土の上にも三年

農への道

意識に浮かばない紙一重の差

2013-09-24 22:16:40 | どうでも日記(雑記系)
みんな、という概念の脆弱さがある。みんな、を正確に表現しようとすると、機能的(生命的、生物的、現象的、実在的)な記述がやっとのことだ。それだって、様々な身体的・精神的多様性を表現しきれない。

もっと極論を言えば、生きているか死んでいるかさえも抜きにした、みんな、という表現がいかに困難であるか。共通項をくくりだそうとする試みは、奇しくも抽象化の限界で折り返さざるを得ないと考えられる。


まぁなんていうか、これまた奇しくも、誰かがこう言った。

世界が脱原発に向かっているのに云々と。

世界、という表現って、その誰かさんが嫌うとされるデフォルメそのものなんだよね。言い換えればカテゴライズだよ。ここにその人の限界がある。これをポジショントークって言わないと言える理由が分からない。

参加者を、世界という表現を借りて限定している。どれだけ選民思想ではないと言ったところで、炙れてしまった人にしてみれば参加資格剥奪のイメージは拭えない。

ま、俺も同じ穴の狢なんだけど、そういったら一緒にするな、って言われたから一緒ではないのだろう、うれしいことだ。


ところで、意識できない部分ってどうやったら意識化できるのだろう。おそらく他人との係わり合いでようやくかろうじて意識化できる。特に他人との係わり合いから得られるストレスはとても重要な働きをする。他人とは、自分以外のことだ。自分がストレスを感じる人が隣にいたなら、意識できない部分を意識化できるまたとないチャンスである。

多くの人は、この上無いチャンスを、感情的に排除している。でもそれが人間なんだと思えれば、自分以外の人を最終的に許せそうになる。途中経過で許そうとする素振りを見せても、多くの人は最期に許せない。ここも意識化できない紙一重の領域である。

もちろん俺にとってもね。

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