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黒田官兵衛38 清水宗治首塚

2014年06月24日 | 戦国時代

 本能寺の変の二日後1582年6月4日に清水宗治・備中国高松城主は秀吉の勧めに応じて自刃した。織田信長は4月安土に凱旋し、天皇・誠仁親王の勅使・勧修寺晴豊より祝勝の品を受け取った。このとき勧修寺晴豊は太政大臣、関白という天皇方の意向を伝えているが、織田信長は送り返し、すぐさま神戸信孝(織田信長の三男で、伊勢中部を支配する豪族神戸氏を継いだ)に四国攻めを命じている。一方備中に侵攻した秀吉は城々を落とした後の五月、毛利の清水宗治が籠もる高松城を囲み、足守川の水を引き入れて水攻めの策をとった。救援を求める毛利軍に対して織田信長は明智光秀、細川忠興らに先陣を命じた。信長は5月29日に上洛すると、6月1日には本能寺に博多の豪商・島井宗室らを招いて茶会を催し、信忠、公家衆、僧なども集まった。一方、光秀は出陣に備えて坂本城から丹波・亀山城に移った。ここで光秀は反乱を計画して戦勝を祈願し愛宕山に参詣している。決意した光秀は斉藤利三らに計画を明かし全軍を東の本能寺に向かわせた。2日未明、本能寺を取り囲んだ光秀軍は攻め込むと、信長は本能寺の炎の中で自刃し、森蘭丸や小姓衆も討死したのである。信忠は信長のもとに行こうと妙覚寺をでるが、村井貞勝の勧めで二条御所に逃げ込み、誠仁親王らを内裏に逃がした。しかし応戦むなしく信忠も自害した。安土城の留守居・蒲生賢秀は信長の妻妾を連れて自分の日野城に非難させたという。この光秀の裏切り・本能寺の変の直後に清水宗治は領民の命と引き換えに自刃したのである。

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