大坂河内・嶽山は応仁の乱へとつながる戦が行われた場所である。応仁の乱が始まる4年前の1463年4月、畠山義就・27才はこの嶽山・龍泉寺に立てこもり、室町幕府の大軍を相手に2年半も持ちこたえていた。
1448年11月に畠山義就人世最初の転機が訪れた。畠山義就12歳のとき、畠山義就は父・畠山持国の跡取りとなった。母の身分が低かったために弟が跡取りになるはずであったが、父の心代わりがそうさせたようである。元々、畠山家は室町幕府のNo.2管領になれる家柄で、細川家、斯波家。持国も二度管領になった幕府の重臣で、河内など4か国を治める守護大名であった。1457年10月、畠山義就21歳のとき将軍からある問題解決の大将を命じられた。このころ都で暴れていた土一揆、借金の帳消しなどを求める民衆が米などを盗む暴動を起こしていた。ところが畠山義就は土一揆を鎮圧しなかった。抑え込むよりも取り込んだほうが得策ではないかと考えたようである。かくして畠山義就は地方勢力を味方につけて家や幕府を盛り立てようと考えた。この畠山義就の動きを不気味に見ていたのは、時の管領・細川勝元で、畠山家の力を削ぐ機会を狙っていた。勝元は幕府の権威のもと、土一揆鎮圧命令に背いたとして畠山義就を畠山家当主の座から追放、畠山義就のいとこの畠山政長を据えたのである。細川勝元に深い恨みを持った畠山義就は、すぐに河内で決起し嶽山に立てこもり細川勝元に反旗を翻したのである。
相手は室町幕府の大軍、しかし地方の武士・土豪に期待されて持ちこたえた。1463年畠山義就は追い詰められたが、土豪の湯浅は畠山義就の甲冑と取り換えて身代わりを打って出た。かくして僅か30人ほどの手勢とともに包囲を突破した。これほどまでに畠山義就と地方の土豪との結びつきは深かった。畠山義就は奈良県上北山村の人々にかくまわれたという。村の中心にある景徳寺には畠山義就ゆかりの弓引き行事があるという。
1466年、応仁の乱勃発の半年前、畠山義就の元へある人物からの手紙が届いた。勝元の舅であり、8か国の守護を務める大名・山名宗全である。山名宗全は勝元との戦いを決意し、畠山義就との同盟を求めてきた。何故か、山名宗全にしてみれば勝元と組んでいれば安泰ではあるがトップにはなれない。思いもよらない誘いに畠山義就は5千の兵を率いて上洛した。宗全と畠山義就は大軍で京都を占拠し、幕府の実権を奪うことに成功した。さらに畠山義就は勝元に就いたいとこの政長を攻めた。このときについに都で戦が起こったのである。政長は闇に紛れて逃亡、畠山義就は畠山家の当主に返り咲いた。さらに将軍にも認められて幕府の重臣にも復帰した。これが11年にも及ぶ応仁の乱のきっかけであった。
京都堀川は・一条戻橋近辺は応仁の乱の激戦地とされている。1467年5月26日軍勢を密かに整えていた細川勝元は4万の軍を率いて山名宗全の館に攻撃を始めた。油断していた山名宗全、畠山義就は5千の兵を堀川沿いの西陣船橋あたりに敷いた。このとき両軍の放火で京都は焼け落ち多くの死傷者がでたという。それまで中立的立場であった足利義政は細川勝元側に就いたことで、山名側は反逆者となった。山名側の指揮も低下した。ところが、瀬戸内海に500もの大船団が現れた。率いるのは22歳の若武者・大内政弘、4か国の守護を務める大大名で、瀬戸内の利権をめぐって勝元と対立し、幕府内の地位についても不満を持っていた。そのため宗全の誘いに応えて3万もの大軍で上洛したのである。
1467年10月山名側は 将軍の御所のすぐ隣の細川側の拠点となった相国寺などを攻めて大打撃を与えた。最強の相棒、畠山義就と大内政弘の活躍で戦は振出に戻るとともに、この乱は長引くこととなる。山名方11万、細川方16万の兵が戦い続けて7年、都は荒れ果てて終わる気配もなし。山名宗全は降参を考え、細川勝元は和睦に前向きになり乱が終わるかに思えたが、畠山義就と大内政弘は反対し和睦は纏まらない。畠山義就は党首の座を、大内政弘は幕府内での地位が保証されなければ意味がないとした。すると宗全は切腹未遂、勝元は隠居、翌年の1473年には二人とも亡くなってしまった。この頃足利義政は引退、9歳の足利義尚が新将軍となった。義尚の母は日野富子、早く乱を終わらせてすべての大名が息子義尚に従うような室町幕府体制を復活させたかった。富子は家や幕府の資産を元手に高利貸などで稼いだ金、現在の価値で70億とも言われている金で、都で戦う武将たちに対して優位な立場を築いた。かくして多くの武将が富子の求めに従って戦から手を引いていった。ところが畠山義就は今更金で解決できるはずもないとして従わなかった。
そこで富子は大内政弘の官職を山名と同等に引き上げ、瀬戸内海での利権を認めた。これにより大内の願いは叶ったことで国に帰る決意をした。1477年11月11日大内は都を離れたことで応仁の乱は終わった。畠山義就は自らの兵2千とともに河内に再び向かい、国を奪い取ることにした。僅か20日たらずで河内すべてを手中に収めた。かくして河内は幕府の支配から切り離された独立国になった。このような国が日本中で生まれた「戦国の世」の先駆けとなったといえる。畠山義就は大阪羽曳野市で晩年を過ごした。応神天皇陵のすぐ近くに館があったと考えられている。近くにある誉田八幡宮で行われる秋祭りで担がれる神輿は頼朝による寄進と言われているが、畠山義就も担いだといわれている。
上杉清子
┣足利直義1306-1352 ⇔ 新田義貞1301-1338
┗足利尊氏1305-1358 ⇔ 後醍醐天皇1288-1339
┃┣義詮1330-1367 ┃┃ ┏憲忠1433-1455
┃┃┃藤原慶子 ┃┃関東管領上杉氏 ↑
┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷 ┃┃ 享徳の乱1455-
┃┃┃┃ ┣義量1407-1425 ┃┃ ↑ ↓
┃┃┃┃栄子 武者小路隆光 ┃┃三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
┃┃┃┃ ┣━━━━ 娘 ┃┃関東公方足利持氏
┃┃┃┃ ┗円満院 ┣細川澄之 ┃┃
┃┃┃┃ ┣潤童子 九条政基 ┃┃
┃┃┃┃ ┃ 大内義興娘 ┃┃
┃┃┃┃ ┃斯波氏┣義栄 1538-1568┃┃(三好氏で養育)
┃┃┃┃ ┃┣義維1509-1573 ┃┃
┃┃┃┃ ┃┃日野永俊娘 ┃┃
┃┃┃┃ ┃┃┣義晴1511-1550 ┃┃
┃┃┃┃ ┃┃┃┣義輝1536-1565 ┃┃⇔ 松永久秀(1565永禄の変)
┃┃┃┃ ┃┃┃┣義昭1537-1597(覚慶)┃┃ (三好三人衆:義栄派)
┃┃┃┃ ┃┃┃近衛娘 ┃┃ 伊勢貞親1417-1473
┃┃┃┃斉藤氏 ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸 ┃┃⇔┏北条早雲1432-1519伊勢氏
┃┃┃┃ ┣政知1435-1491関東堀越公方 ┃┃ ┗北川殿
┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐 ┃┃ ┣竜王丸(氏親)⇔┏小鹿範満
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃┃ 今川義忠1436-1476駿河守護
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃┃
┃┃┃┃ ? ┣- ┣義勝1434-1443 ┃┃満元┓
┃┃┃┃ ┣宗子 ┣義政1436-1490乳母伊勢氏 ┃┃管領細川持之1400-1442
┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児 ┃┃ ┗細川勝元1430-1473
┃┃┃┃ ┣義資 ┃┃今参局-1459 ┃┃ ┃┗政元1486-1507(明応政変)
┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489 ┃┃ ┣- ┣澄之(養子)
┃┃┃┃ ┃ ┣┃日野富子1440-1496 ┃┃ ┏春林寺殿 ┗澄元(養子)
┃┃┃┃ ┃ ┣┃日野勝光1429-1476内大臣 ┃┃ ┣豊久(細川養子→出家)
┃┃┃┃ ┃ ┃┃┗娘義尚夫人 ┃┃山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護
┃┃┃┃ ┃ ┃┣義視1439-1491(義尋) ┃┃
┃┃┃┃ ┃ ┃┃┣義材1466-1523⇔政元 ┃┃満家(山城守護)┓
┃┃┃┃ ┃ ┗┃日野美子 妙音院 ┃┃管領畠山持国1398-1455
┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局 ┃┃畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護
┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413 ┃┃ ┗政長(勝元保護)┗畠山基家
┃┃┃┃春日局 ┃┃ ┗義英
┃┃┃┃┣義嗣1394-1418 ┃┃
┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏) ┃┃
┃┃┃┃┃ 日野康子 ┏━━━━━━━━━┛┃
┃┃┃┃┃ ┣- ┃┏━━━━━━━━━┛
┃┃┣義満1358-1408 ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)
┃┃┃ ┣女子 ┃┃
┃┃┣満詮 日野業子 ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368
┃┃紀良子 ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394
┃┃藤原仲子(崇賢門院) ┃┃┃
┃┣基氏1340-1367 ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424
┃赤橋登子 ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
┣直冬1327-1400 ┃阿野廉子1301-1359
越前局 ┣護良親王1308-1335
┣懐良親王1329-1383
源師親娘