ばちかぶり季記 人生いきあたりばったり

なんとかなるもんよ。・・・・・・たぶんね。

子宮全摘手術のこと。その3。

2020年06月13日 | 子宮全摘出
前々回 「子宮全摘手術のこと。その1。」
前 回 「子宮全摘手術のこと。その2。」 の続きです。
今回やっと手術の話です。

まずは手術前夜。おへその掃除をされます。オイル垂らして綿棒くりくり。
通常の飲食は21時まで。下剤の錠剤を服用。21時から翌朝6時までの間に経口補水液500mlを2本ちびちび飲みます。
寝るまでに1本以上は飲まないと間に合わない。
翌朝。日頃から快食快便なのでちゃんと出るもんが出ました。さらに浣腸。苦手(泣)。すぐ出しちゃう。
シャワーを浴びて術着に着替え、脚には弾性ストッキングを履きます。血栓予防ですね。
結婚指輪もメガネも入れ歯もはずします。私の耳ピアスは面倒なボディピアスなので家ではずして行きました。

さて出陣です。看護師さんと歩いてエレベーターに乗り手術室階へ行きます。
術着は背中が開いてるのでバスタオルを肩に掛けられています。試合前の格闘家ですか?w
大病院なので手術室がたくさんあるらしい。メガネ無いのでよく見えませんでした。
朝一番の開始だったので同時にあちこちから患者が連れられてきて大賑わいです。徒歩あり、車椅子あり、ストレッチャーあり。
手術室前のホールで病棟担当から手術室担当に引き渡されます。う~~ん、なんか奴隷市場みたいな?w

私が入ったのは13番室だったような気がします。幅の狭い台に上って横になります。麻酔医が登場。
背骨の間に硬膜外麻酔用の針が入ります。「背中を海老のように丸めてください。」
ああ、すみませんすみません。皮下脂肪が邪魔で背骨がよくわからないようです。
「16番の〇〇先生呼んできて!!」という声が聞こえます。やがて無事に入ったようです。
私「今何時ですか?」 誰か「9時すぎですね。」という会話が術前最後の記憶です。

深い睡眠に入った後で人工呼吸器の挿管や尿道カテーテル挿入、剃毛が行われます。まな板の上の鯉ですな。
私は自分である程度脱毛していったので剃毛はなかったでしょう。(剃ると後でチクチクするから嫌)
手術が終わって目が覚める前に呼吸器は抜かれます。
やがて意識が戻って、私「今何時ですか?」 誰か「11時すぎです。」 約2時間でした。
後で聞いた話ですが出血量は少なく、輸血や特定生物(豚)由来製剤の使用はありませんでした。
ガラガラとストレッチャーで病室へ戻ります。「せーーの!!」4人がかりでベッドへ。

この間に夫は摘出された臓器を見ています。私の要望どおり写真を撮っておいてくれました。
開始時刻が早かったので夫は術前には間に合わず(田舎なので自宅からの公共交通機関は1時間に1本)、
術後もコロナ対策に慎重な人なので会わずに帰宅しました。
ま、無事に留守番して猫共の世話をしてくれれば、それでいいので(笑)。

手術当日のその後は痛み止めがよく効いていてあまり記憶がありません。
両すねには血栓予防のためのフットポンプが装着されていて時々自動で圧迫されました。
腕にも自動で動く血圧計がついていました。時々どこかでピピピピと音がします。
背中から入る硬膜外麻酔用エピのボタンを握らされます。
「痛みが我慢できなかったらこれを押してください。麻酔液がはいります。」
↓ これです。一度押すと次は30分過ぎないと押しても薬は出ないそうです。



スマホでこんな写真と自撮りをして、さらに加工してSNSで生還報告までしてるんですから
まあ、大丈夫だったんでしょう(笑)。
やたら喉と口内が渇いて、看護師さんが持ってきてくれた吸い飲みを手が届く所に置いて
水を時々ちびちび飲んでいたのは覚えています。

手術翌朝。体温・血圧・血中酸素濃度測定のあと、フットポンプがはずされてベッドから降りました。
簡単に言ったけど、まず起き上がるのも大変です。どっち向いてどこを支点にすれば激痛ではなく動けるのか?
まあなんとかゆっくりジタバタして起き上がり脚をなんとか床に降ろし・・・
部屋の入り口まで歩ければ尿道カテーテルが抜けます。
左腕に点滴、背中には麻酔がつながっていますがこれでトイレに行けます。
ただし排尿しようと腹圧をかけるとハラが痛い。そっとそっと・・・
術後数日は便がゆるかったのでマシでしたが、その後半月以上は排便には勇気が必要でした。
腹圧かけた時にグワァァッと痛く、モノが出た後もジイイイイーンと痛い。ああ、便秘体質じゃなくて良かった。
術後50日以上たった今でも排泄時の痛みは少しありますな。勇気は必要なくなったけどね。

点滴はこの日のうちにはずされました。どのタイミングだったかは忘却。朝食後でしょうか。
背中への麻酔が抜かれたのはそのまた翌日だったかな。もうカラになっていました。
麻酔薬を使いきっちゃうくらいだから、すっごい痛かった。個室なので遠慮なくうめいていました。
前回に書きましたが、この私が食欲ないくらい痛かった。2日前の夜以来、何も食べてないのに。
うんがぁーーーーー!!!!!! ぴぃーーーーー!! へとーーーーーーー って感じかな。

さらにお仕着せの術着?が上腿にすれて痒い。痒い。
常用の処方薬とともにリンデロンVG軟膏も持ち込んでいたので、看護師さんの許可を得て塗り塗り。
天然繊維じゃなきゃダメとかではないですが、皮膚炎をおこしやすい体質です。自分で自分にかぶれる。
硬膜外麻酔がはずされてやっと全身自由になったタイミングで私服(化繊です)に着替えました。
・・・・・・あれ?術後のT字帯から自前のショーツに履き替えたのっていつだったんでしょ??(^^A;

そういえば、術後から腹帯というものをお腹に巻いていました。サラシでできた腰ベルトみたいなやつです。
縫合場所が広がらないように抑え込むためだそうです。
これがね、筋肉質のお腹ならビシッと固定されるんでしょうけど、ぽよんぽよんのお腹だと、ずれる・・・
縦に切られた切開部分だって平らなお腹だったらもっと小さく済んだろうな、とお腹の肉を持ち上げてみる・・・
溶ける縫合糸を使っているので抜糸はありませんでした。縫合部を覆った半透明の保護テープには、かぶれました(お約束)
自然にはがれるまで放置という指示に従っていて、退院後はがれてみたら四角く真っ赤(笑)。
それはリンデロン軟膏ですぐ治ったものの、いまだに縫合部周囲のお腹全体がときどき猛烈に痒い。
チクチク痛いのはまだ溶けきってない縫合糸のせいではないかと思っているのですが、術後1カ月の診察の時に尋ね忘れました。
先生は病理で発見されたガンの告知をするので少し緊張してるようでしたが、それは想定内のことでしたので当方は平気で(笑)。
次の受診は術後3カ月の7月です。

ああ、話の時系列が飛んでしまいました。
そんなこんなで痛みにうめく数日が過ぎたあとは、なんとか我慢できる程度の痛みにおさまり、
食事も完食しながらだらだらと過ごしました。詳しくは前回の「その2」に書きました。
経過良好ということで「火曜日退院予定でしたけど月曜日でも大丈夫ですよ?どうしますか?」と聞かれました。
1日早ければ14,300円+食事代が浮きます。私の入院保険の一日分では赤字ですもん。即決です。
さっそく、車で迎えに来てくれる約束をしていた知人に連絡。夫にも連絡。
入院9日間、術後1週間で娑婆に戻りました。
退院当日、手続き・会計やら保険用の書類申請やら院内ベーカリーに行ったりで広い病院内を動き回ったのと
しばらくは自転車にも乗っちゃダメなので帰宅途中でスーパーで買い物したりしたので、ヘロッヘロになりましたけどね。
退院時に処方された内服薬は痛み止めカロナールと胃粘膜保護のレバミピド。
痛み止めは入院中から私の胃と相性が悪いロキソニンを拒否。小児でも飲めるカロナールだってそこそこは効くんです。
しばらくは500mgを1回2錠1日3回も飲んでましたが、退院後じきに服用をやめました。
ある程度なら痛みは慣れるんです。慣れているうちに軽くなれば忘れてしまいます。

九州博多の婦人科女医さんのブログによれば(以下、引用)
『患者さんたちが一番気になるのは術後いつになったら元気になるのでしょうか、という点だと思うのですが、
3ヶ月もすれば周囲の人間はあなたが手術をしたことを忘れます。その事実は忘れなくても、たぶん日付は忘れます。
主治医の名前なんてあっという間に忘れますし、平成何年だったかもあやふやで、
子宮を取ったか卵巣を取ったかの記憶も定かでなくなります。オットなんて特にそういう生き物。
でも、おそらくご本人は2年くらい主治医と日付を忘れてないという印象を受けるので、
真の意味で「元気になる」には2年くらいかかるんじゃないかと思います。』(引用ここまで)
婦人科部長闘病記

ま、私は既に元気です。腹圧かけると腹はまだ少し痛いけれど。腹を下にうつ伏せになれるようになったのは最近だけど。
主治医の名前もちゃんと憶えてますが一番最初に漢字を読み間違えたので「あれ?読みはどっちだっけ。」(^^A;。
卵巣がなくなると更年期障害が出るはずですが、私は既に閉経していたようです。
不正出血でなにがなんだかでしたが、もう還暦すぎてますからねえ。いくらなんでもねえ。
術前までの間、ごくたまにホットフラッシュを経験した以外に更年期障害らしき症状はありませんでした。
術後はホットフラッシュも出てません。老化現象のほうがイタイです。
お? 子宮筋腫がなくなったという事は、いざとなったら女性ホルモン補充療法も使えるようになった!!という事!!
ラッキー♪♪(笑)
脳みそが女なら、子宮や卵巣がなくなっても女です。
私の脳みそが女脳なのかどうか若干の疑問はありますが、それがどうした、私は私だ。文句あるか。


≪番外≫ 
麻酔の事で思い出した事件があります。
2月の内膜全面掻把術の麻酔は、眠っているだけの軽い麻酔です。
(開腹摘出手術の場合は呼吸も出来なくなるくらい深い睡眠)
意識をなくす直前に手術室の天井を見て「攻殻機動隊にこんな図柄があったな・・・」と思ったのが運のつき。
術後に麻酔がさめかけた私が口走っていたのは・・・
「タチコマどこ?」「記憶が上書きされない!保存されない!」
わかる人にはバレてしまう、還暦過ぎの婆としては赤面もののうわ言です。
とりあえず、ただの『老オタク』であって『貴腐人』じゃなかったのは幸いかな・・・・・・・


おしまい。

★8月31日追記
続き書きました。「子宮全摘手術のこと。その4。」








子宮全摘手術のこと。その2。

2020年06月13日 | 子宮全摘出
前回 「子宮全摘手術のこと。その1。」の続きです。
今回はいよいよ入院中の話にしましょう。

さて、手術前日。ひとりでバスと電車を乗り継ぎ、いつもはここからまたバスなのですが、
さすがに荷物もあるので病院までタクシー奮発。ワンメーターの距離ですけどね。
着いてから入院受付時刻まで間があるのでコンシェルジュ(!)に荷物を預けて院内のコンビニへ。
お昼を食べておきましょう。
院内にはレストランやカフェが何カ所もあるけれど、私、ローソンのおにぎりが好きなんです。
院内ベーカリーの焼きたてパンも美味しいけれど、この日の気分は昆布のおにぎり。
コロナ対策で密を避けるためにも、オープンテラスでおにぎり♪ これから大金使うから倹約倹約♪
敷地外の海岸も気持ち良いけれど、そこでゴハンはダメです。トンビが襲って来ますのでw。

さて頃合いです。受付で手続き済ませて指定病棟の指定階へ。看護師さんの案内で病室入り。
患者情報と各階入り口の扉を開くチップ内蔵のリストバンドを装着しました。



個室です。21平方メートル。窓手前のソファは付き添い用のソファベッドにもなります。
手前左にシャワーブースとトイレ。右側に大きな鏡とスツール椅子と洗面台(女性専用階だからかピンク色w)。
ベッド脇キャビネット内に冷蔵庫。入り口脇にクローゼット。
この病院は個室が多くて、相部屋も4人部屋からなのでどれも差額室料がかかります。
しかも相部屋はなかなか空きがありません。
貧乏人には優しくない病院ですが、開腹手術なので私のちゃちな生命保険でもそれなりの医療保険金は出るし。
術後にしんどいのも分かりきっていたので、個室を選択しました。室料1日 14,300円(税込)。

個室の場合はホテル並みにタオル類・アメニティ・ドライヤー・茶器セット等々すべて用意されているので、
自分が着る物と嗜好品とモバイルの充電ケーブルだけ持っていけば事足ります。
テレビも食事の注文などに使うタッチパネル兼用なので視聴は無料です。
あ、ベッド脇でスマホに充電できるように延長ケーブルも持って行きましたね。
後はティシューペーパーだけは自分で用意。

かつて亡母や夫の入院時に、指定された枚数のタオルや大型バスタオル、洗面器・マグカップ・シャンプー類などなど
大荷物を抱えて付き添った事を思えば、なんて楽ちんなんでしょう。
長年使ってる小型のキャリーバッグとそれにセットできるボストン1個で入院しました。
あれ、ホームページによると今現在は感染症対策で相部屋もタオルと院内着は日額制の強制レンタルになってますね。
私の時はまだ院内着強制じゃなくて良かったーー 暑がりなので薄物の半袖カットソーと伸びるパンツを着てました。



ちょとしか開かない窓から手を出して撮った風景。毎日毎日無駄に良い天気でした。
4日目くらいから起きている間ずっとソファに座って脚もあげて過ごしました。
私はリクライニングのベッドにいると腰が痛くなるんですよ。背あては垂直なのが心地いい。
コロナのせいで面会は全面禁止になっていたので、毎日ひとりでのんびりしてました。(それでも平気)
小説は1冊2~3時間で読んでしまう人間なので、本はどれほど持って行っても足りないので持ちこまず。
日数を考えるとスマホだけで十分だろうとパソコンもなし。(無料wifi環境)
コンビニで買った読み応えがありそうな趣味マガジン2冊とスマホアプリだけで済みました。
動き回れるようになってからは、1日1回運動兼ねてコンビニへ。
冷たい飲料とスイーツ1個買って戻る(笑)。
図書室にも行ってみましたが閉まってました。ボランティア運営だそうだから仕方ないですな。



↑ これはSNS用にまとめた画像です。クリックすると超拡大で見れます。
日々の食事の写真です。食事は3食とも2種類から選びます。朝は毎日パン食にしていました。
手術翌朝から常食でしたが、さすがの私もこの日は痛みで食欲なく写真も撮らず記憶もさだかでない。
朝はパン1個だけ食べてフルーツゼリーはおやつに残したような気がする。お昼もお魚だけは食べた。美味しかったのは覚えてます。
完食できたのは4日目(術後3日目)の夕食からです。この時の主菜は牛肉と豆腐の炒め煮「八宝豆腐」。
お魚料理が多いのはうれしかったです。毎回違う魚で毎回違う料理方法。脂身の少ない肉料理よりも魚のほうがいい。
ただし全体に薄味だったので、コンビニで鰹節のふりかけを買っておいたのは正解でした。
ローソンセレクト、製造は永谷園の「かつおふりかけ」。美味しい。白飯を残すと明け方にお腹がすきますもの。
日頃は朝6時に朝食とっていたから、早めの夕食から遅めの朝食までの間が長すぎました(泣)。
お金を出せば豪華な別メニュー(サーロインステーキとか刺身御膳とか)も注文できますが、はい、自粛しました。
そんなこんなで入院してる間に体重減りました。毎日スイーツ1個食べてても、摘出した臓器のぶんよりもかなり減りました。
でも退院後にすぐに取り戻してしまいましたわよーー(泣)。

さて、入院中のどうでもいい話で長くなってしまったので肝心の手術の話は、次回を待て!!!

んじゃね。

続きはこちら → 子宮全摘手術のこと。その3。

子宮全摘手術のこと。その1。

2020年06月12日 | 子宮全摘出
長らくご無沙汰申し訳ない。あんまりなのでブログタイトルを日記から季記に変えました。
3月も4月も職場ホテルはヒマでした。
5月初めからはずっと休館となっております。
そんなコロナ禍の中、私は4月下旬に9日間手術入院しておりました。
術前の病名は子宮内膜異型増殖症(子宮体ガンの疑いあり)。

縦切開で開腹して子宮・卵巣・卵管すべて、まるっと取りました。
摘出後の病理検査で子宮の一番奥に小さなガン(ⅠA)が見つかりましたが、
「丸ごと全部取ったので大丈夫でしょう。」とのこと。
術前から「ガンがあっても、たぶんかなり小さい。」と言われてました。
リンパもいじってないので、術後は何もせず経過観察です。
当初10日間入院の予定が、経過良好ということで1日早く出て来れましたが、
術後50日以上たった現在も、ハラの傷の内部が時々ちくちく痛い。体質でしょう。
膣からの出血は5月末までには止まりました。術後約40日か。

さて、こうなった経過ですが。 長くなるなーーー(それで今まで書けなかった)

半世紀以上前、10歳10か月で初潮がきて以来、経血量は少々多めのほうだったと思います。
月経前症状は乳房の張り。月経痛は下腹から太腿前面にかけての痛みと腰痛。
月経前も最中も精神的変化はあまりなし。機嫌が悪かったならそれは「痛かった」から。
月経痛ってなんか腹立たしいんですよね。「ええいっ いてえじゃないかっ!!」って感じ。
だから鎮痛剤が効けば大丈夫、元々が機嫌に波がない性格です。「穏やかな人物」ではないですが(笑)

40代半ばで子宮頚ガン検診時の問診から直径3cmの子宮筋腫があることが判明(エコーで確認)。
でも「場所がいいから閉経すれば子宮ごと小さくなるでしょう」と経過観察で。
しかしその閉経がなかなか来なかった。
50代に入ったころ過多月経となりました。毎月毎月そりゃすごい出血量でしたね。
夜用スーパーだろうがなんだろうが役立たず。開き直ってパンツ型の紙オムツ併用したくらい。
かなり薄型の紙オムツが出始めてきて幸いでした。今はもっと薄いのが出てますね。
あのころ受診していたら、子宮筋腫を理由に子宮摘出できたと思うのですが、
あいにくと実母の介護が始まってそれどころではなく。
介護が終わるころには量もそれほどではなく月経周期が不定期になってきました。
月経前症状の乳房の張りはありましたが、2か月おきとか3カ月おきとか間遠になっていって。
一昨年の11月。そろそろ1年近くなかったな、閉経したかな、と思ったら数日の出血がありました。
たまたまその翌月12月に子宮頸がん検診を受診。
事前問診で「それは不正出血なので検診は受けられない。婦人科を受診して下さい。」と言われました。
そして翌1月。誕生月前なので当時60歳。初潮から半世紀。
また出血が始まりました。そしてそれが少量鮮血のままいつまでたっても終わらない。
いくらなんでも、と婦人科に行ったのが昨年2月でした。
年齢・体質から見て当然疑われるのが「子宮体がん」です。
それ以前に内科や婦人科でのエコー検査で筋腫の数が増えていること、一番大きいのは直径10cmくらいな事はわかっていました。
その筋腫のせいで私の子宮内部はぼこぼこで、押されて子宮口も傾いている。
ただでさえ子宮口を開いたことがない未経産婦です。子宮頚がんの検査と異なり子宮内部から組織を取るのは痛いです。
これ以前に体癌の検査は2~3回経験がありますがいつもすっごく痛かった。終わればじきに治まるんですけれど。
「う~~ん、これは大変だ。痛いよね、ごめんなさいね、ごめんなさいね。」と先生は言い、
私はソファの背をつかみ大声で叫びたいのをこらえてうめき声にとどめるのに必死。
そんな拷問?や血液検査やエコー診断を受けての数日後の結果は・・・異常な細胞なし。
翌週は造影剤を使ったMR。さらに10日後にやはり造影剤を入れてのCT検査。
大きい病院ですから要検査患者も多い。とにかく検査予約がとれる日に入れてもらったので飛び飛びです。
そしてその結果・・・さしたる収穫なし(泣)。2か月後まで経過観察。
このころには1月からの出血は止まっていたように記憶してます。
ただ、慣れてしまってあまり気にならない程度の腹痛は続いていました。

5月、再びの拷問と検査。結果・・・異常な細胞なし。12月まで経過観察。
7月に数日間、鮮血出血を見ました。
さて12月。都合のいい予約が取れず年末ぎりぎりになりました。通常検査フルセットとMRです。
年明け今年1月に結果説明を受けました。
異常な細胞は出なかったもののMR画像に前回とほんの少し変化ありと放射線科から指摘があったそうな。
そこで先生は子宮内膜の全面掻把に踏み切ります。人工妊娠中絶と同じ手術です。
麻酔かけて内膜をぜんぶ採取して細胞診するんです。通常の体がん検査では内膜の一部しか取れませんから。
「もう子宮取っちゃいましょーー!!」と私はかねがね言っていたのですが
先生は「ガンがあるかどうかの確証がないと手術できないんですよ。」 ふえ~~~~ん。

そして2月。初診から1年たちました。2泊3日入院で子宮内膜全面掻把術。
3月3日に結果説明を受けました。がん化する可能性が高い「異型細胞」が出ました。
これにより病名が「子宮内膜増殖症」から「子宮内膜異型増殖症(体癌の疑いあり)」になって摘出手術が決定しました。
この時から最速で手術できる日が4月20日。20日なら月末までに退院できます。
医療費の自己負担分が抑えられる高額医療費支給制度の適用は「月毎」ですからそれでOK。 GO!!です。
それにしてもコロナ禍の最中に接客仕事しながらの1カ月半待機は長かったです。
年末からまたず~~っとお腹痛いし、掻把後から少量出血も続いているし。
もしコロナ感染したら手術延期になりますよね? 私はねぇーー、とっとと取りたいのよーー!! ってな。

長くなりましたから2回にわけましょうか。
次回は入院手術の時の話にしましょう。
現在は時々ハラがちくちく痛いだけで何事もなく仕事もなく引きこもり、
体力低下と体重増加に怯えつつ過ごしておりますのでご心配は無用ですよん。

あ、摘出したブツの写真見ますぅ??? 通常の子宮は大きめの鶏卵サイズだそうですから、うん、デカイなーー。
モノクロに加工したから生々しくないとおもいますよ(笑)。

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んじゃね。

続きはこちら → 子宮全摘手術のこと。その2。


冬も終わりだというのに。

2020年02月28日 | 諸々
 
正月以来のご無沙汰申し訳ない。
家近の職場往復と、たまにかかりつけクリニックや病院に行くだけの日々でございます。
それにしても、もう思いっきり広がってしまった新型コロナウイルス(SARS-CoV2)。
房総半島の南側にはまだ一般の陽性患者は出ていませんが、影響は大きいです。

春の稼ぎ時2月3月は満室な日も多い予約状態だった職場の観光ホテル。
バスツアー旅行の団体さんが丸ごと消えるとスカッとワンフロア、ツーフロア空きます。
個人顧客も日々さくさくとキャンセルが増え続け。
お客様に予約確認の電話をしようとして「あら? この日ってこれだけになっちゃったの?」
今月はまだ一日の勤務時間が短めってくらいでしたが、この先、時給パートの身ではもろに懐に響きますなあ。
今の状況では仕方ないことですがね。日本経済・世界経済がくらう影響は莫大でしょう。
それにしても旅行とりやめで浮いたお金はどこに回るんでしょうか。
外出せずに家で美味しいものでも食べるのかなあ。

さて、1月末のある日、JR駅のホームに降りて階段裏に回ったらこんなものがありました。



前方を見ると、表示板の交換作業中でした。おにゅうの表示板。



なんとなく写真撮ってしまう鉄オタのはしくれ。
そういえばこの千倉駅、昨年から営業が日中の7時間少々だけという、なかば無人駅になってしまったんですよ。
朝夕は乗車券券売機も閉まる。私はSuica使用だからいいけど、そうでない場合は乗車駅証明書を取って降車駅で清算。
お年寄りが途方に暮れていたので「この発券機から券とって、降りた駅でお金払うんですって。」と案内代行。
昔はけっこう賑わった駅だったんですけどねえ(泣)。





今冬は暖かい日が多かったので、近所の畑のソラマメはすくすく育っております。
私の畑は失敗でした。いくらなんでも播種が遅かった・・・



昨秋の台風で苗がやられて開花が軒並み遅かった南房総名物の花栽培。
やっと花が咲きそろってきたのに、コロナウイルスで観光客激減ときたもんだ(泣)。
写真は近所の畑のストックです。





うちの庭は野良な花ばかりで、元は鉢植えだったオキザリスもすっかり野生化。
カタバミ科は強いです。お日様が出ないと傘を巻くようにクルリと花を閉じるのが可愛い。
白い花は咲き始めたスズランスイセンです。庭のあちこちで勝手に生きてます。



海辺ではウミウが翼を天日干ししてます。この姿勢で静止してます。
そういう習性があるんです。虫干しでしょうかね。
遠くから見るとまるで彫像のようですよ。

ではまた。 みなさま、コロナウイルスに関するデマにまどわされずにご自愛ください。
26℃~27℃のお湯が効く? 人間の体温何度だと思ってるんだ。そもそも26℃~27℃ではほぼ水っ。
水分補給は体にいいことですけれどね。



初日の出は。。。

2020年01月02日 | 海っぺりの話
  
元旦はあいにく雲が厚く、海からの初日の出は拝めませんでした。
あきらめて帰っていく人が多いなか、少々ねばっていました。

毎年、知人と見ているのですが、
毎年、思ってた場所と違うところからお日様が出る。
「あれ? あっち?」
「え? こっちじゃないの?」
水平線に目標物がないとはいえ、日の出に関しては学習能力がないとしか思えない2人。
特に今年は雲の隙間から複数の場所が明るくなり、
「わーー お日様いっぱい?」
私は大昔に読んだモンゴル民話の、"七つの太陽を射落とす"話を思い出していました。



こんな感じから



横一線に点々が並んだ日にゃ
「これ、雲の向こうに母船いるよね?」
「うん、うん。いるよねーー。それかデススター?」



日の出から30分後にはこうなりました。 母船爆発?

このあと職場に直行して仕事に入りましたので後は知らん。
午後にはよく晴れて、青い空と青い海~~



早朝出勤したぶん早くあがりまして、帰宅途中で地区の氏神さまに初詣して帰宅。



帰宅してからお雑煮作って、おせち詰めて、色々食べたら眠くなって
早々に寝てしまったので初日の出報告遅れました。(今日も仕事)
今年もこんな感じっ(笑)


謹賀新年。

2020年01月01日 | 諸々

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
うりゃ

月記どころか、季節記かいっ。

2019年12月29日 | 諸々


3カ月近く間があいてしまいました。パート仕事と病院行き以外にさしたるイベントもなく。
台風でガタついた瓦はまだ直してありません。(雨漏りするほどではない)
お隣さんの玄関もまだブルーシート状態ですねえ。

11月に大腸のポリープを取りました。
憩室炎になったせいで一昨年に大腸の内視鏡検査をやるハメになり、
その時に2mm~5mmのポリープの存在を指摘されていたのですが、
このたび日帰りでの施術が可能となったので、しぶしぶ切除同意。
3つ取りました。
組織検査の結果は1週間後ということで指定日にまた受診しましたら・・・
「すいません、まだ結果来てないんです。」
あらま。
「でも画像みた限りでは悪いものではないでしょう。」
施術した外科の先生も、「ではまた2~3年後にお会いしましょう。」って言ってたしな。
他科の受診日にあわせた1か月半後に結果聞きました。
腺腫(良性腫瘍)だったそうで、「まあ、取っておいて良かったですね。」
がん化するリスクを回避できたわけだわな。

クリスマス直前にソラマメの種まきを少しだけしました。
ビニール囲いの温室効果にすべてを託します。
前期は1月に蒔いた庭の箱畑のが周囲より1か月遅れで収穫できたので・・・
なんとかなるかもと・・・(^^A;
庭の箱畑にスナップエンドウの種まきをしたのは今月半ばだったかな。。。

年末年始もいつものように仕事です。
秋に正社員さんが1名辞めたので、担当する仕事が増えました。
が、パート勤務時間増えず日々バタバタ。

以下は写真少々。





沖をいく何かの作業船。なんでしょねーー??(11月1日撮影)



いただきもののシャインマスカット。うまいっ



いただきものの越前ガニ。うまいっ



でかくて派手なオオキンカメムシ。冬籠り前に道の上でおろおろしていた。風で飛ばされた??



今年は台風だの大雨だので花が遅れています。
一番早いニホンズイセンは11月中に咲き始めたものの、いまだに盛りにはほど遠く。
いつも年末には咲いているポピーもまだまだ。
周辺に多いキンセンカ栽培も年末出荷はあきらめたそうです。
  
さて、年賀状印刷はこれからです。遅れるけど待っててね。


台風15号の長い話。

2019年10月07日 | 海っぺりの話

    ↑ 落ちた鬼瓦(隅棟の切据鬼)

9月8日から9日にかけての台風15号について書いておきましょう。長文になりますよ。
停電解消後にとりあえず近況報告は猫ブログのほうに書きました。
こちら→ 「今日のクラウスたち。」9月ぶん。

≪概要≫
9日(月)未明:停電
9日(月)10時頃:docomoが圏外に。TV電波も停波。
10日(火)水道局が給水所の開設始める。
11日ころ 防災行政無線がバッテリー切れで停止。(←ダメじゃん。)
12日(水)出が細くなっていた水道、完全に断水。
12日(水)15時:中継塔付近の停電解消し、docomoの電波復活。メールどさっと到着。
12日(水)20時:我が家の電力復旧。だが、私のパソコンが通電しない事が判明。
13日(木):陸自の災害派遣部隊が3キロ先の施設に到着。夜からお風呂の提供。
       その他、福祉施設などで浴場開放あり。
15日(日):我が家の断水解消。
17日(火):こども園、小学校、中学校の再開。

まずは8日夕方。予報では最大瞬間風速60m/sということで、雨戸嫌いの私も雨戸を閉めました。
なんで私が雨戸が嫌いかというとですね、実家には雨戸がなかったからなんです。
上京後に雨戸がある部屋や家に住んでも、真っ暗な部屋がいやで雨戸は使いませんでした。
アパートの部屋で写真を現像するには便利でしたが(笑)。
雨戸がなかったのは実家の特殊事情ではなく、あまり強風が吹かない地方だからです。
おそらく大昔は和紙の障子と雨戸、という構造だったのが
小さな普通の家ではガラス窓が雨戸に取って代わったのでしょう。
近所の大きな家の縁側はガラス窓と雨戸の二重になってましたけど。
更にアルミサッシ窓の登場で当時の雨戸はほとんど省かれたのかと思います。
ところが、今では全国共通ハウスメーカーの仕様で雨戸は標準装備めいています。
昔は実家から信越線で上京する時に軽井沢までは沿線の家々に雨戸はありませんでした。
横川峠を過ぎて群馬県に入ると、ほぼすべての家に雨戸が出現。
なんで昼間でもわかるかって、そりゃ昔の戸袋の有無は遠目でもわかりましたわ~~。

閑話休題。

風雨が強くなったのは22時過ぎくらいからの夜更けです。
開けっ放しの窓と扇風機で夏を過ごす家なので、暑いよ暑いよと言いながらも就寝。
雨戸のせいで通常の嵐の音との比較ができませんが、バタバタボタボタと音はうるさかった。
午前2時過ぎに目が覚めたら停電していました。でもまた寝まして。
9日は非番だったので少しのんびり起きだしたら、まだ停電中。
家の外に出てみましょう。
あらぁーーー 雨どいがほとんど落ちてしまいました。
南側上部壁の漆喰も落ちました。
屋根を見ましょう。傾斜地なので上から見られる裏側。北西隅の切裾鬼瓦が塀の外まで飛んでました。
あんな重いものがねえ。幸いにも塀の外は草地なのでパカッとは割れていません。
平板瓦はあちこちでズレていますが、重大な被害ではなさそうです。
ブロック塀の一部がこわれてアルミフェンスが曲がっています。ま、これ無くてもいいヤツ。
その真下、敷地北西の隅にある稲荷の祠が台座から後ろにズレています。
私ひとりの力では1cm傾けるのにも苦労する、××(伏字)重い材でできているのに。
格子扉のある前側から相当な風が吹き込んだのでしょう。
私、そのすぐ脇の座敷で寝てたんだけどなーー(^^A;

西隣の家では銅板葺き屋根の一部がめくれました。
150軒ほどの地区内では半壊の家もあります。
地震災害のように板瓦がザアーーと落ちた家あり、棟瓦が落ちた家あり、壁が抜けた家あり。
古い家や物置が壊れて破片が風下の家に飛んで、その家の破片がまた飛んでという事があったようです。

この時点ではdocomoの電波は生きていました。お隣さんのauは早朝すでにダメだったようです。
停電なのでテレビは使えませんが、ワンセグTVは見れました。
テレビ電波送信塔は生きているということです。
当地区はNHKに見捨てられた地デジ難視聴地域なので地区独自で建てた受信設備です。
停電時用に蓄電池を抱かせてあります。
午前10時頃、ケータイが圏外になりました。最寄のdocomo中継塔のバッテリーが終わったということです。
ワンセグTVも圏外になりました。発電機は備えてありますがどうせ停電でテレビ見れないし。
テレビが見れたとしても、役にたつような情報はこの時点では流れてなかったでしょう。
ワンセグ需要もあまりないので、発電機は温存し作動させませんでした。
それでも蓄電池で8時間くらい動いた、という実証データは取れました(^^A;

停電なので当然、光ケーブルによるインターネットと光電話も最初からダメです。
ほとんどすべての連絡手段は途絶えました。
こうなるともう開き直るしかありません。幸いにも我が家には心配な親族もいませんし。

圏外になってるケータイでも防災情報メールは届きました。どういうシステムなんでしょうね。
情報メールが「広範囲で停電しています。」と流したのは午後1時前くらい。停電発生から既に半日。
「このまま停電が続くと断水の恐れがあります。」と言ってきたのは午後3時過ぎ。
でも、誰もが「どうせすぐに停電は終わるだろう。」と思っていました。・・・終わらなかった。

当日の月曜日は宅配コープの配達日でした。
どうなのかな?と思っていましたが、一週間分の食材すべて届きました。
お隣さんが発電機で冷蔵庫だけ生かしてるというので、冷凍冷蔵品の一部は預かってもらいました。
助かった(^^A;
この日の夕食はなんだったか忘れましたが、惜しい食材から使いました。
冷蔵庫はすばやく開け閉め。
調理はプロパンガスなので問題なし。インフラは原始的なほうが災害に強い。
給湯ボイラーは灯油なのですが着火が電気なのでダメ(泣)。
大昔のシンプルな風呂釜はマッチでも点火できたんだけどなーーー。
居間の真ん中に、普段使わない高さ40cmの燭台に燃焼時間4時間の大きなロウソクたてました。
田舎の古い家ですので仏壇にそんなものがあります。でも裸火って暑いね。
田舎の夜道は暗いので懐中電灯は大小各種常備してるけど、ランタン型の大きいのがあると良かったですね。

10日火曜日、パート勤務してるホテルに出勤しました。近所なので当然停電しています。
9日朝はレストランで朝食が出せず、軽食を客室に配ったりして大変だったようです。
エレベーター使えませんからね。私は非番で幸いでした。
1本だけ生きていた代表電話回線のバッテリーも終わり、予約客への連絡不能。
もちろんパソコンは使えず、ネットも断絶中。
電話がつながるところまで車で行って、本社に代行を頼んだらしい。(詳細は知らない)
窓ガラスとドアの破損数か所。真横からの強い風雨で、客室窓側からの浸水。
びしょ濡れになった窓辺カーペットを、ありったけのタオルとリネン類で救出。
その後数日間は冷蔵・冷凍食材の廃棄作業などなど雑用を。
エアコン無しだから暑かったですけど、真夏の客室清掃作業に比べればたいしたことない。
10階建てなので水は屋上タンクからの給水です。
停電後のチェックアウトで使ったぶんで終わったようで、全館断水。
通用口近くの1本だけが地下から直の配管で、海抜も低いので13日までそこだけ使えました。
1階トイレの前には大きな桶に汲み置きの水が水洗用に配置。
休業中はレストラン組も客室清掃組もお休みなので、
フロント組と住み込み組が交代で片付け作業に従事しました。
電気復旧してやっと全館掃除機がけ。
断水が終わればレストラン組も水を使った後片付けをしてました。
でもリネン洗濯屋さんの機械が被災して、通電してみなければ作動するかわからないという件もあり、
結局、営業再開は21日までずれこみました。再開後のキャンセルも多かったので経営的に大損害。
私も勤務時間が大幅に少なかったので大損害(時給パート)。

でも今は全部平常通りです。オフシーズンですが観光客の皆様、来てください。

停電中、自宅では懐中電灯で本を読んで過ごしてました。
ヘタに作業などすればお風呂が使えないのに汗をかきます。
だから、開き直ってジッとしてました。
非常用のラジオではNHKが災害地用の情報を流すのを聞いていました。
でも防災無線と防災メールで地域限定情報は得てました。
防災無線が燃料切れで途切れてしまったのは「何してんねん!!」って感じでしたね。
水道もこうなるとわかっていたなら早めに電源の要請とかしたんでしょうか??
取水・浄水・給水には相当な電力使うでしょうから無理なんでしょうか。

停電よりも断水のほうが精神的にきつかったです。
給水制限で水圧が下がると海抜が高い場所から断水します。
2~3mの段差が海まで4段階くらいある海岸段丘の地形です。
うちが細々出ていた日には上の家ではもう断水してた。
うちが断水した日に下の家ではまだ出ていた。
買い置きの飲料水に加えて頂きものの飲料水、水がでていたうちに浴槽に貯めた水、
それに近所で年中じゃぶじゃぶ湧いている湧水(飲めるレベル)もある。
給水所に行かなくても水は足りましたが、蛇口をひねれば水が出るという文明の消失は耐え難い。
料理材料も調理手段もあるけれど、後で鍋釜を洗う手段を考えると料理する気力も失せるってもんです。
おかげで少々痩せましたよ(もう元通り)。
テレビやネットは放棄しても、やっぱり水は大事ですね。

今回の災害が地域外に周知されるのには時間がかかりました。
まずは、房総半島の南側半分で、域内を通過する人が少ないどん詰まり地帯ということ。
停電で現地からの発信ができないので、外に状況情報が出ない。
知人の様子を見に来た人が被害写真をネットにあげたのが周知の始まりとも聞いてます。
やっとTVで取り上げられ、知人縁者たちが私にメールくれたのが11日前後のようです。
田舎の自治体に機動力がないのは熟知してるけど、県も動かなかった。
東京電力の甘い復旧予測も足を引っ張ったんでしょう。
もっと早くに援助要請をしていれば電気復旧した翌日にやっと自衛隊が来るなんてことはなかったのに。
南房総市も水やブルーシートや食料、ベビー用品を配布したけれど遅かったし、機動力がある人だけが取りに行ける。
現場も住民の個人状況もわかる各区の区長を使えば、本当に必要な人に必要なものが届くでしょう。
区長・区役員はメチャ大変だけどさ。(役員経験あり)
停電中でも館山のホームセンターは懐中電灯で営業してたそうですし、
電気が来れば他の商店も開く。自家用車があれば少し遠くでも買い物に行ける。
物流は当初からそれほど遅延してなかったし、「災害備蓄品、配布しました!」という実績を作っただけでしょう。

停電・断水が解消した現在、残るのは被害家屋の補修です。
そこらじゅうの屋根にブルーシートやテープが張られています。
お隣さんが頼んだ板金屋さんは300軒の依頼を抱えているそうです。
シートを張るほどの被害がなかった我が家は初日に写真撮っただけです。
罹災証明は市の出張所方面についでがあった17日に申請し、28日に現場確認の人が来ました。
南房総市職員ではなく助っ人の県職員だったようです。まだ証明は出てません。
保険(共済)の請求もこれから~~。記入用の書類はもらってありますけど。
パソコンは色々雑事が落ち着いてから、中古の一体型VAIOをポチりました。
到着後数日間ぼちぼちと孤軍奮闘して環境を整え、
毎日更新の猫ブログを再開したのは停電から18日後でしたね。
やっとほぼ全地域で停電が解消したのも、そのころだったようです。


さて。長文を最後まで読んでいただきありがとうございました。
最後に教訓をひとつ。

★台風が来る前日には必ず洗濯をしよう!!(ずっと洗濯したかった)



7月と8月の話。アツイノキライ。

2019年08月31日 | 海っぺりの話
蒸し暑かった7月。
海開きはしたのになかなか梅雨明けせず、
↓ 写真はたまたま晴れた7月24日。まだ寂しい海水浴場。。



↓ やっと夏本番の8月4日。ベタなぎ。



↓ 遠くの海に台風がいて珍しく波が立っている8月11日。
近隣の海水浴場は「遊泳禁止」の赤い旗が出ていたそうだが、
いつも波が穏やかなこの入り江は「注意」の黄色旗。



こんな風景を毎日見ながら、結局今年も泳がなかった。
毎日毎日働いてましたよぉーー 繁忙期だもん。
坊さまが棚経にみえる盆入りの日とかはもちろん休みをもらったが、
暑い。。。疲れた。。。眠い。。。暑い。。料理なんかしたくない。。。
まあだいたいこの繰り返しで、気がつくと夏が終わる。

夏野菜は7月の日照不足のせいかキュウリもナスも雌花が少なかった。
去年のこぼれ種からのゴーヤにいたっては盆過ぎにやっと実が付き始める始末。
同じ場所で先に発芽した青紫蘇の群れに負けたのかもしれない。
ミニトマトはそこそこだが、皮がいつもより硬いなーー。
どっちにしろ今はすべて草ヤブの中だけど。(例年通り)

アツツツツと言ってる間にミニキュウリは終了したようだが
最後のほうで変な形のが採れた。



おパンツ履かせたほうがいいですか?w

そして恒例の「陸上自衛隊富士総合火力演習」。略称「そうかえん」。
ニコ生のタイムシフト予約で夜に見た。
毎年8月後半の日曜日に実施だから、
これが終わると夏が終わるって感じのヒトは多いんじゃないか。


10式(ひとまるしき)どかんっ。




無事に状況終了のお約束シーン。

6月以来の久々のプチ遠出は3か月に1度の大病院行き。今回は薬もらってくるだけ。
病院前の海。なにが釣れるんでしょうか。



手前の砂地は砂丘状になっている。
痛い脚と華奢なサンダルで越えるのは億劫なので行かない。



左手のほうの浜にはサーファーが点々点々・・・
って、あの山の中にニョキッと立つ巨大クレーンは何???
帰り道の安房鴨川駅前にいた婦警さんに聞いたら、介護施設が建つそうな。
デカそうだねえ。

盛りは過ぎたがハマゴウの花がまだ少し咲いていた。この色あい好き。



風が涼しくなったね、日暮れが早くなったね、でもまだまだ暑いね、
とか言ってるうちに、『お彼岸』になってだな、
また墓掃除(草取り)しなきゃいけないんだろうな。。。アツイノキライ。。



マーマレードと夏野菜、そのほか。

2019年07月01日 | ずぼらな菜園
遅くなりました。今年のマーマレード。
伊予柑のは早くに作っておいたのですが、夏ミカンを入手し損ねました。
今年はなしか?と思いつつ野暮用に追われて5月も過ぎ。
6月になってから職場同僚(地元民)が甘夏?をくれました。
「もっとある??」とねだって少しまとまった数をGet。
皮が少し硬めかな? ・・・あ、固まらないーーー!!!
種からのペクチンに買い置きの市販ペクチン追加。レモンも使い切った。
これ以上は打つ手なし、で終了。まーーーまあまあかな???

やれやれと思っていたら、ご近所さんが庭の梅を沢山くれました。小さめ。
青い梅が多かったので「青梅ジャム」。青梅なので渋みというか野性味があります。
「出来ました!!」と1本進呈したら、「まだ採れたよーー」と追加。
前のより状態が良かったので数日放置して追熟させました。
以前に作った樹上完熟しかも南高梅のジャムほどの逸品ではないものの、それなりかな。
個人的にはマーマレードよりも梅ジャムのほうが好きなので嬉しい。



6月上旬、庭の黄ユリが咲きました。雑草雑木に負けずけっこう強い。



真ん中のはツボミのうちに虫かなにかに食われたらしい。





ハブランサス(レインリリー)の開花は6月10日。
雨が降るたびにツクシみたいににゅっと出て来てパカパカと咲く。



草地の中にアップリケのように使うところだけ畑になっている「ずぼら菜園」。
万願寺唐辛子とミニトマト(アイコ)が採れ始めました。



庭のミニキュウリも第1果が採れたけど写真なし。



タンポポの綿毛。



体長1cm。孵化したばかりな小さなバッタ。(6月12日撮影)
「え?この葉っぱってこんなに白い棘(?)あったの?」って思ったくらい拡大してあります。
オンブバッタなのか、チキチキと鳴きながら飛ぶショウリョウバッタなのかわからんけど。



M5.5の逆断層地震のほぼ震央なのにガツンっと来ただけで
あまり揺れなかった地震(6月24日)があったり (詳しくは→「ほぼ震源地。」



鼻先を通っていったはずなのに風雨ともにたいした事なかった台風3号があったり。
5年ぶりの帰省で始まった6月もバタバタと終わりました。
今日から7月。今年も残すところあと半分・・・・・・わぁお。


善光寺裏山の虫こぶ。ほか。

2019年06月10日 | ながの
先日、法要のため長野市に帰省しました。
久しぶりに会う親戚の人数も少なくなってしまいましたが、
叔父叔母は父方2名、母方2名が健在です。
甥が結婚したので兄の家族は1名増加。

さて、善光寺の北の山の斜面にある霊園で見つけたもの。↓



この時期、実ではなし花ではなし。
たぶん虫こぶ(虫えい)だなと、写真だけ撮ってきて帰宅後に検索。
周辺にどんぐりが落ちていましたから、植物はたぶんミズナラの実生。
ナラメリンゴフシというのがこの物体の名前です。
中にはナラメリンゴタマバチの幼虫が棲んでいるはずです。

虫こぶとは植物が寄生虫の食害に対して異常な形を作るもの。
種類によって果実についたり葉の表面についたり葉っぱ自体が変形したり。
注意して見れば街の生け垣や街路樹にも地味なのができています。
農作物にとってはもちろん害虫ですが、
ヌルデの木にできるものは古くはお歯黒の材料になりました。

ナラメリンゴフシ、けっこう綺麗でございましょ?
ただそれだけの話なんですけどね(笑)。



善光寺平を見おろす霊園。実家はビルの谷間の中。

善光寺さんにはその前日に参拝してあります。



梅雨入り前の快晴の午後、大勧進放生池の亀さんは4匹しか台に登っていませんでした。残念。
醜聞まみれの大勧進さんは天台宗なのでわが実家とは関係なし。
門跡寺院ではないが代々の住職が公家出身の浄土宗尼寺である大本願さんのほうが好きです。
(善光寺は大勧進、大本願の2住職と多数の院坊によって運営されています)

国宝・善光寺本堂内部は、私にとっていつ行っても「ああ、帰って来た」と落ち着く場所です。
門前下で生まれ育って初参りも善光寺ですから、産土神ならぬ産土仏というところです。
出来るなら中でぼぉ~~としていたいところですが、
あいにく快晴の土曜日の午後。多国籍の参拝者(観光客)でワヤワヤ。
お寺さん経営も商魂たくましく、ハヤリのご朱印ブームにのっかって境内あちこちで行列が。
なんだかなーーーーー><



2015年の新幹線金沢延伸にともなってファサードも改装された長野駅。
改装前はただのよくある新幹線駅でしたからまだ少しマシか。
1997年の長野新幹線開業前の古い駅はこんな駅舎でした。昭和11年の写真だそうです。



子供の頃から見慣れた建物や古い商店がどんどん消えています。
高度成長期の大きな公共建築物は建て替え時期になったのでしかたないのですが。
いっぽうで「昔からあるように見えて実は新しい建物」ってのも多い(苦笑)。
観光地だからね。
実家近所にあった創業1864年の味噌醤油醸造の老舗「糀屋本店」も取り壊されましたが
跡地を借りた大手栗菓子店が以前の雰囲気を外観によく残した建物を新築しました。
この栗菓子店は以前に善光寺大門でも蔵造り風の店舗をたてて成功しましたからね。
以前の糀屋本店の店内は表通りから一段下がっていて床は石畳み敷でした。
私が子供の頃(半世紀前)は、ひんやりとして暗いタタキ土間だったような、かすかな記憶があります。
亡母お気に入りだった糀屋さんがなくなったのは寂しいけれど、
ピカピカの近代的な建物じゃなくて、元の面影を残した建物にしてくれて嬉しい。

新旧の写真は むささび工房さんのブログ(←クリックで別窓)に分かりやすい画像がありました。

 スクショ

実家から私が乳児の頃からの写真アルバムを持ち帰りました。
彼らの親である兄の写真ならまだしも、
ここに住んだ事もない甥姪に叔母の写真を残してもゴミでしょう。
自分の子供がいない私本人が生きておるうちに処分します。
興味深い写真もありますので、複写して何か書きたいと思いますが、
まあ、そのうちにね。

あ、私のヘソの緒ももらってきたけど、これってどうすんべ???
死んだ時に棺に入れて一緒に焼いてもらっていいのかしら?


夏野菜の準備とクジャクサボテン。

2019年05月27日 | ずぼらな菜園
あれよあれよと5月も末となりました。



今朝の8時過ぎ。クジャクサボテンの開花がそろそろかな。
今年の花は去年より少し少なく20個ほどでしょうか。



夕方の6時前。これは、今夜咲きますね!!



ばぁ~~~~!!! 夜の8時半です。
昨年はやたら早く5月18日の開花でしたが、今年はほぼ通常どおりでしょうか。

ゴールデンウィークは仕事で多忙だったため、
苗が届いていても2週間もポットのままだったミニトマトと万願寺唐辛子。
5月6日に畑に植えました。
トマトは今年もサカタのアイコ(自根苗)。万願寺唐辛子も例年通りコープで購入。





数日前に長ナスの苗が届きました。夏日の今日、汗だくで定植。



私、ナス食べないんです。それにウチのナスが収穫できる頃には
ご近所から「ナス、あるか~い?」とごろごろ到来します。
だから毎年、「ナスも植えたよ!!」という免罪符として2~3本だけ植えます。
手入れも雑なので、ナスが豊作になった事はないな(^^A;

今日の万願寺唐辛子の花。



庭で育てるミニキュウリはタネから育てて一昨日に定植しました。
あれ?写真撮ってないな。現在、本葉が2枚。

そういえば、ご近所で収穫が始まったころにまだ花が咲いていた私のソラマメ。
畑のほうがタネを鳥に食われて全滅したので、なんと年明け1月に播種したもの。
プランター程度のスペースの箱畑ですが、テントウムシの活躍もあって、
ご近所から遅れること1か月で無事に収穫できました。全部で1㎏弱。



マメにしてしまうとほんのちょっとですけどね。美味しかったよーー
すごいね、1月にタネ蒔きしても出来るもんだなあ。(普通は9月~10月)



平成最後の春の味。

2019年04月30日 | ずぼらな菜園
『明治は遠く なりにけり』という一節は
中村草田男氏の俳句 『降る雪や 明治は遠く なりにけり』 で有名だが、
彼がこの句を読んだのは大正時代を経た昭和6年(1931年)とされる。
明治が終わった1912年から20年たってない。

昭和が終わり平成になって30年。
そしてその平成が今日で終わる。昭和は遠く遠くなっていく。

私は昭和33年3月生まれなので、約30年と10ヵ月、昭和を生きた。
そして平成の時代が約30年と4か月。
これまでの人生のおよそ半分が昭和。半分が平成。
それが三分の一ずつになるほど長生きしたくないが、
まあ、下された天命は何なのか、余命はどれほどなのかはわからない。

明日即位される徳仁親王は昭和35年2月のお生まれなので、ほぼ同世代。
現天皇家は長寿の家系であらせられるようだから、令和も30年続くかもしれない。
それにしても天皇陛下が自分より年下となるのは、なんか妙な気分だね(笑)。

さて、時代の節目と関係なく季節は移る。
周辺ではソラマメの収穫はもう終盤だ。
私のソラマメは畑の最初の播種ぶんはすべて鳥の餌と化し、
いくらなんでも遅すぎた庭の箱庭のぶんはロクな実がついてないが、
アブラムシを簡単に物理的除去したあと数日して見たら、『あれ?復活してない?』



アブラムシの天敵であるテントウムシの幼虫がたくさんいました。
テントウムシ、えらいっ 



これは庭のスナップエンドウの一番最初の収穫ぶん。
ずっと防虫ネットをかけていたのでハモグリバエの被害もない。
しばらくは汁の実くらいには不自由しません。



お隣のオトウサンからもらったソラマメ。
本人曰く 『親戚や友達に配ったあとの収穫だから玉石混合だよ。』
だけど、少し早い若い実のジューシーな美味しさは産地ならではの味です。



同じ日に別ルートで小さいイサキをたくさんもらいました。
少々疲れてて「夕飯、簡単なのにしよーー」と思って帰った夕方だったので、
ええいっ!と包丁持って
ウロコと頭とワタを取っただけの状態で塩をまぶして少々放置。
小麦粉まぶして全部フライパンでオリーブオイルで焼きました。
このサイズだと小骨が気になるけど美味しかったよ。

最後に・・・



おごってもらう特上寿司はひときわ美味いっ



三月の荒れる海。

2019年03月28日 | 海っぺりの話
確定申告のプレッシャーの中で始まる3月。
決算書と申告書の作成なんて、集中すれば丸一日の作業で終わるものなんだが、
その丸一日の隙間が取れないのと、追いこまれないと集中できない因果な性格が。。。
ええ、結局二晩集中して、ちゃんと期限内に二人分提出&納税しましたともっ。
私個人の給与所得ぶんは、ほんのチョッピリの還付申告。

誕生日も過ぎて、ワタクシめは61才の婆になりました。シニアの一年は早い早い。



写真は安房鴨川。巨大病院前の海岸。
朝まで暴風波浪警報が出ていたので海は盛大に荒れていた。
サーファーもいないねえ。





波しぶきで遠景が白く霞む勢いなので(写真は少々クリアに加工済み)
あんまり近くに寄らず、長居もせず。
だって塩分で全身ベタベタになるからさ。

病院ではこの日は造影剤入りのMR検査だった。
あの機械はゴンゴンゴンガガガガッってうるさいからヘッドホン装着なんだが、
たいした害はないが面白くもないインストゥルメンタル曲が聞こえる。
「リクエストできるなら絶対にデスメタルが合うよなあ。」と思いながら閉所で退屈していた。



こちらは現在、庭の隅で咲いているフリージア。
いつのまにか鉢植えから離れた場所に逃げだした、野良フリージアだ。
ススキの根元でカラスノエンドウやホトケノザに囲まれている。
冬に水枯れしやすい鉢植えの仲間よりも大きな花を咲かせている。
いっそ全部、地植えにしちゃおうかしらねえ。。。

でも、球根は勝手な場所に居ついた奴が一番元気に咲くんだよね。
通り道のど真ん中に居ついているスノーフレークは邪魔でしょうがない。
葉が出始めの頃は毎日のように自転車に轢かれるのに、それでも大株に成長する。
うちの庭は適者生存、弱肉強食、成長期に草刈りされるかどうかも運次第。の植物サバイバル世界。
・・・いいのかそれで?? ・・・いいんじゃない? それも。





冬グルメと冬景色。

2019年02月26日 | 海っぺりの話



帰宅途中で電話がなった。
「いま、どこーー?」
「○○さんちの前~~」
「その先にいて~~~」
しばし待って、自転車の前カゴにドシンッと入ったのは、黒鯛。関西なら「チヌ」。
全長52センチ、2200グラム。さっきまで生きてたそうな。
半身は刺身。半身がソテー。頭と中骨は煮付け。
ネットで見る「おろしかた動画」では包丁でプチプチと腹骨ごと切って三枚におろしていくけれど、
こんなデカイ魚のぶっとい腹骨、プチプチなんて切れないしーー と、多少苦戦しました。
今回の黒鯛は刺身が美味かった!!
刺身を作る時にひいた皮も煮付けに入れたので、翌朝には煮汁がぶるんぶるんの煮こごりになりました。
コラーゲンたっぷり~~~。
でかすぎて私の包丁では頭が2つに割れず、丸ごと深鍋で煮たので大量の煮こごり。
でも、煮こごりって、そんなにたくさん食えないーーー(^^A;



近くの畑から赤ムラサキ色のカリフラワーをいただきました。
ゆでてビックリ。青紫!!!!
ゆで汁も「青色2号か?」っつうくらいに青い。
少し前までの品種とは違うのねえ。
ま、酢を含むドレッシングをかければ赤紫に戻りました。
青い食品ってのはあまり食欲がわかないよねえ。。。
あ、「インスタ映え」するサラダの需要でもあるのか??

今では野菜は自家用だけ作るベテラン農家は新品種を試すのが好きなようだ。
右側の赤いのは皮だけが赤い大根。
甘酢に漬けると全体が鮮やかなピンクになる赤大根とは違う品種でした。
食感も巨大な二十日大根みたいな。サラダ用かな(笑)。



太平洋側の海辺では真冬は乾燥して空気が澄む。
厳寒の頃はひときわ遠くまでよく見えます。



正面左寄りに伊豆大島、その左の小さな三角は利島。
ここまでは日常的に頻繁に見える。
ひときわ寒かったこの日、画面右側半分の遠景に見えるのは伊豆半島。
中央の建物群を超えて少し西へ行けば、富士山もくっきり見えたでしょう。



これは刷毛を振ったような雲が多かった日。



こういう眺めは冬でも夏でも変わらんな。