1579年7月6日、播磨三木城の包囲中に病に倒れ黒田官兵衛重治は死去した。荒木村重が有岡城を逃げ出したために篭城戦が終結したのが1579年10月19日、三木合戦が終息したのは1580年2月2日という時代背景の最中に死去していることがわかる。黒田官兵衛が荒木村重の有岡城に幽閉されていた間、黒田官兵衛の嫡男・長政をかばって長浜に匿っていたことは周知のことであるが、これは竹中半兵衛自身の療養も兼ねていた。半兵衛はこの頃からすでに自らの死期を悟り、戦場で死にたいと秀吉に懇願して播磨三木の平井山秀吉本陣に戻り、陣中にて7月6日に死去したのである。本営のあった山に続いたぶどう畑に白い練り塀に囲まれて、半兵衛の墓があるが、実はここ以外にも墓があるということで行ったが、墓石は見つけることができず、看板だけを後にし、そのあとは半兵衛の陣中跡にも行ってみた。
竹中半兵衛重治は、1544年美濃斎藤氏の家臣・竹中重元の子として生まれ父の死去により家督を継ぎ、斎藤義龍に仕えた後、斎藤龍興に仕える。 織田信長による美濃侵攻に対して義龍死去後の龍興時代には、家臣団に動揺が走り攻防が困難となっていたが、重治の伏兵戦術で織田勢を破ったとされている。主君の龍興は政務を顧みず、重治や美濃三人衆を政務から遠ざけていた。このため1564年、弟の重矩や舅の安藤守就と共に龍興の稲葉山城を奪取した。織田信長が重治に稲葉山城を明け渡すように要求したが重治は拒絶し、自ら稲葉山城を龍興に返還すると斎藤家を去り、浅井長政に仕えた。1567年信長の侵攻により美濃斎藤氏が滅亡すると信長は、重治を家臣として登用したいと考え、木下藤吉郎秀吉に織田家に仕えるように誘わせた。重治はこのとき、秀吉の才能を見抜いたとされており、信長に仕えることは拒絶したが、秀吉の家臣となることは了承したとされる。 秀吉が織田家の中国遠征総司令官に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加する。1578年宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城させ、信長に賞賛された。同年、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して、秀吉幕僚の黒田孝高官兵衛が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、捕縛されたため、信長は孝高の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じたが、重治は松寿丸を匿った逸話がある。
杉山久左衛門の娘(妙海大姉)
┣竹中重隆
┣竹中半兵衛1544-1579
竹中重元 ┣竹中重門1573-1631
安東守就(西美濃三人衆)・娘姉(徳月院)
遠藤盛数(美濃・斉藤氏家臣) 安東守就(西美濃三人衆)・娘妹
┃ ┣
┣慶隆・長男 八幡城主二代目
┣慶胤
┣慶直
┗千代(見性院)1557-1617
┣与祢1580-1586
山内盛豊 ┣忠義1592-1665(養子)
┣山内一豊1546-1605(初代土佐藩主,秀吉の家臣)
┣山内康豊
┃ ┗忠義
梶原氏・娘