言われているらしい。

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村上海賊の娘-17 1576年7月13日最終章 

2014年06月09日 | 戦国時代

 1576年7月12日、それは木津川河口の戦いがいよいよ始まる前夜である。三木合戦が始まる20ヶ月ほど前の時期で、黒田官兵衛が長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として織田信長の元に送った頃である。乃美宗勝と来島の村上吉継は岩屋城の本丸から明石海峡を隔てて大蔵谷城を望んでいる。大蔵谷城は英賀城城主三木通秋の支城で、通秋は一向宗に帰依していた。つまり本願寺方の支城であり、瀬戸内から航行してきた門徒がすんなりと明石海峡を通れたのは、このおかげである。宗勝の主、小早川隆景は本願寺に兵糧を送る旨、通秋に伝えるとともに密命を与えた毛利家の人間を大蔵谷城に入れている。何故か、陸路を辿って謙信出陣の報が大蔵谷城に届けば狼煙をあげて岩屋城に知らせる段取りである。しかし黒田官兵衛は500の兵で毛利・三木軍5,000の兵を退けているから、上杉謙信が動き出したかどうかは知るすべはなくなった。これを英賀合戦という。毛利水軍と村上水軍が岩屋を出発して木津川の戦いに望む条件は、ある意味上杉謙信との挟み撃ちが成立する場合であり、条件が成立しない場合には、兵糧を大坂本願寺に届ける目的はあきらめて、引き返すこととなる。これが小早川隆景と村上武吉の考えである。

 この頃、村上能島では村上武吉の娘・景が大坂本願寺の門徒の行く末を案じている。もちろん1000艘もの水軍が兵糧を運んでいったことを知っているが、父・武吉の思惑は理解していなかった。武吉が言った 「景よ、心配するな。我が水軍は無事帰ってくる。戦などありゃせんのよ。小早川隆景は聡い男よ。軍勢は岩屋からそのまま帰ってくる。」 我が息子、元吉や景親にも明かさなかった胸のうちを娘に披露したのである。だがそれは武吉の不覚であった。娘の性根を見誤っていた。 「えっ!父上、どういうことじゃ!」 景は顔色を変え、声を震わせて詰め寄ったのである。かくして景は能島村上水軍の勇者として関船を出船させ、大坂本願寺へ向かうこととなる。

 7月13日、計画通り毛利と村上の水軍は兵糧移送をあきらめて本拠地へ引き返し始めていた。ところが、景はひとり大坂本願寺を救うために木津川河口へ向かっている。さて、それを知った1000艘の水軍はどうなったか。ここからは史実の通りであるが、景に促されて木津方面に出陣したというところは架空である。史実では、毛利・村上水軍が織田側の眞鍋水軍、沼野水軍に対して破壊的ダメージを与えて快勝した。毛利方の水軍が使用した焙烙玉と雑賀衆が使用した焙烙火矢が有効であった。小説・村上海賊の娘では、焙烙玉に加えて景が活躍するのである。その描写については、村上海賊の娘・下巻に約300ページに渡って詳述されているので参照されたい。和田竜氏に申し訳ないので、景の働きについては当ブログではあえて紹介はしない。景が率いて村上水軍が勝利したこの戦いを第一次木津川口の戦いという。従って第二次木津川口の戦いというのがあるわけで、1578年12月4日に勃発した。このときには織田信長側が勝利している。前回の毛利水軍・村上水軍が使用した焙烙火矢対策を九鬼嘉隆に命じて、大筒・大鉄砲を装備し、焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を建造させたのである。この詳細については別の機会に紹介する。ところで、1578年12月4日といえば、三木合戦が始まって半年経過、有岡城の戦いが始まる4ヶ月前である。つまり織田信長は、荒木村重の謀反により大打撃を被ったと伝えられているが、荒木村重、大坂本願寺、雑賀衆、別所長治、毛利氏、村上水軍と戦いながら、播磨制圧を実現していったのであるから、はやりすごい人物である。 完

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村上海賊の娘-16 大三島にある大山祇神社

2014年06月08日 | 戦国時代

 シリーズ的に進めている黒田官兵衛で記載しているのは信長による播磨制圧、つまり毛利との陸上戦闘戦である。。信長から中国の毛利氏攻めの総大将を命じられた秀吉は、糟屋助右衛門武則が城主をつとめる加古川城において1578年2月23日、軍議を開いた。集まったのは播州内の諸将。これによって播磨は大きく二分し、多くの居城は滅亡した。この戦いは織田対毛利の陸の戦いであるが、織田対毛利の海上での戦いが村上海賊の娘シリーズである。両者の陸・海での戦いは、もちろん歴史的には同時期に進められているから密接な関係があり、その関係性を意識しながら調べることが歴史の醍醐味とも言える。いよいよ村上海賊の章も大詰めで、今回は古事記とからめて大三島にある大山祇神社について記載する。

 村上水軍にとって大三島というのは神の島であり、御島とも云われて出陣する前には必ず神事が行われた。伊予国一の宮である大山祇神社がその舞台である。そして神事というのは 「万句連歌興行」 といって 総大将・村上武吉以下村上水軍の闘将たちで歌を一万句繋げていくというもの。史実としては百句連歌であったようであるが、村上海賊の娘では万句連歌として紹介されている。百句であると、一日の神事として終えることができるが(当時の連歌がいまでも記録として残されている)、万句となると3ヶ月以上かかることになる。では何故万句連歌興行としたのか。総大将・村上武吉は、この石山合戦に参加する意思はなく、ある意味大坂本願寺の篭城作戦において兵糧が尽きる3ヶ月間は神事を行うことで、不参加のタイミングをはかっていたようである。この辺の話はあくまで小説ということであるが、大三島の大山祇神社については、「古事記」においても過去に詳しく紹介した。ここに再確認する神として祀られているのは大山津見神といって天照大御神とは兄妹にあたる神である。

 つまり、日本神話の時代の話なのである。第1代神武天皇即位の紀元前660年よりもさらに遡る時代の話で、初代天皇の神武天皇の父は鵜草葺不合命、その父は彦火火出見命(山幸彦)、その父は瓊瓊杵尊、母は木花之佐久夜毘売という。この木花之佐久夜毘売の父にあたる人物が大山祇神で、伊邪那岐命と伊邪那美命の間にうまれ、日本各地に一万社余りある山祇神社の祭神なのである。しまなみ海道にある大三島の大山祇神社は総本社とされ、妹君は天照大神、女木花咲耶姫尊を瓊瓊杵尊の后妃とし、我国建国の大神なのである。2600年前、神武天皇東征にさきがけ、祭神の子孫・小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司っていた時、芸予海峡の要衝である御島(大三島)を神地と定め鎮座したことに始まるという。大山祇神社の楠群は、日本最古の原始林社叢の楠群として、昭和26年に国の天然記念物に 指定され、境内中央の小千命御手植の大楠(根周20m、高さ15.6m、目通し11m)は、樹齢約2,600年といわれ、大山祇神社の歴史と神 秘の象徴となっている。

 アシナツチ(出雲の斐井川)
  ┣稲田姫神(イナダヒメノカミ)  八岐大蛇の生贄になる寸前にスサノオノミコトに助けられる
 テナツチ ┃(来訪神に仕える巫女)草薙剣をアマテラスに献上 倭姫→ヤマトタケル→尾張熱田神宮
    ┗━┓-        後に須賀に宮殿を造営 出雲の支配者となる。
      ┃┣建御名方タケミナカタ(出雲国譲に反対 諏訪湖に追放)⇔タケミカヅチ
      ┃┃事代主神(天武の守護神)
伊邪那岐命 ┃┃武神フツヌシ 高倉下献上の霊剣が神格化
    ┣ヒルコ  ┣大国主神(オオナムヂ→アシハラノシコオ→ウツシクニタマ→オオクニヌシノミコト大穴牟遅神)
    ┣アハシマ ┃┃オオムナヂ :異母兄弟神(八十神)に仕える少年神→ヤガミヒメ(因幡国)を得る     
    ┃   ┃┃アシハラノシコオ:八十神を逃れて冥府王・スセリヒメと結婚
    ┃   ┃┣島根美保神社の神 
    ┃   ┃高志(糸魚川付近)の巫女・沼河比売ヌナカワヒメと結婚
    ┣素戔鳴尊(スサノオノミコト)冥府,天照大神により高天原を追放後出雲国へ天降る
    ┃     ┣スセリヒメ(地下冥府の王)
    ┃     ┃   ┣  
    ┃     ┃アシハラノシコオ(ヤガミヒメ・キサガイヒメ・ウムガイヒメの霊力をもらう)→オオクニヌシ
   ┃     ┃ (カムムスヒの御子神・クスナビコナとともに出雲国を完成させる)
   ┃     ┗イソタケル(スサノヲと共に新羅へ渡る)   
  ┣天照大神 ━━┓(アマテラスオオミカミ) 太陽の神
  ┃(高天の原)   ┃八咫鏡を授ける ニニギノミコト(日向可愛山陵)
  ┃          ┃(垂仁期に倭姫伊勢へ祀)↓┣火闌降命ホスソリ(海幸彦)隼人始祖
  ┃ スサノヲノミコト   ┃ ↓      日向の襲┣彦火火出見命(山幸彦)高屋山上陵
  ┃ ┣大年神   ┃ ↓      (高千穂)┃ ┣鵜草葺不合命(吾平山上陵)
  ┃ ┣ウカノミタマ稲荷┃ ↓         ↓┃┏豊玉姫┣神武天皇
  ┃┏神大市比売神┃ ↓        空国┃┣玉 依 姫
  ┣大山祇神━━  ┃ ↓(オオヤマツミ) ━┓  ↓┃大綿津見神(日本神話で最初に登場)  
  ┃┃         ┃ ↓      ┃ 吾田┣火明命(尾張連始祖)
  ┃┣四対八神の神┃ ↓      ┣神吾田津姫コノハナサクヤ(端陵)
  ┃鹿屋野比売神  ┃ ↓      ┗姉・磐長姫(醜い為送り返される)
  ┃        ┃ ↓          ┣
  ┃        ┃ ↓       八島士奴美神(スサノヲの子)
  ┃        ┃石凝姥に作らせる 西都原古墳群・メサホ塚古墳がコノハナサクヤ姫陵? 
  ┃          ┃ ┣紀伊の日前神(天香山の銅で鋳造)
  ┃          ┃ ┗伊勢大神
  ┣月弓尊       ┃(ツキユミノミコト)  月の神 五穀の起源
  ┣大宜都比売神 ┃(オオゲツヒメノカミ) 五穀の神 保食神 
    ┣迦具土神   ┃(カグツチノカミ)火神 母の陰部を焼焦がし誕生。十拳剣にて死す
 伊邪那美命    ┃
 (根堅洲国)    ┃甕襲ミカソの犬・足往が八坂瓊ヤサカニ勾玉を垂仁に献上→石上神社
          ┃  
┏━━━━━━━━━┛
┗┓ 
 ┣天穂日命(アメノホヒ)出雲の祖。アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った。
 ┃         出雲平定の為にアマテラスに派遣されるがオオクニヌシに寝返る
 ┣アマツヒコネ  萬幡豊秋津師比売命(高木神の娘) 
 ┣イクツヒコネ   ┣天火明命(アメノホアカリ)
 ┣クマノクスビ     ┣瓊瓊杵尊(ニニギノミコト) 
 ┣天忍穂耳命(アメノオシホミミ)スサノオガアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男
 ┣建甕槌命 (タケミカヅチノミコト)迦具土神が十拳剣にて父に刺されたときに血から誕生
 ┃           磐筒女(イワツツヒメ)の子
 ┃           出雲・稲佐浜でコトシロヌシと闘争
 ┣布都御魂神 (フツノミタマノカミ)迦具土神が十拳剣にて父に刺されたときに血から誕生
 ┣菊理姫神 (ククリヒメノカミ)伊邪那岐命・伊邪那美命が喧嘩をしたときに調停する白山の神、農耕神
 ┗天宇受売神(アメノウズメノカミ)巫女の元祖 岩戸では陰部もあらわに踊ります サルタヒコの妻伝承あり

大山祇神社にある日本最古の原始林社叢の楠群 樹齢は2600年

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