~1フィート運動騒動記~ 20-8
沖縄戦60周年の2005年ぼくは沖縄テレビの山里孫存ディレクターと共にアメリカ公文書館からフィルムを自主購入し、沖縄戦のフィルムに登場する人たちを訪れる番組の制作を手伝っていた。 また琉球新報の戦争を知らない世代の記者たちが作製していた「沖縄戦新聞」という企画も手伝っていた。 結構忙しくしていたことを覚えている。
そんな中で何も仕事せず、暇を持て余していた1フィート運動事務局に琉球新報は「特別賞」を贈呈したのだ。 ぼくは1フィート運動の腐り切った内幕を知っていたから、「またか」とウンザリしたが、誰にも一言も不平をコボさなかった。 琉球新報の若手記者たちは全く無知だったから、ぼくが1フィート運動を創ったことも知らず、それをどうしようもない反戦平和のアホどもに奪われたことを知らず、「特別賞」に値しないぞ、という気にもならなかった。
その時、いつもウチナー口で気軽に話し合っていた編集長のK(その名は伏せておこう)が深刻な顔をして「申し訳ない。俺の了解も得ずに決められたんだ」とウチナー口で言った。 「何の話だ?」とウチナー口でぼくが聞く。 「1フィート運動の特別賞のことだよ。」 彼は1フィート運動の醜い内幕を知っていたのだ。 ぼくは「そんなことは気にするな。 第一、オレが気にしていないんだから」とウチナー口で答えた。 ここで言いたいのは、実情を知らない選考委員たちが賞を決めている、ということだ。
それにしても「未来への墓標」の執筆者たちが平気で嘘を並べていることは驚き、呆れるばかりだ。 バカが一人ならただのバカだが、バカが百人も集まると大バカだ。 いや、もうビョーキだ。 オキナワは収容所列島だ。 これを直す方法はただひとつ。 「真実」を告げることだ。 「嘘つき」が恐れるのは「真実」なのだ。
ぼくが昨年暮れの解散記者会見の場に乗り込んだ時、そこにいた新崎盛暉沖縄大学名誉教授に「誰が1フィート運動を創ったと思っているんだ」と聞くと、彼は「アナタが創ったことは確かです。 しかし、今は大事な記者会見なので・・・」 ぼくは「ダマレ、アラサキモリテル。 オマエは名誉教授だとヌカしているが、オマエは不名誉教授だ。 サッサと大学をヤメロ」と怒鳴った。 その新崎は「未来への墓標」の中で「上原正稔」の名を初めて出し、「一本の枯れ木としての私の役割も終わる。 そんなつもりで12月27日の記者会見に列席させてもらった」と弁解じみた反省文を書いている。 しかし、「御免なさい」という謝罪の言葉はない。 それにしても反省らしき文を書いているのは新崎盛暉だけだ。 枯れ木を切り倒しても何の役にも立たないことだけ確かだ。
─つづく
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