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多分枯れ草。放射能?多分たっぷり(笑)どうしようかなぁ、地中1mくらいに埋めようかと思ってるんだけど、このまま堆肥でもいいかな、とも思っている。
ぶっちゃけ低線量まで除染しようと思ったら日本のゴミ事情が大変なことになってしまう。我慢すべき地域は我慢すべし。いち早く除染したほうが良い地域を優先にしてもらいたいものだ。
という訳で、5msv優先が、なし崩し的に1msvまで除染しなければならなくなり、「追々除染すべき」という部分と、「並行して除染すべき」や「真っ先に除染すべき」という部分の優先順位さえごちゃ混ぜになって、順番なき暴走雪崩のごとく要求に本末転倒な機能不全を起こすのではないか?と一抹の不安。もちろんただでさえ優先順位を決めても本当に除染が進むのか分からないんだけどね。
しかし何より先立って考えなきゃいけないのは、除染とはほぼイコール濃縮だよ、って部分だ。どこに濃縮されるかの違いはあれど、最終的には濃縮されるのが除染だ。ある意味人間に濃縮されるのも除染か?(←ブラック)
あくまで仮定を前提に書くので、これから書く「当面除染しなくても問題は起きない場所」という表現は「本当に除染が必要な場所」なのかもしれない。そこをあえて、除染の必要はない場所であることを前提に書く。
その前提から考えるなら、本来は当面除染しなくても問題は起きないかもしれない部分まで除染してしまえば、よりクリティカルな汚染地域の汚染物質と相まって“より濃く”なる。例えば雨樋から、屋根から、側溝から、除染した放射性物質は、除染地域の汚染レベルごとに分けられるようなこともなく一緒くたに汚水処理場だったりごみ焼却施設だったり川だったり海だったりに辿り着くだろう。
住んでいる人たちが安心して暮らせるようにならなければならない、という部分と、我慢しなければならない、という部分と。ゆっくり冷静に考えれば切り分けるのが当然だろうと考える。確かに理想はどの地域も事故以前の状態にすぐさま戻すことだ。しかし現実的には優先順位を考えなければならない。こうした現実的な話を理想論と混ぜて妙な“平等”を謳い過ぎれば(※)、瞬間的な汚染の処理量が嵩み処理しきれなくなるか、“より濃く”なった場所を“より多く”作るか、どっちかではないかと思う。
(※)誤解なきよう書かなければならないので注釈しておくが、平等を謳ったから1msv地域の除染が決まったわけではない。しかし年間1msv以上は危険だ、という論調が存在するのも事実だ。今回の措置がその危惧を解消するための措置かどうかは判断に苦しむ部分である。無能な政府が「あーもう面倒だ、後のことは知らねーよ!」ってやっている可能性もある。
汚染の薄まった状態であればみんなで負担も出来よう。しかし汚染が濃くなれば必然的に人は近寄れなくなる。どちらが良いかは賛否両論だろう。どこかに濃い地域を作り、安全地帯をより多くに増やすという考え方もアリっちゃアリだ。結局は安全だー安心だーを謳っている人もそうでない人も、リスクをアウトソースすることで自身の安心を得ているに過ぎない。
個人的にはそれで仕方ないと思っている。「そう」しなければ自身の命が危ない場合、善と悪はひっくり返る。こればかりは仕方ない。善悪は相対的な価値観だ。
だからそもそも論として「原発(←原発事故←汚染)が無ければ」ということにはなる。将来的に善悪がひっくり返ることを見越した判断だ。自身(や大切なもの)の命が脅かされる以上、原発を許容できなくなるのは仕方ないのだ。原発の善悪は、自分の真横で起きた事故によって簡単にひっくり返った。何十年も原発に反対してきた人たちが何十年も啓蒙するよりも、遠くで原発事故が起きるよりも、核実験をされるよりも、原発内で日本人がウラン臨界で死ぬよりも、遥かに効果的だったのだ。
つまりそもそも論は、実際に身の危険を感じてようやく生まれる場合が多いということだろう。本来“そもそも”とはトレードオフの聖域なのだ。原発事故こそが原発に反対する動機である、という人も少なくないのではないだろうか。
しかしようやく生まれたそもそも論とは、基本的に現実的なアプローチを生み出し難い論だ。聖域は長期間、守りに守られてきたからこそ聖域になったのだ。いきなり無かった事にできるものは聖域ではない。
特に重大な事故が起きると必ずと言って良い程に湧き上がる“そもそも論”はそういう性質を持つ。一見正しいアプローチに見えるが違う。健全なアプローチは「事故の原因を探って→原因に付随する全てのそもそも論を解析し→すりあわせて行く」というものだろう。
ごくありふれた右直事故が起きたとする。基本的には直進車が優先だ。そもそも論からすれば右折車が悪いだろう。しかしそもそも信号に問題があったかもしれない。いやそもそも道路に問題があったかもしれない。とんでもない、究極的にはそもそも車が存在しなければ良かったことだ。
下手糞な例で申し訳ないが、このように、そもそも論は使い方を間違えると非科学的なアプローチにしかならない。一つ一つは確かに正しいが、どれも単発では建設性に欠けてしまう。信号が悪いなら信号のあらゆるを多角的に解析しよう。道路が悪いなら道路を解析しよう。運転手が悪いなら運転手を解析しよう。車そのものがダメなら車社会の在り方を解析しよう。それぞれの解析を複合的・総合的にすりあわせて科学的な見解は生まれていく。
つまり最終的なそもそも論は、あらゆる解析という現実をこなした次の段階の話なのだ。単発的なそもそも論を最終的な結論に持っていくと思わぬ見落としを引き起こす。
まぁ解析自体も解析者の都合に合わせて歪んでしまうことはあるのだけどね。科学者も人だ、自身の理論に都合の良い解釈をしてしまってもおかしくはない。もちろん冷静な科学者もたくさんいる。
個人的に疑似科学は好きだけど信じていない。むしろ科学すら信じていない。ただしそれは信じていないというだけであって、存在を否定するものではない。自分が信じているものも信じていないものも、どちらに対してもニュートラルに接したい、そういう意味だ。
しかしニュートラルとは言え好き嫌いはあるから賛否を述べることも多い。だって人間だもの。その賛否の部分を正誤・正義と悪で図ろうとすれば、このブログは色々おかしな文章・記事も多い。ていうかほとんど?(笑)
疑似科学批判の高尚な知識人にはたまらなく低劣に映ることだろう。かくいうこのブログでも疑似科学批判じみたこともやったりする。
何が言いたいの?って言われれば、ようは自分のフィルターが一番大切でしょう?ということだ。だからこそ情報の扱いは自己責任だと思うのだ。それは昔から書いている。
逆に言うとフィルターは自分のフィルターに過ぎず、社会の合意と自分のフィルターは別次元の問題なのだ。仮に自分のフィルターを社会の合意にまで昇華させたいのなら、より多くの人と合意形成を建設的に行わなければならない。
なーんてね!そう上手く出来ないよね。でも少しずつやっていきたいじゃない。
まぁ合意形成にはより多くの時間を割いて、一面に囚われない、尖っていない、多くの人が中に入れる形を作ることだね。一部の人しかそこに入れ(ら)ないのなら、それはどれだけ正しくても社会としては失敗なんだと思うわけでございます。
逆にどれだけ間違っていてもより多くの人が入れる形であるなら、それは社会としては正しいと思うのです。なぜかって?善悪は相対的な価値観だからですよ。
さてと、そんなこんなを畑の記事で書くつもりではなかったのだけど、つい書いてしまった。いやもうブログもね、身近な人数人に否定されたり、否定は良いとしてもそれを人づてに聞いたりすると萎えるんです。
ブログで書こうが書くまいが、そんなに自分は変わらない。おそらく大事なものをきちんと見れていない。でもそれだって性質だと思う。そのぶん、自分にしかない良さもあると本気で思っているし。
誰かにとって無駄であっても、当人にとっては無駄じゃない。そう思っている、他人に対しても。そうは見えないかもしれないけどね。
最後に野菜ネタで〆よう。
キュウリね、熟れ過ぎてダメになってそのまま放置していた奴から生えてきたんだ。びっくり!まぁ時期的に枯れると思うんだけど、すごいよね。
小松菜も大根もこぼれ種(この畑で二代目)から生えてるし、ニンジンには狙ってもいないのにスギナが勝手にマルチを形成している(笑)
次回はRIEさん、やる気モードです。「葉物野菜が高いから作る!」と目を$(お金)マークにしています。
あ、種頼んでないや。
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なんだ、帰ってきたんだ。早めに連絡くれれば飯行けたのにな。もう眠いから寝る!
種って買った?まだ買ってないんだよねー。キグニ蒔きにいくなら行く(笑)