旧岩崎邸庭園 旧島津公爵邸 旧前田侯爵邸
上野・池之端にある都立公園である「旧岩崎邸庭園」には何度か訪ねたことはあるが、いつも来場者が多い。来場者がいないときにゆっくりと写真を撮ったり写生が出来るときを狙っていたが、ここはあまりにも有名で、しかも大河ドラマ「龍馬伝」の影響もあって連日観光バスが・・・、でも真夏の平日ならとひそかに計画を組んで・・・、2010年8月17日お盆明けの火曜日・前日の天気予報では快晴でこの夏一番の暑さ・・・と伝えていた。当日の最高気温37度2分(2010年東京での最高気温を記録)、正午に訪ねたら思い通り観光バスどころか訪問者はほとんどいない。3時間ほど滞在したが数名と出会っただけだった。ご覧のように誰もいない庭園側から見た写真が撮れた。執念と根性!
旧岩崎邸の敷地は三菱財閥初代・岩崎弥太郎が明治11年(1878)に元舞鶴藩主であった牧野氏から購入、この洋館は3代目である岩崎久弥(弥太郎の長男・男爵)によって明治29年(1896)に建てられた。洋館は岩崎家の迎賓館として、撞球室(写真左)とともにジョサイア・コンドルの設計で、ともに国の重要文化財に指定されている。「龍馬伝」は岩崎弥太郎(香川照之)が幼馴染の坂本龍馬を回想する形で進められた。今年5月大学時代の先輩たちとOB会の旅行で高知に出かけたとき、延泊して安芸を訪ねた。つまり弥太郎の生家(写真右)を見たかったからである。高知駅前でレンタカーで借りて安芸に向かったがほぼ1時間ほどかかった。移動距離は40Km、ここで不思議に思ったことがある。「龍馬伝」では弥太郎と龍馬の家をしばしば行き来していた。ドラマでは歩いてだが、この距離ならほぼ1日かかる距離である。納得がいかないので、弥太郎生家案内のボランティアの方に質問したら、二人は高知にいる時代では出会ったことはなかったそうである。ドラマでは貧乏な家の感じだったがまずまずの家で、土蔵の鬼瓦には岩崎家の家紋である三階菱(写真左)があった。これと土佐藩主山内家の家紋・3ツ柏を組み合わせて、九十九商会の船旗号が作られ、これが現在のスリーダイヤの三菱マークになったと言われている。洋館の内部は撮影禁止なので紹介できないが、さすが岩崎家の迎賓館と納得する内容で詳しく案内してもらえる。右は拙い水彩画であるが、F4号で描いてみた。
旧島津公爵邸 (現清泉女子大学本館)
旧岩崎邸と同じジョサイア・コンドルが設計した「旧島津公爵邸」、かねて訪ねてみたいと清泉女子大に見学ツアーを申し込んでいたが、念願かなって11月下旬に訪れることが出来た。JR五反田駅から歩いて10分ほど、小高い丘にキャンパスがある。コルドバ出身で世界最初の聖心侍女修道会をマドリードに設立した聖ラファエラ・マリアポラスの精神を引き継いでいる清泉女子大学だけにすれ違う学生は概ねさわやかで行儀よく、ちょっと今の女子大生と違う感じだ。時間になって案内してくれるのは学生の方だ。メモを読みながら間違えないように真剣に案内してくれた。敷地は明治6年島津家の所有になるまで130年間仙台伊達藩の下屋敷だった。明治39年(1906)にJ.コンドルに設計を依頼し、大正6年(1917)に竣工した旧島津公爵邸、第二次世界大戦の時期に島津家から日本銀行に売却され、戦後GHQに接収、戦後9年間駐留軍の将校宿舎として使用された。昭和36年(1961)横須賀から移転を願っていた清泉女子大学が日銀から土地・建物を購入した。チャペルを除いて屋内の撮影もOKである。正面玄関にあるステンドグラス(写真左)の上部に「丸に十字」の島津家の家紋が記されていて、この建物がその昔、島津家の所有だったことを思い出される。島津家が使っていた数々の重要な部屋は大学には大きな負担がかかっていると思うが、ほぼ当時のままで大事に保存されている。旧島津公爵邸洋館とは関係ないが庭にとても大きな「フウ(楓)の木」がある。フウの木とは全国的にも珍しい植物で、漢字では「楓」と書きますがカエデとは違って「マンサク科」の落葉の高木です。台湾や中国南部に自生しているが、このふうの木は享保のころ(1716~1735)に日本に渡来した台湾フウの種類だそうだ。幹回り3m、高さ10m、推定の樹齢は200年、仙台伊達藩の時代に眺望に優れた庭園の景観をひときわ引き立てているのがこのフウの木で、その時代には「高尾もみじ」と呼ばれて有名だったそうだ。このような大きなフウの木は珍しく京都府立植物園にも大きなフウの木があるが樹齢100年くらいといわれている。これもかねてから見たいと思っていたが、ちょうど見事な紅葉で見られて大満足であった。
旧前田侯爵邸 (目黒区駒場公園)
旧島津公爵邸を訪ねたことを世界一周クルーズの芝原さんに話したら、目黒区駒場に旧前田侯爵邸があるよと聞いたのでさっそく訪ねてみた。井の頭線駒場東大前駅から歩いて10分とあったので、同駅を降りて向かったが住宅地の中で案内表示が少ないので分かりにくかった。訪問されるときは地図をよく確認して行かれることを勧めます。訪ねてみてビックリしたのは由緒ある建築物なのに、住宅街にある少し大きな公園にふつうに存在する建物みたいにあることだ。前田家は明治17年に侯爵という爵位を与えられて加賀百万石の威信を保ったが、本郷の土地を東大に譲り前田家の子孫はこの目黒の地に屋敷を構えた。昭和4年16代当主前田利為侯爵は一万坪の土地に鉄筋コンクリート2階建、地下1階、銅板葺、塚本靖・高橋貞太郎設計によるチューダー様式の洋館を建てさせた。当時は東洋一の大邸宅と注目された。例によってこの建物も戦後GHQに接収、第5空軍司令官や極東総司令官の官邸として使われ、1時期旧中島飛行機の所有を経て、和館と土地は国のものとなり、昭和38年旧前田邸に公園を造ることになって洋館を東京都が買収、国有地である土地は無償貸与さて、旧前田侯爵邸は駒場公園となり、その後公園の管理は目黒区に移管された。岩崎邸や島津邸よりも見る価値があるという人もいるくらい価値ある存在だ。