播磨の国、作用の地を治めていたのは赤松氏。近辺にある播州CC、船坂CC、作用CCなどのゴルフ場へいくたびに気になっていたのが赤松氏を城主とする上月城。今回、ダイヤモンド作用CCの帰り道に頑張って登山を敢行して頂上にある上月城址まで行って来た。わずかに400mですが急勾配登山はほんとうに辛かった。。播磨国の中世が赤松氏、北条氏と大きく関わっていた説明は次。
播磨国はもともと平家の知行国であった。源頼朝によって鎌倉幕府が成立すると守護制度が設けられ、最初に播磨守護となったのは北条義時と懇意の梶原景時であった。 赤松氏系図に登場する赤松則景が佐用庄地頭職に補任せられ、北条義時の娘を娶った豪族である。 則景の子、間島景能・上月景盛・櫛田有景など則景の一族には景の字が多く襲名されれおり、播磨守護梶原景時との関係が伺える。しかし梶原景時は、1199年千葉常胤弾劾状によって失脚し、討たれてしまった。この事件に際し、北条義時は梶原氏擁護の立場に廻っている。 梶原景時失脚後、播磨の守護は小山朝政が任ぜられたが、執権北条義時の息のかかった佐用庄では、たとえ梶原景時と関係の深い赤松則景であっても、守護や幕府はその佐用庄地頭職を解任することはできなかった。 赤松氏の祖家範は則景の末子となり、佐用庄の一部の赤松村の地頭代官に補せられた。 鎌倉時代、播磨に地頭として、あるいは地頭の被官として下向した東国武士は、元弘の乱から南北朝期にかけての赤松円心を中心とした赤松一族の躍進によって赤松氏の被官となり、さらに婚姻などによって一族化することで播磨国の中世は、赤松氏によって大きく開かれていく。
赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く)
┣赤松則祐1314-1372
┃ ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
┃ ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝
┃ (摂津有馬氏祖) ┣赤松祐尚(英賀城主 足利義教近習)
┃ ┃ ┗則尚1425-1455
┃ ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)
┃ ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
┃ ┗赤松時勝
┃ 置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
┃ ┗娘 ┗赤松村秀1480-1540(庶流)
┗赤松氏範1330-1386 ┣ ┗赤松政秀?-1570┳赤松政広1562-1600竹田城主 竜野城主
┣氏春 (置塩城主)赤松義村?-1521 ┏娘┛
┣家則 ┣赤松晴政 1513-1565
┣祐春 ┃ ┗赤松義祐1537-1576 信長に通じる
┣季則 ┃ ┗赤松則房?-1598 秀吉に仕える
┗乙若丸 ┗政元1500-上月城主 ┗則英?-1600 関ヶ原では西軍・自害(赤松氏嫡流は途絶える)
戦国時代末期になると宇喜多系上月氏、や秀吉系尼子氏が入城。三木合戦が始まる少し前、上月城の戦い(1578/4/18-7/3)が始まった。毛利軍と尼子勝久を担いだ尼子残党、つまり織田軍との戦いである。尼子勝久を担ぐ山中幸盛(鹿介)らの尼子氏再興軍が、織田側により上月城の防衛を任されたのである。毛利軍が上月城に向かったとの報を受けた羽柴秀吉は、三木城の攻撃を継続させつつ、自らの手勢を率いて尼子軍支援のために動いた。これに対して、圧倒的大軍で上月城を包囲した毛利軍は兵糧攻めにより城兵の戦意を喪失させる作戦にでる。この時、織田信長は三木城の攻略と毛利軍の足止めのために、神吉城・志方城・高砂城といった三木城の支城攻略に力を注いだため、秀吉の上月城応援の嘆願むなしく、尼子軍は絶望的な状況に立たされた。擁すれば上月城の尼子軍は事実上の捨て駒として扱われたのである。秀吉の尼子救済の嘆願は、黒田官兵衛の思惑が大きく働いていると思われる。(根拠は下記系図) 孤立した尼子勝久は自刃、山中鹿之助は毛利軍により備中松山に移送される途中で(岡山県高梁市)で殺され、首は鞆の浦(広島県福山市)に送られたという。 (高梁市も鞆の浦も行っているが山中鹿之助ゆかりの場所には気づかなかった。) かくして勝利した毛利氏はこの戦いを契機に本格的に織田氏との戦争状態に入っていった。因みに同年7月に荒木村重が石山本願寺と連携し、織田氏から離反している。
(捕捉追記)上述のように織田信長の本意は三木城の支城を攻略することである。神吉城主・神吉民部太輔頼定は1578年8月19日陥落。そもそも加古川城での毛利討伐の軍議により、別所氏と羽柴秀吉が決裂した際に、城主・神吉頼定は別所側に就いた。秀吉は、神吉攻めのまえに、野口城を落城させ、1578年7月27日に神吉合戦が始まった。戦力が大きく違うのは明らかで、神吉城はまもなく落城したのである。そして次に落城したのは志方城、城主は櫛橋伊定、1579年9月1日のことであった。この間、三木合戦はずっと続いているのであるが、結局終わったのは1580年2月2日であるから役2年間に渡っている。この間に三木氏を継続して支援したのは、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木通秋である。海沿いにある高砂城や魚住城などに兵糧の陸揚げがされて、そこから三木城に陸送されるという陸海輸送が頻繁に行われたのである。このときに大きく応援したのが、先に当ブログで紹介した村上水軍である。
黒田重隆1508-1564(龍野城主・赤松政秀→小寺政職に仕える)
┗黒田職隆1522-1585(姫路城代)⇔赤松政秀
┃┣娘 蜂須賀正勝1526-1586
┃┃┣- ┣蜂須賀家政1558-1639
┃┃浦上清宗-1564 ┗イト
┃┣黒田官兵衛孝高1546-1604 ┣-
┃┃ ┣①黒田長政1568-1623
┃┃ ┣黒田熊の介 ┃
┃┃ 櫛橋伊定 ┃1582-1597 ┃
┃┃ ┣光姫1553-1627 ┣黒田高政1612-1639東蓮寺藩初代
┃┃ ┣櫛橋政伊?-? ┃
┃┃ ┣妙寿尼1545-1613┃
┃┃ 小寺政隆娘┣黒田正好 ┃
┃┃ 上月景貞 ┃
┃┃ ┃
┃┣黒田利高1554-1596 ┣黒田長興1610-1665秋月藩初代
┃明石宗和娘(小寺養女) ┣②黒田忠之1602-1654
┣黒田利則1561-1612 栄姫
┣黒田直之1564-1609
神吉氏
文政年間建てられた赤松氏の供養塔