浅間の麓から

張替本舗 金沢屋浅間店の張替日誌

『Microsoft Windows 7』

2010年10月22日 19時03分34秒 | パソコン

Microsoft Windows7が発売されてちょうど1年が経ちます。

昨年の発売時期、巷では発売に合わせて徹夜組みまで出て大変な騒ぎだった事を思い出します。
あれから早
1年。

Microsoft21日の発表によると、同OSライセンス販売数は、24000万本以上になるそうです。また、7月の業績発表時から約3カ月で6500万本も売れたことになるらしい。数字だけ見ると、世界規模で驚異的な売れ行きであると察しがつきます。

Windows 7200991日に企業向けに、1022日に一般向けに発売されました。Microsoftによると、これまでの同社OSの中では最速ペースで売れているそうです。米Net Applicationsによると、世界のOS市場における9月のWindows 7のシェアは17%。依然としてシェア60%のWindows XPには届かないそうですが、Windows Vista13%)は上回ったとの事。現在世界には12億台のWindows搭載PCが存在しており、9月時点でのコンシューマー向けPC93%はWindows 7が搭載されているそうだ。

Computer Economicsの調査によると、2010年初頭の時点で米企業の約3割が同OSへのアップデート予算を計上しているらしい。いまだに多くの企業/個人ユーザーが利用しているWindows XPのサポートも、2014年には打ち切られてしまう.

そんな中、Windows7の後に続く、OSも近いうちにすぐ出てくるのだろう。買い替えもそう簡単にはいかないのだが
使い手における
PCOSの世界においては、「温故知新」という言葉の真逆であるのかもしれないですね。

因みに、明日1023日(土)、PCの聖域秋葉原でイベントが開かれるようです。


「世界のHANEDA」

2010年10月21日 18時41分01秒 | 日記

本日、羽田空港が新国際線ターミナルと4本目の滑走路となるD滑走路がオープン致しました。
成田空港の開港以降、国際線は成田、国内線は羽田と分港していましたが、成田空港の制約付運行時間帯もあり、世界各国からの新規日本乗り入れに支障をきたしておりました。


最近の国際線では、韓国の仁川国際空港やシンガポールのチャンギ国際空港等、アジアのハブ空港の座を奪われておりました。今や世界のハブ空港の常識である、
24時間運行が無理な成田空港では、新規航空会社の乗り入れは運行上図れない現実があったわけです。更に、現行滑走路(4000mと2500m)の2本体制なども拡張に限界がありました。


最近では、
LLC(ローコストキャリア)やプライベート機の進出等も、格安であるが故の時間帯運行や、首都経済ビジネス圏との交通利便性を考えた場合、成田空港での魅力が見出せない状況にありました。追い討ちを掛けるとすれば、高額な空港使用料金(着陸/駐機)も新規参入会社のネックとなる部分でした。

 

本日、新規オープンした新たな羽田空港には、成田空港の「負」の部分を払拭し、日本経済に新たな活路を見出すものとして期待をしております。

また、旅客のみでだけではなく、国際貨物のハブにもなって欲しいと願う次第であります。24時間運行の利便性を駆使し、特に生鮮貨物や物作り日本に代表される工業製品の輸出入活性化に、日本経済の起爆材となっていただければと思います。

 

年明けには、世界17都市との便が運行予定です。私の好きな都市も新たに定期便化される予定であり、今後の羽田空港使用を楽しみにしています。

皆さんも、「新しいHANEDA」からTAKE OFFしてみませんか!!

関連記事
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20101021-00000519-fnn-soci

http://www.tokyo-airport-bldg.co.jp/


『新聞広告の日』

2010年10月20日 16時51分31秒 | 今日は何の日

今日1020日は、私達業務にも大いに関係ある『新聞広告の日』です。

最近では、急速なPCの普及、更には電子広告の普及により、新聞広告掲載や新聞折込みも減少傾向にありますが、やはり新聞での訴求を求められるお客様もいらっしゃいます。

 
しかし、折込み広告はチラシと現金を持って新聞販売店に「入れてもらう」という自然発生的な形態と考え方が、今日まで基本的に変わっていないのも減少理由の一因でもあるようです。

このため、現状の折込み広告の慣行や仕組みそのものが、「新聞販売業界内輪の都合を優先したものだ。」と批評する方もいらっしゃいます。

『いわば、新聞販売店の副業としての価値観で取り扱ってきた広告メディアといえる。(副業にしては販売店収入にとっては重要なウエイトを占めている)

だから、メディア側である新聞販売店から顧客への提案は、広告の目的や効果を考慮した視点のものはほとんどない。逆にあるのは、販売競争のあおりが広告レベルに適用された自主規制( ex. クーポン……)や、顧客ニーズをあまり配慮しない新料金設定の類ばかり。』との苦言も耳にしております。

数年前までは、黙っていても新聞広告や新聞折込みチラシはどんどん増えていきました。

マス媒体が低迷している時ですら、折込み広告は「遅れてきた高度成長」を謳歌し、まさに「奢れる者久しからず」そして今日、広告効果にこだわる広告主を無視してきたツケが当然のように回ってきて、折込み広告離れは徐々に進んでしまったようにも思われます。

1974
年に「新聞折込みの日」と制定されて以降、36年目の今日を迎えたわけですが、紙離れ現象が更に進んでいく中、これからの「新聞広告」/「新聞折込み」の方向性に目が離せません。

因みに、アメリカでは「5年以内に紙の本が消える」と提唱した学者もいました。本が5年以内という事は、果たして日本の新聞運命は何年でしょうか

 今の国内新聞各紙、原理原則客観的に報道がなされなければ、自ずと新聞離れは進むでしょう。良い例が、対中国に関連する記事などでしょうか。

軽井沢

2010年10月19日 19時05分29秒 | 旅行
 本日午後、軽井沢のお客様へ打ち合わせに伺った際、雲場池の前を通ってみました。
平日にも関わらず、他府県ナンバーの車、また散策の方や、紅葉始まりの写真を収めてる方など、思った以上に賑わっていました。

ここ最近、あちこちで熊の出没ニュースが多い中、「雲場池を散策してる方も、十分気を付けて欲しい。」と車窓より遠目に思う次第でありました。
軽井沢も、ついこの前までの猛暑は一体何だったのだろうか?と思うような気温になり、朝晩はそれなりに冷え込んで来ましたね。
そんな中、雲場池も綺麗な色合いになり、水面とのコントラストが一段と映えているんですね。

そもそも雲場池は、御膳水からの清冽な水を源とする、六本辻近くにある静かな池なんです。「スワンレイク」とも呼ばれており、カラマツやモミジの木々に映え、とても落ち着いた雰囲気の場所なんです。

 水面に映る木々、のどかにたたずむカルガモ、そして軽井沢の気候が織成す情緒豊かな景色がなんともいえない雰囲気を持っています。また、1周20分ほどの、のんびり散策するのにもってこいの場所なんですね。
 天皇陛下も、軽井沢を訪れた際は必ず、この雲場池でのお散歩を1~2回は楽しまれるそうです。

 新幹線や高速道路が出来るまでは、軽井沢が妙に遠く感じたのを覚えております。今のように日帰りという事はなく、軽井沢で一泊してた事を思い出しますね。開通以前、東京から車で来る場合、軽井沢手前の
国道18号線碓井峠県境が最後の鬼門でした。特に冬場の時は、最悪でしたね。普通に雪道を上って行くと、時折対向から下ってくる車がスリップして、突っ込んでくるんですよ!何とか避けたら、その車は運良くガードレールとキスして止まってましたけど。

またレールでは、何と言っても信越本線の横川-軽井沢(車同様碓井越え)間の急勾配ですね。当時は、峠のシェルパと言われた電気機関車、
EF63が両駅間で活躍していたんです。今では廃線となってしまい、バスによる振替輸送になっています。ただ、国道18号線旧道を走りますと(所々ガードレールがないです)、当時の信越本線急勾配の面影が見られますので、時間があればゆっくりと秋の軽井沢を旧道で堪能されてはいかがでしょうか。
これから紅葉真っ盛りの軽井沢、それぞれ自分たちの今昔物語に盛り上がって 下さい。

紅葉の雲場池      春間近の雲場池



『オレンジ中央線のラストラン』 

2010年10月18日 16時48分49秒 | 旅行

昨日、JR中央線,オレンジ電車のラストランがありました。

オレンジ電車は、JR中央線の快速電車として約30年間にわたって使用されてきました。オレンジ一色の車体「201系」車両が昨日17日、引退することとなり、豊田(東京)-松本(長野)間を臨時列車としてラストランし、多くの鉄道ファンが別れを惜しんでいました。

国鉄時代から都心部の通勤・通学客を運び続けてきた201系は、首都圏を走る国鉄の通勤路線が「国電」と呼ばれ、各路線の電車が単一のシンボルカラーに塗られていた時代の最後の生き残りなんです。

1979年に中央線でデビューしたときのキャッチフレーズは「省エネルギー国電」。オイルショック以後の省エネブームのなか、鉄道車両の省エネ化を目指す新型通勤電車として誕生しました。

 それまでの国電車両は前面まで単一カラーでしたが、201系は車体を単色でカラーリングする原則を踏まえつつ、車両前面の上半分は黒い鋼製パネルで覆われました。“ブラックフェイス”と呼ばれるその面構えは当時、とても斬新なデザインでした。

 その半面、201系は製造コストが高く、財政難の国鉄では量産に適しませんでした。それゆえ他の路線へは普及せず、従来型の国電車両は201系より後に導入されたステンレス車両へと置き換えが進行。唯一残った非ステンレス製の201系は中央線のみを走る異色の存在となっていたんです。

 通勤電車には、新幹線や豪華特急のような華やかさはありません。しかし、他路線車両の世代交代に影響されず、中央線沿線の人たちの日常生活を30年間黙々と支え続けたオレンジ電車は間違いなく、都心部における昭和の名優だったと言えるでしょう。
あの、乗車率300%が本当に懐かしく思えます。お疲れ様でした....

201系車両


新型のE233系車両です