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黒田官兵衛36 秀吉の家臣・谷大膳

2014年06月22日 | 戦国時代

 しばらく休憩していた歴史ネタを再開します。谷衛好、別名・谷大膳のことを知る人はほとんどいない。1578年の三木城攻めのときに別所の軍勢に討たれた羽柴秀吉側の武士である。もともとは美濃の生まれで、六角氏に仕える伯父・谷野綱衛の養子となって谷野姓を称した人物である。斎藤道三、龍興までの美濃斎藤氏に仕え、斎藤氏滅亡後は織田信長に仕え、1576年の石山合戦では武功を挙げたことから信長の信頼を勝ち得た。羽柴秀吉が中国方面総司令官になると秀吉の与力となり、1578年に播磨平田城6000石の知行を与えられた。そして秀吉による三木城攻めにも参加し、9月に三木城の糧道を断つために息子の衛友と立て籠もるが、別所長治ら三木城兵の(大村合戦)抵抗にあって討ち死にしている。家督は衛友が継ぎ、江戸時代に続く谷家の基礎を築いた。谷大膳の墓は、ここ平田山砦跡にある。実は目的をもってここへ来たわけではなく、偶然見つけて立ち寄った。

 平田山砦を解説するとこうなる。別所長治の篭城によりほとんど食糧が尽きた三木城内へ兵糧を運ぶため、毛利方は雑賀衆八千余りで周りを固めてい。食糧運搬のルートは魚住~三木城までで、これを阻止すべく多くの砦が羽柴秀吉により築かれていた。そのひとつが、ここ「平田山砦」である。そしてここを守っていたのが羽柴秀吉に従っていた谷大膳亮衛好である。三木城へ食糧を補給しようとした毛利方は暗闇の中、谷を襲いかかった。三木城内からは別所吉親が戦いに加わったが、平井山の本陣からは秀吉軍の千余騎が駆けつけことで別所方は大敗に終わった。この戦いで大長刀をふるって奮戦した谷大膳も亡くなった。結果、三木城には僅かの食糧しか届かなかったことから、三木城の敗戦を決定づけたとこ言われているらしい。

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