文政5年(1822)杵築より竹田荘へと向かう田能村竹田は
「岡阜(岡や山)は高低、洲渚は曲折す。・・終日山光水色の間を往復し、
神情甚だ舒ぶ」と絶賛している。
天文15年(1546)には、喜望峰を発見したバスコ・ダ・ガマの子
ヅァルテ・ダ・ガマが入港し、府内へと向かった。。
日出藩の殿様木下候は、北の政所の親戚。。故に、何度となく訪れている。
しかし、現在樹齢500年を誇る松屋寺の蘇鉄を見る以外、
今は訪れる人も少なく、侘しささえ漂う町である。
ここに、豊後三賢人のひとり帆足万里は生まれた。。
安芸の三浦梅園や日田の広瀬淡窓との交流で、学問に打ち込める土台はあった。。
日出藩の家老となり藩政の立て直しや藩校[致道館]への尽力。。
自然科学、蘭学、、すべての学問への探求心たるや、凄いものがある。。
彼のもとには、豊前豊後は勿論、九州各地、遠くは越後から数百人が集った。。
帆足万里が開いていた私塾跡へ向かう途中振り返り、高速道路、別府湾を望む。
その後、山道は木や竹に覆われ行く手を阻まれた。。。
葉が落ちた頃に、また来るつもりだ。。。
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