どこの書店でも、さまざまな受験対策の本はベストセラーのひとつ
「アメリカには日本のような『受験』がなくていいですね」とよく言われます。確かにアメリカには、「決まった受験日のテスト結果で合否を決める」という日本のような受験制度はありません。が、実はアメリカにもそれなりの受験制度があり、子どもたちはそれなりに熾烈な競争に晒されて高いストレスを抱えています。受験が原因で子どもが自殺するという悲劇も、ほぼ毎年のように繰り返されています。
アメリカの受験にも、私立中学校から大学や大学院までほぼ共通のパターンがあります。一斉テストが基本の日本と違い、アメリカの受験の基本は書類選考です。
アメリカの受験生は [1] 学校指定の応募用紙に必要事項を記入し、[2] 在学中または卒業した学校の成績表と偏差値、[3] SATと呼ばれる全国一斉学力テストの総合得点、[4] 志望校の出題による小論文(1-2本)、[5] 学校の先生はじめ指導者からの推薦状、[6] その他自薦・他薦の根拠となる提出物、を添えて志望校の入学審査担当(Admission Office)宛てに送ります。
[1] 応募用紙(Applicatuon Form)に記入するのは、受験生(と家族)の個人情報、志望動機、それから学業以外の活動についてです。学業以外の活動として問われるのは、スポーツやアートなどの活動歴、ボランティア等の地域活動の実績、学校内外でリーダーシップをとった経験についてです。いずれも「そのような活動経験があれば書きなさい」という要請ですが、各項目別に記入枠があり、志望動機も活動歴も、それぞれ簡潔ながら必要十分に詳しく作文することが求められますから、空欄になるとかなり目立ちます。つまり応募用紙は、ただの事務手続きの書類ではありません。受験生が自分自身についてかなり詳しく『自己紹介』するための書類なのです。従って、いかに簡潔に且つ魅力的に自分自身を語れるかが勝負になります。
[2] 成績表は学校の教務担当が出す成績証明書。
[3] SAT(Scholastic Assessment Test)は受験を希望する生徒が学校外で受ける「一斉学力テスト」の成績です。1901年に全米の高等教育機関の評議会によって導入されたもので、アメリカ国内だけでなく、海外からの受験生にもスコアの提出が要請されます。試験は毎年7回実施され、志望校の願書提出期日にさえ間に合えば、いつ受けても、また(理論的には)何度受験してもかまいません(実際にはいろいろテクニックがあります)。『英語・歴史・社会・数学・自然科学・外国語』の5分野から、一度に3科目まで受験できることになっており、各科目800点満点。SATは、言うまでもなく生徒の実力判定です。成績表は在学している学校内での相対的な評価になりますから、当然、学校によって差がでます。SATはそのような学校間格差をこえた生徒の実力をみるためのもの、とされています。
[4] 小論文(Essay)は志望校の出題に従って書きます。課題は『自由』という場合もありますが、複数の課題が出る場合には、そのうちの1本はたいてい志望動機を問うか、受験生に自分自身を語らせるものです。「なぜこの大学への入学を希望するか」という単刀直入なものから、「本学があなたを入学させたら、あなたは本学に、また卒業後社会にどのような貢献ができるか」などの、ややひねった問いかけの場合もあります。私のスタンフォード大学時代のアシスタントが医学部(大学院相当)を受験した時、2本の課題小論文のひとつは「あなたが『自分は医師に向いている』と考える理由を説明せよ」という課題でした。
自分が行ってきた諸活動について詳しく書かせる場合もあります。「課外活動(スポーツ、アート、地域活動など)の経験から学んだことを書きなさい」というような出題が典型です。
娘の中学受験時は二者選択のエッセイ課題でしたが、1つは「20年後の自分が過去を振り返って伝記を書いていると想定して、現在から20年後までのあなたの人生についてできるだけ詳しく書きなさい」。もう1つは「今すぐ誰か自分以外の人になれるとしたら、誰になって、何をしたいですか?」でした。受験もなかなか「クリエイティブなのね~」と感心させられたので憶えています。
[5] 推薦状は、まずは自分自身の学業成績をご存知の先生(つまり教科担任の先生)に書いていただきます。英語か数学、またはその両方の先生に書いていただくのが基本です。つまり今日でもこの2科目(読み書きそろばん、つまり3Rsですね)が学業の基本とみなされているわけです。また特に得意とする科目については、その担当教官から推薦状をもらいます。たとえば『人となり』については担任の先生から、スポーツで奨学金への推薦を得ているような場合にはコーチやクラブの先生から、また生徒会の活動やクラブのキャプテン経験などについては、それぞれの顧問の先生に書いていただきます。学外の活動については、それぞれ、その活動を最もよく知る人(たいていはその活動の指導者)に書いてもらいます。
[6] 自薦他薦の根拠となる添付物としては、「絵が自慢」という場合には作品のポートフォリオを、「音楽が得意」な場合には演奏を録音したメディアを、また「文章が上手」なら出版されて活字になっている記事/論文などを送ります。「スポーツ」は試合での活躍の様子の映像や受賞記録を、ダンスや舞台などの「パフォーミング・アーツ」にも映像を加えます。そこは、さすがアメリカ。なんでも好きなものを添付して送ることができます。
以上が中学から大学・大学院に至るまでのアメリカの受験に共通の提出物です。娘の中学受験や大学受験でも、私の助手たちがスタンフォード卒業後に医学部やロースクールあるいはさまざまな大学院を受験したときにも、求められる情報は基本的に同じでした。
アメリカの受験は「一発勝負ではない」という意味では楽に見えるのですが、実はそれだけに、受験生に求められることは、あたかも受験までの人生の総体を示すと言っても過言ではありません。一朝一夕では身につかないことばかりです。しかも、学業はもとより、課外活動も、ボランティア活動も、リーダーシップの経験もとマルチタレントであることが当然のごとくに前提されています。ですから、『一夜漬け』が効かないだけでなく、いわゆる『受験勉強』だけしていればよいというわけにもいかないのです。その意味でアメリカの受験もかなり大変です。
アメリカでも受験に際しては学業成績が重視されます。というよりも、進学して勉強したいと言うからには「学業成績が良いのは当たり前」と日本以上に明快に考えられています。だから、SATの点数や学校の成績が悪ければ、いわゆる一流校には入学できません。が、学業成績は『必要条件だが、必要十分条件ではない』というのがアメリカ流の考え方です。だから学業以外のアートやスポーツなどの活動歴が問われ、これを問うことで創造性やチームスピリッツを身につけているかどうかが、また継続的な努力やコミットメントができるタイプの人間であるかどうかが問われます。課外活動を聞かれた時に欠かせないのが地域でのボランティア活動経験です。市民性やチャリティ精神を示す活動を日ごろからきちんと実行していることが重視されます。最後に、必ず問われる質問はリーダーシップについてです。具体的には生徒会の運営経験や、スポーツチームや地域活動での組織づくりやリーダーとしての経験の有無が問われます。
さて、たかが受験の願書と言ってしまえばそれまでなのですが、実は、ここからかなりはっきり見えてくるものがあります。それはアメリカの大学が、ひいてはアメリカ社会が若者に求めている『期待される人間像』です。受験から浮かび上がってくるアメリカ型『期待される人間像』は、学業優秀かつ創造的で、継続的に何かに取り組む精神的・肉体的なタフネスとチームワークの精神を合わせ持ち、組織を作ったり、その組織を率いたりするリーダーシップがある人、すなわち優秀で勤勉でタフで思いやりのあるリーダーです。もちろんよき市民としての責任感があり、ボランティア精神があることは当然の常識です。
つまりアメリカの大学は、受験を通じて、受験生と社会に、大学が求めている「期待される人間像」を明示しているばかりでなく、ひいては受験生に自らそのような人間であることを証明してほしいと求めているのであり、さらに言えば、受験生をしてそのような人間たろうと努力させるように導いてもいるわけです。
もちろん「そんなもの、ただの『タテマエ』じゃないの?」と揶揄するのは簡単です。が、たとえタテマエでも、アメリカの若者は幼い子どもの時から大学や大学院に至るまで、ずっとこの同じメッセージを受け取り続けているのです。そのように考えると、アメリカ流『期待される人間像』の影響力というものは案外無視できないのではないかと思われます。
さて翻って日本の受験制度を考えてみると、では、日本の大学が、日本の社会が、今の受験制度を敷くことによって受験生に「かくあれ」と期待し、求めているのはどのような人間像なのでしょうか? 日本の大人たちは、現在の受験制度を維持しつづけることで、若者に「どのような人であれ」と語りかけているのでしょう?
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