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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

黒田官兵衛35 軍師・竹中半兵衛の死

2014年06月05日 | 戦国時代

  1579年7月6日、播磨三木城の包囲中に病に倒れ黒田官兵衛重治は死去した。荒木村重が有岡城を逃げ出したために篭城戦が終結したのが1579年10月19日、三木合戦が終息したのは1580年2月2日という時代背景の最中に死去していることがわかる。黒田官兵衛が荒木村重の有岡城に幽閉されていた間、黒田官兵衛の嫡男・長政をかばって長浜に匿っていたことは周知のことであるが、これは竹中半兵衛自身の療養も兼ねていた。半兵衛はこの頃からすでに自らの死期を悟り、戦場で死にたいと秀吉に懇願して播磨三木の平井山秀吉本陣に戻り、陣中にて7月6日に死去したのである。本営のあった山に続いたぶどう畑に白い練り塀に囲まれて、半兵衛の墓があるが、実はここ以外にも墓があるということで行ったが、墓石は見つけることができず、看板だけを後にし、そのあとは半兵衛の陣中跡にも行ってみた。

 竹中半兵衛重治は、1544年美濃斎藤氏の家臣・竹中重元の子として生まれ父の死去により家督を継ぎ、斎藤義龍に仕えた後、斎藤龍興に仕える。  織田信長による美濃侵攻に対して義龍死去後の龍興時代には、家臣団に動揺が走り攻防が困難となっていたが、重治の伏兵戦術で織田勢を破ったとされている。主君の龍興は政務を顧みず、重治や美濃三人衆を政務から遠ざけていた。このため1564年、弟の重矩や舅の安藤守就と共に龍興の稲葉山城を奪取した。織田信長が重治に稲葉山城を明け渡すように要求したが重治は拒絶し、自ら稲葉山城を龍興に返還すると斎藤家を去り、浅井長政に仕えた。1567年信長の侵攻により美濃斎藤氏が滅亡すると信長は、重治を家臣として登用したいと考え、木下藤吉郎秀吉に織田家に仕えるように誘わせた。重治はこのとき、秀吉の才能を見抜いたとされており、信長に仕えることは拒絶したが、秀吉の家臣となることは了承したとされる。 秀吉が織田家の中国遠征総司令官に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加する。1578年宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城させ、信長に賞賛された。同年、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して、秀吉幕僚の黒田孝高官兵衛が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、捕縛されたため、信長は孝高の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じたが、重治は松寿丸を匿った逸話がある。

                杉山久左衛門の娘(妙海大姉)
                 ┣竹中重隆
                         ┣竹中半兵衛1544-1579
                     竹中重元 ┣竹中重門1573-1631
                         安東守就(西美濃三人衆)・娘姉(徳月院)
  遠藤盛数(美濃・斉藤氏家臣)  安東守就(西美濃三人衆)・娘妹   
         ┃            ┣
        ┣慶隆・長男 八幡城主二代目    
       ┣慶胤  
         ┣慶直
           ┗千代(見性院)1557-1617
              ┣与祢1580-1586
  山内盛豊    ┣忠義1592-1665(養子)
    ┣山内一豊1546-1605(初代土佐藩主,秀吉の家臣)  
  ┣山内康豊   
  ┃ ┗忠義    
 梶原氏・娘

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黒田官兵衛34 三木合戦図

2014年06月04日 | 戦国時代

 毎年、別所公の命日に当たる4月17日には、法界寺において三木合戦を絵物語にした三幅の大幅掛軸を使い、絵解きが行われます。法界寺は別所長治公の菩提寺にあたり、22か月にもわたる別所軍と羽柴秀吉軍の戦いを再現するこの絵解き行事は追悼法要でもある。因みにこの掛軸は、別所氏末裔・別所九兵衛長善が絵師に模写させて法界寺に奉納したものらしい。また、現在、絵解きの語り手をされている方は別所氏旧臣の末裔だそうです。

 ここに並んだ24枚の絵図を一部解説すると、別所方が秀吉方本陣に決戦を挑んだ平井山の様子、淡河城の合戦の様子、三木城大手門での最後の激戦の様子、兵糧が尽きた城内の様子、最期の宴会が催された城内の様子などが描かれています。

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黒田官兵衛33 三木城址

2014年06月03日 | 戦国時代

  播磨の三大城といわれるのが英賀城、御着城、そして別所長治が治めていた三木城である。三木城は秀吉の「三木の干殺し」 つまり兵糧攻めによって陥落した。別所氏に同調した国人、家族、浄土真宗の門弟など併せて数千人が三木城に篭城したから、大規模な食料確保が必要であった。瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木通秋などによって兵糧の海上輸送が行われ、加古川を経由して三木城に兵糧が運び込まれた。また、信長に離反した荒木村重も摂津から六甲山をを超えて兵糧を補給した。しかし兵糧の補給を絶つべく秀吉、黒田官兵衛が働きかけ、打開のために別所氏は秀吉本陣に多くの兵を送り込んだ。これを平井山合戦というが、別所長治の実弟・治定が討ち死にして敗北する。かくして三木城の兵糧は底を尽き、三木城主一族の切腹によりこの篭城戦は終結する。かかった月日は22ヶ月、まさに秀吉の「三木の干殺し」である。この22ヶ月の間に秀吉の軍師・竹中半兵衛の死去もあった。今回の主役・三木城は三木の市役所から歩いて5分くらいのところの住宅地にある。今となっては城はなく城壁の一部があるだけの三木城跡であるが、城主・別所長治の石像が立派に建てられている。

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黒田官兵衛32 三木城の近くにある滑原遺跡

2014年06月02日 | 戦国時代

  三木城址のすぐ東にある商店街に本町滑原遺跡がある。商店街の方に案内してもらったこの場所は、商店街の水道工事のときに出土したのだという。この一帯は江戸時代には殿町といって、羽柴秀吉や池田輝政の時代の家臣の屋敷であったらしい。

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黒田官兵衛31 別所長治・照子首塚

2014年05月30日 | 戦国時代

 別所一族が自害すると、家老三宅治忠を含む多くの殉死者が出たという。長治夫婦の首は羽柴秀吉の本陣・本要寺に送られて首実験をうけた後、織田信長の許へ送られたという。そして雲龍寺の住職が長治夫妻の首を貰い受けて埋葬したという。現在は首塚として後世に語り継がれている。

 由緒の記
羽柴秀吉の軍勢を向かえうつこと一年十ヶ月、天正8年正月17日申の刻三木城主別所長治公は将兵、領民の身がわりとなり、一族とともに自刃その壮烈なる最期は武士の鑑みとして永く語り継がれ、その遺徳は正に永遠にして不滅であります。 昭和17年、帝国在郷軍人会三木分会によって当首塚の補修が為され、さらに昭和48年3月、別所公奉賛会は、さきに三木城再興の構想趣意に賛同され寄進された浄財と首塚修復に当り寄せられた市民有志の浄財を以って茲に玉垣を建立、併わせて照子夫人の霊を合祀いたしました。これは実に公の遺徳を偲ぶ三木市民の強い心のあらわれでありまして茲にその由緒を刻み、永くこれを顕彰するものであります。 

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黒田官兵衛30 別所長治・照子の最期 

2014年05月29日 | 戦国時代

 別所照子というのは三木城主・別所長治の正妻である。二人の首塚は三木城のすぐ南にある。別所照子1558-1580は波多野秀治の妹・照子は十代後半長治に嫁ぐと、毎年一人ずつ四人の子供が生んでいる。これは1576年、毛利・村上水軍と泉州眞鍋水軍が木津川河口にて戦闘を繰り広げていた頃のことである。播磨には大坂本願寺の門徒も多く、本願寺だけではなく毛利・村上との繋がりが強かった。そこへ織田信長による播磨平定方針が示され、毛利氏と対立したことから、別所氏はどんどん巻き込まれていくことになる。そこに拍車をかけたのが黒田官兵衛とも言える。毛利につくか織田につくかの選択を迫られた播磨は、完全に分断された。結果、由緒ある別所氏は滅びることになる。ここで、別所氏の祖を記載する。別所氏は播磨の名門・赤松氏の系統である。元を辿れば後醍醐天皇が鎌倉幕府の打倒を掲げて挙兵したときに、後醍醐天皇の皇子・護良親王に従って吉野・熊野を転戦したのが赤松則祐である。その子・赤松持則の別名が別所持則であり、時の第4代室町将軍・足利義持の諱を一文字受けていることからも赤松氏、別所氏の播磨における威厳の大きさが伺える。

 別所長治が16歳の時に父・安治が死去したため、それ以降長治は叔父の別所吉親と重宗の後見を受けることとなる。決断権のない長治にとって、この後見を受けていたという構図が別所氏崩壊に繋がるのである。やがて信長の家臣・秀吉が播磨平定に乗り出すと、別所氏と敵対するようになり、この夫妻の運命の暗転が始まる。初め別所氏は信長側に味方していた。天正五年に毛利氏攻略を信長から命じられた秀吉を、長治は吉親らに命じて加古川城に出迎えさせる。しかし、伯父の保守的体制に押し流されるように別所氏の意思が変わる結果となる。毛利方に寝返る事にした別所氏は百三十もの支城を整備して、ゲリラ戦で秀吉を悩ませた。一方秀吉は信長の援軍を加えた 総勢三万の軍勢で次々と支城を陥落させ、兵糧攻めに苦しめられた別所側はついに降伏。別所長治から持ちかけた条件は籠城の兵士・女性・民衆達は助けるとのもの。かくして城主一家は次々と自害する事になった。敵ながら賞賛を与えた秀吉は、食料が尽きた城内に酒と肴を贈っており、別所一族や家臣達は秀吉からの差し入れで、別れの宴を開いている。そして宴の翌日、照子は死の旅を整えると四人の子供達にも白小袖を着させ、大広間に夫の長治と並んだ。別所長治の叔父吉親・正室の波が自分の手で三人の子供の命を奪うとその後自害。長治の弟・友之の正室17歳も照子に促されて自害。そして長治の長女で5歳の竹姫、二女で4歳の虎姫、嫡子で 3歳の千代丸、二男竹松丸2歳の子供達を照子は次々と引き寄せると、自らの手で奪っていった後自害。その後、長治は三人の女性と七人の子供達の遺体に火を放って自身も自害してその首は信長の許へ送られたという。

赤松則祐1314-1372後醍醐天皇の皇子・護良親王に従って吉野・熊野を転戦 
┣赤松義則1358-1427  
┣赤松時則  
┣赤松満則1366-1392  
┗赤松持則  
  ┗持祐-別所祐則-別所則治-別所則定  
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  
別所就治1532-1570別所則定  
  ┣別所安治1532-1570  
  ┃ ┣別所長治1558-1580

 ┃ ┣友之1560-1580 ┣竹姫竹-1580
 ┃ ┣治定1561-1579 ┣虎姫 -1580  
 ┃浦上氏        ┣千松丸-1580

 ┃           ┣松丸 -1580

 ┣吉親    -1580    照子1558-1580波多野秀治の妹
 ┣重宗1529-1591
 ┗女子
   ┣
   淡河定範1539-1579 

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黒田官兵衛29 別所長治の正妻は波多野氏

2014年05月28日 | 戦国時代

 現在の大河では「荒木村重の謀反」をやっている。残念ながら有岡城址には行った事がないので、近々訪れようと思っているが、荒木村重はもともと波多野氏の出身であり、摂津に32万石を構えた。波多野氏は平安時代の末期から相模国を本拠地とした豪族という古い歴史を持っていたのであるが、実は1580年まで続いたの三木合戦の最中に壊滅した。時の城主は波多野秀治といって、娘は別所長治の正妻である。波多野秀治はもともと織田信長にくみし、明智光秀の軍勢に加わって丹波国で織田氏に反抗する豪族を討伐を担当していたが、1576年1月に突如謀反に走り、光秀を撃破している。(黒井城の戦い)。織田・毛利の天王寺砦の戦いの直前のことである。激怒した信長はさらなる大軍を投入してきたことにより、地の利を活かした攻撃もやがて衰え、光秀の調略で織田氏に寝返った豪族もでたことから1579年に降伏した。このとき波多野秀治は安土に送られて6月2日磔に処され、波多野氏は途絶えたのである。

 さて荒木村重が波多野氏出身であることを踏まえて、謀反を記載する。荒木村重が謀反を起こしたのは1578年7月、終結は1579年10月19日である。黒井城の戦いの頃はともかく、波多野秀治が織田側に抵抗した後半部分は、村重の謀反とリンクしている。このあたりが村重謀反の理由なのかもしれない。波多野秀治の娘は別所長治の正妻である。播磨一帯を制していた別所氏と大坂本願寺の結びつきは強く、別所氏と結びつきが強い波多野氏も大坂本願寺を加勢するのは当然であり、織田信長と対立するのは必然であった。かくして別所・波多野・荒木の一族が団結して織田に抵抗する流れが発生していったと考えるのは当然であろう。荒木村重が有岡城に篭城して1年3ヵ月後の1579年9月、村重が城を抜け出したことで抗戦意欲はなくなり、後の指揮を任されていた荒木久左衛門は11月に開城に及んだ。このとき荒木一族の助命を条件に村重説得を申し出たが、説得できずに荒木久左衛門本人も尼崎城に立て篭もり、結局村重の妻・だしを含む一族全員が処刑された。総勢125名に及んだというから信長の憤りがどれほどだったかが伺える。

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黒田官兵衛28 三木城攻め最後の秀吉本陣

2014年05月26日 | 戦国時代

 三木市にある日蓮宗の本要寺は三木合戦ゆかりのお寺で知られている。もともと天台宗の寺であったが花園天皇の時代に日蓮聖人の法孫・魔訶一院日印上人が住職との問答で勝利して日蓮宗に改宗したという。時は流れて秀吉の三木城攻めのとき、ここ本要寺の本堂だけは戦火を免れ、1580年1月の三木城陥落と同時に、秀吉は平井山本陣から本要寺本堂に移って、首実験を含む戦後の処理を行います。そして秀吉は回りに四散した民衆を呼び戻すために三木を免租地とする立札を配した。これは戦後の民衆をどのように扱うかを案じた別所長治の意図がしっかりと反映された結果であり、秀吉の民衆第一主義によるところが大きい。このようにして三木は後世金物の町として栄えることになります。 

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黒田官兵衛27 淡河定範の墓

2014年05月25日 | 戦国時代

 淡河城の近くには羽柴勢に破れて自刃したという淡河定範の墓がある。自刃というのは別所長治記にあるらしいが、断定はできていないようである。ここ淡河合戦の地は、今では周りを住宅に囲まれた小さな公園となっていて戦死の址碑が建てられている。碑に弾正忠と刻まれているが、これは律令での官位であって、現在でいう警察のような役職である。淡河合戦の様子は淡河城址にある祠の中にありました。先に淡河城主・淡河定範は別所長治の伯父というふうに紹介したが、系図としては次のように、別所長治の父方の叔母が淡河定範に嫁いでいる。三木城陥落の前年に淡河城が陥落したことがわかる。

赤松則祐1314-1372後醍醐天皇の皇子・護良親王に従って吉野・熊野を転戦 
┣赤松義則1358-1427  
┣赤松時則  
┣赤松満則1366-1392  
┗赤松持則  
  ┗持祐-別所祐則-別所則治-別所則定  
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  
別所就治1532-1570別所則定  
  ┣別所安治1532-1570  
  ┃ ┣別所長治1558-1580

 ┃ ┣友之1560-1580 ┣竹姫竹-1580
 ┃ ┣治定1561-1579 ┣虎姫 -1580  
 ┃浦上氏        ┣千松丸-1580

 ┃           ┣松丸 -1580

 ┣吉親    -1580    照子1558-1580波多野秀治の妹
 ┣重宗1529-1591
 ┗女子
   ┣?
   淡河定範1539-1579 

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黒田官兵衛26 淡河城主は別所長治の伯父

2014年05月24日 | 戦国時代

 三木城の東に10kmほど離れたところに淡河城があった。現在は再建された櫓があり公園になっている。城主は淡河定範1539-1579、播磨一帯の豪族であった北条時房の末裔である。北条時房は北条時政の子、北条義時の異母弟にあたり、承久の乱の2年前、鎌倉幕府の 源実朝の後継者については朝廷(太政大臣・藤原頼実の妻・藤原兼子)と幕府(北条政子)間で親王将軍の合意ができていたが、後鳥羽上皇がこれを拒否したために、幕府側は時政の子・北条時房以下千騎の軍勢で朝廷に迫った。そういった歴史を持つ北条氏の末裔・淡河定範は、別所長治よりも20歳年長の義理の伯父である。もちろん別所側について織田軍と戦うこととなる。三木合戦は1578年5月から1580年2月まで続いたが、1579年6月には奇襲作戦により羽柴秀長(豊臣秀吉の異父弟)を破っている。しかしその3ヶ月後の9月には羽柴勢の逆襲にあって自刃したとされている。これにより淡河城は三木城と共に落城し、有馬則頼1533-1602が城主となっている。有馬則頼はもちろん秀吉に仕えた人物であるが、そのむかしは三好長慶や別所長治に従っており、正室は別所忠治(別所長治の従兄)の娘・振である。

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黒田官兵衛25 三木合戦陣屋跡(段上平坦地群)

2014年05月23日 | 戦国時代

 三木合戦が始まる少し前、上月城の戦い(1578/4/18-7/3)が始まった。毛利軍と尼子勝久を担いだ尼子残党、つまり織田軍との戦いである。尼子勝久を担ぐ山中幸盛(鹿介)らの尼子氏再興軍が、織田側により上月城の防衛を任されたのである。毛利軍が上月城に向かったとの報を受けた羽柴秀吉は、三木城の攻撃を継続させつつ、自らの手勢を率いて尼子軍支援のために動いた。これに対して、圧倒的大軍で上月城を包囲した毛利軍は兵糧攻めにより城兵の戦意を喪失させる作戦にでる。この時、織田信長は三木城の攻略と毛利軍の足止めのために、神吉城・志方城・高砂城といった三木城の支城攻略に力を注いだため、秀吉の上月城応援の嘆願むなしく、尼子軍は絶望的な状況に立たされた。擁すれば上月城の尼子軍は事実上の捨て駒として扱われたのである。かくして勝利した毛利氏はこの戦いを契機に本格的に織田氏との戦争状態に入っていった。因みに同年7月に荒木村重が石山本願寺と連携し、織田氏から離反している。

 上述のように織田信長の本意は三木城の支城を攻略することである。神吉城主・神吉民部太輔頼定は1578年8月19日陥落。そもそも加古川城での毛利討伐の軍議により、別所氏と羽柴秀吉が決裂した際に、城主・神吉頼定は別所側に就いた。秀吉は、神吉攻めのまえに、野口城を落城させ、1578年7月27日に神吉合戦が始まった。戦力が大きく違うのは明らかで、神吉城はまもなく落城したのである。そして次に落城したのは志方城、城主は櫛橋伊定、1579年9月1日のことであった。この間、三木合戦はずっと続いているのであるが、結局終わったのは1580年2月2日であるから役2年間に渡っている。この間に三木氏を継続して支援したのは、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木通秋である。海沿いにある高砂城や魚住城などに兵糧の陸揚げがされて、そこから三木城に陸送されるという陸海輸送が頻繁に行われたのである。このときに大きく応援したのが、先に当ブログで紹介した村上水軍である。

黒田重隆1508-1564(龍野城主・赤松政秀→小寺政職に仕える)
  ┗黒田職隆1522-1585(姫路城代)⇔赤松政秀
  ┃┣娘         蜂須賀正勝1526-1586           
  ┃┃┣-         ┣蜂須賀家政1558-1639   
  ┃┃浦上清宗-1564    ┗イト
  ┃┣黒田官兵衛孝高1546-1604  ┣-  
  ┃┃      ┣①黒田長政1568-1623
  ┃┃      ┣黒田熊の介 ┃      
  ┃┃ 櫛橋伊定 ┃1582-1597  ┃

  ┃┃    ┣光姫1553-1627  ┣黒田高政1612-1639東蓮寺藩初代  
  ┃┃    ┣櫛橋政伊?-?   ┃  

  ┃┃    ┣妙寿尼1545-1613┃  

  ┃┃ 小寺政隆娘┣黒田正好  ┃  
 
 ┃┃     上月景貞    ┃  
 
 ┃┃             ┃  
  ┃┣黒田利高1554-1596     ┣黒田長興1610-1665秋月藩初代      

  ┃明石宗和娘(小寺養女)    ┣②黒田忠之1602-1654
  ┣黒田利則1561-1612      栄姫 
  ┣黒田直之1564-1609         
 神吉氏

ここ秀吉本陣跡は三木城の東数kmの平井というところにある 神吉城と志方城を陥落した後に信長の嫡男信忠が築城したという

秀吉がここに入ったのは1578年8月、10月には別所氏がこの本陣を襲ったが別所敗北に終わる

下の写真は兵が駐屯できるように斜面を削って段上の平坦地を作っているが、規模が尋常ではない

かなり歩いたが、全体の1/10も見れずに引き返した

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村上海賊の娘-15 木津川河口の安宅

2014年05月22日 | 戦国時代

 一方木津川河口には封鎖するかのように織田側の船団が浮かんでいる。6艘の安宅と300の小早である。6艘の安宅はそれぞれ眞鍋水軍の眞鍋七五三兵衛、眞鍋道夢斎の親子、沼間任世・安太夫、沼間義清・又衛門が乗り込んでいる。また他の泉州侍は小早に分乗していた。実は300艘のうち泉州眞鍋の水軍は150艘で、残りの150は有岡城の荒木村重に用意させたものであり、いわば即席の水軍なのである。従って戦闘の状況に応じた陣形を整えるというようなことはできない。それともうひとつ、今でこそ兵糧10万石、輸送船は700艘とわかっているが、当時は極秘事項である。眞鍋にしてみれば毛利の大群のうち兵糧船がどれだけなのかはわからない。攻撃をしかければわかることであるが、毛利1000艘が兵であれば、眞鍋水軍はすぐに殲滅されてしまう。この様な状況下で、毛利・村上水軍と織田・眞鍋水軍は両者様子を見るのであるが、その期限はというと3ヶ月である。つまり、大坂本願寺の兵糧が尽きるであろう時期が3ヵ月後なのである。しかし上杉謙信が動き出して初めて、毛利は眞鍋と戦う。逆に言えば、謙信が動かなければ毛利・村上は戦わずに引き返すのである。では大坂本願寺はどうなるのかというと、それは毛利・村上にとってはそこまで危険を冒してまで兵糧を運ぶだけの義はない。

 要するに、能島村上水軍の棟梁・村上武吉は、上杉謙信は動かないと読んでいた。つまり兵糧輸送は途中で断念して引き返すことになるであろうと考えていたのである。だから、毛利の宗勝と就英が能島の武吉に見方するように口説いたときに、茶番・・・とつぶやいたのである。かくして40kmはなれた木津川河口の眞鍋水軍と淡路岩屋村上水軍は、どちらからも攻めかかることなく徒に日数を送っていた、というのは陰徳太平記に記載があるらしい。

 

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村上海賊の娘-14 村上水軍の小早 

2014年05月21日 | 戦国時代

 前回紹介したのは安宅船。今回は小早について記す。小早というのは小型の早船という意味からもわかるように戦闘には向いているが、船体の全長を覆う甲板、つまり総矢倉が存在しないため防御力は低い。毛利水軍や村上水軍では焙烙火矢や投げ焙烙を武器にしていたため、小型・快速の小早が主力艦であった。写真の小早は能島水軍の村上武吉、景親のものを実物大で再現したもので、村上水軍博物館に展示されていた。いよいよ1576年7月の木津川河口の戦いが始まるが、そこでの主役がこの小早なのである。ここで小早に乗り込む人数であるが、水夫20人と兵10人が基本である。関船の場合は小船の倍、安宅船の場合は水夫100人、兵50人となる。兵糧を運ぶ場合には兵の代わりに兵糧が積み込まれる。すると毛利・村上の水軍は全部で2万人を悠に超えることになるが、兵力は3千から4千というところである。

  北畠親房              乃美宗勝の妹
     ┗北畠師清(信濃村上氏)    ┣景隆
            ┣義顕:因島 ┏村上吉充?-? 青影城主
            ┃      ┗村上亮康?-1608
           ┣顕忠:能島 村上武吉1533-1604
           ┃       ┣元吉1553-1600
           ┃       ┣景
           ┃       ┣景親1558-1610
           ┃       ┣琴姫(養子:実父は村上通康)
           ┃       ┃┣秀元(毛利輝元養子 長府藩祖)
           ┃   (来島城主)┃毛利元清1551-1597(穂井田家)
           ┃   村上通康┃
           ┃  1519-1567┣娘 
           ┗顕長:来島  ┣得居通幸1557-1594        
                           ┣来島通総1561-1597当主
                  ┃・・村上吉継? 当主補佐 甘崎城本拠
                         河野通直の娘 

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村上海賊の娘-13 村上水軍の安宅船 

2014年05月20日 | 戦国時代

 淡路島一帯を支配してきた安宅水軍は、三好氏に仕えて海賊から家臣団となり安宅船を駆使して活躍した。この大型の安宅船が、この時代に広く軍船として用いられたのである。巨体で重厚な武装を施しているため速度は出ないが、百数十人の戦闘員が乗り組むことができたため戦闘能力は高い。また、水軍の艦船には、安宅船のほか、小型で快速の関船と関船をさらに軽快にした小早があり、それぞれ戦艦、巡洋艦、駆逐艦に喩えられる。安宅船は大きいものでは長さ50m以上、幅10m以上の巨体を誇るものもあったようである。安宅船の名は古くは河野氏配下の伊予水軍でその名を見ることができるが、安宅水軍の安宅氏が由来と考えるのが妥当だろう。ちなみに、「村上海賊の娘」では出てこないが、1578年の第二次木津川河口の戦いで、織田信長が部将・九鬼嘉隆に命じて伊勢で6艘の大安宅船を建造させた。その規模は、幅約12m超、長さは30mから50m、鉄張りであったから、毛利水軍が装備する火器の攻撃を防御し、リベンジを果たしたことになる。これが有名な信長の「鉄甲船」である。乗組員の数は5千との記録があるから、6艘で5千として1艘800人くらいが乗り込んでいたこととなる。

村上水軍博物館にある安宅船・関船・小早の模型

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村上海賊の娘-12 淡路水軍衆の党首は安宅信康

2014年05月19日 | 戦国時代

 毛利、村上水軍約1000艘(資料によりまちまちのようである)が圧巻の大群となって大坂本願寺への水路入口、つまり木津川河口を目指している。途中立ち寄ったのは淡路の北端にある岩屋城である。瀬戸内でも最も潮流の激しいと言われる明石海峡を挟んで北が明石、南が岩屋である。この一帯は戦国時代から安土桃山時代にかけて淡路水軍が支配していた。その総指揮官となるのが安宅信康1549-1578で、三好長慶の弟・安宅冬康の長男として生まれたが、父・安宅冬康が三好長慶に殺されたために家督を継ぐこととなった。その安宅信康の立ち位置はというと、本願寺側でもなく織田側でもない中立的立場といってよい。そして播磨の各城主が毛利と織田を天秤にかけていたのと全く同じような状況にあったのである。そこで毛利家は安宅家から岩屋城を借りうけることで、毛利側に引き込むと同時に、この輸送作戦での応援を持ちかけていたことは言うまでもない。安宅のような海賊の老舗は、村上水軍と同じように大名の家臣となるような気性は持ち合わせていない。だから岩屋城でつかの間の逗留をする間も安宅氏に気を許すことはできないのである。

 さて翌日には、毛利と村上の水軍が一気に木津川へと攻め寄せる作戦であったかというと実はそうではなく、織田側を上杉謙信勢力と挟み撃ちにするというのがこの戦いの作戦であった。これは策士・小早川隆景1533-1597の考えでもあり、小早川隆景と同い年の村上武吉1533-1604の考えと一致していた。従って岩屋城からの出撃の条件は上杉謙信の勢力南下であった。何故なのか?解説するとこうなる。そもそも織田信長と相対する足利義昭15代将軍は上杉謙信と毛利を取り込もうと働きかけをしていたが、益なし義なしゆえに動く必要なしという判断を謙信はしていた。毛利家も同様であったので互いに様子を見ていたというところである。因みに村上水軍の本拠地である海道に福山・鞆の浦という風光明媚なところがあるが、将軍足利義昭はわざわざ鞆の浦まで参上して毛利家および水軍を見方につけようとしていたのである。この時、「上杉謙信も、わちきの意向に合意したゆえ、毛利も援護の意思を固めよ」 というようなことを持ちかけたにちがいない。しかしそんな上杉の合意など恐らくない。そんなことは百も承知の毛利、村上軍団であるから、いつ出撃できるのかと岩屋城にてやきもきすることとなる。しかし実は毛利・村上の長はやきもきなどしておらず、折を見て引き返そうと思っていたのである。

 それともうひとつ、毛利、村上水軍の勢力は確かに最強である。眞鍋水軍を中心とする泉州側300艘にくらべると1000艘ではないか・・・・。しかしこれは10万石の兵糧を運ぶ兵糧船を含んでの数であって戦闘可能な舟の数ではない。10万石の兵糧を運ぶのに必要な船は、江戸時代に淀川などで物資を運搬した30石船なら350艘必要である。毛利、村上の主力船は「小早」といって小回りの利く小型の船であるから、30石船の半分しか積載できない。従って10万石、25万俵を運ぶには小早700艘が必要なのである。よって戦闘用の小早は1000-700=300艘となる。岩屋から木津川にむかって出撃するのに300艘使えるかというとそうではない。岩屋城城主・安宅信康という淡路水軍の長は、まだ信用できる人物ではないから、兵糧を守る100艘の小早護衛を岩屋に残す必要があったから、実質的な戦闘数は200艘ということになり、泉州の300艘を下回ることになるのである。これを知る小早川隆景、村上武吉にしてみれば、泉州に対抗するにはどうしても上杉謙信の力が必要だったのである。そしてそれは期待できない。従ってしかるべきタイミングで引き返す・・・なのである。

 ところで、現在の岩屋城は関が原の戦い以降に池田輝政により築城されているから、ここでいう岩屋城は別であるが、両者はさほど離れてはいない。また岩屋城とは淡路島の反対側にあたるところに淡路城がある。実はむかし淡路島の八箇所に築城されたのであるが、熊野水軍の頭領である安宅氏により最初に築城された洲本城を本拠にして各地に増築されたのである。三好氏の重臣・安宅治興が築城した後は三好長慶の弟・安宅冬康、そして嫡男・信康へと受け継がれた。

安宅信康が支配した淡路城

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