タイトル負け、というのは毎度ry
だけど自分を茶化す意味もあるので書いておきたいところ。
多様性と書いたけど、俺の中で意識しているのは”自由の本質”だ。自由は何者も侵害してはならない。たとえ自由であっても、自由を侵害してはならない。自由を侵害する自由は許されない。これは近代、封建的な社会に隷属する社会から脱却するために多くの血を流して勝ち得た、一朝一夕に覆してはならないほど尊いものである、という原点史学の話だ。
より多くの人が生きていける環境というのは、とても素晴らしい世界だろう。しかし、人は人であり霊長類至高の存在として、負わなければならない責務がある。その責務は、”自由”の本質を忘れてはならない、ということだ。多様性というものがややもすれば形骸化しがちではあるものの、形骸化しようとも掲げなければならない理由が、”自由”という存在には内包されている。
この原点の先に、個人主義と全体主義の鬩(せめ)ぎ合いがある。個人主義における多様性と全体主義における多様性との関係は、非対称的であることにそもそもの存在意義がある。個人主義をそのまま全体主義に拡大できないし、全体主義を縮小したものが個人主義ではないのだ。自由とは自由が履行されるために存在する。
とまぁ、言いたいことは全て書いたのであとは蛇足。
近所にとある他国籍をルーツとする子供がいる。現在の状況は知らないもののおそらく日本国籍ではあると思う。ルーツが他国籍なだけで。
その片親か両親かは不問として、親は他国籍であった。繰り返すけど現在のことは知らない。
ちょっと横道。
”理想と現実”という表現がある。親としての在り方。人としての在り方。個人としての在り方。多くは理想的で、理想は理想であるから理想である。トートロジー(笑)
その人の限界。これは、おそらく定量的だと思う。限界は限界だから限界だ。いやー無敵論法というのは使い勝手がいいねぇ(笑)見えないものが定量的であるかというと、NOなんだけど、見えないからといって定量的ではないかというとそれもNOだ。見えてないだけで定量的なものというのはあると思う。論理的ではないけどね。
限界を上げる、っていう表現は結構好きなんだけど、限界は限界だから限界なのに、限界を上げるって論理的じゃないよね。
論理的じゃないものを好きか嫌いかは別次元の話。だから俺は限界を上げるという表現は結構好きだ。
ただ、自分の限界がどこにあるのかって、自分が本当に把握できているのか相当の疑問がある。自分の把握している限界って本当に自分の限界なの?それ以上に出来る(出来た)ってことは、そもそも限界の見積もり方に甘さがあったのではないの?それら含めて、限界という表現は使われて然るべきものなのではないのかしら。
結局のところ自分の出来るところが限界なのですよ。それ以上に出来たなら、限界を上げたわけではなくて、そこが自分の限界だったということなのですよ。限界を上げたのではなく、その瞬間における限界を知ったというだけ。にも関わらず限界を上げた気分になるのは、自分へのご褒美なんだよね・・・前を向く、前に進むためのエネルギー。養分。
この段落の結論。限界は上がらない。ただその瞬間の限界を知るのみ。そして本質的な限界は知ることの出来ないもの。だから限界が上がったような錯覚が起きる。でもその錯覚は自分へのご褒美。他人へのご褒美にはならない。限界を上げることは不可能。限界に挑むことは可能。ニュアンスとして伝わるだろうか・・・
この前一段落は一般論ではなく個別の論なのでさらっと流してください。
話を戻して。ここからも一般論ではないのだけど(笑)
この他国籍をルーツとした子。お母さんは一般的に言われるところのネグレクトとの境い目を際どくしている。想像にすぎないけど、異国日本での仕事に手一杯なのだと思われる。しかし子供にどのような罪があるだろうか。
罪、とか書いちゃうところで、とても陳腐になってしまう。でもあえて罪と書く。子供は子供。その子が成長するために必要なモノは、親が理想的であるか無いかにかかわらず、先を生きている者にとって与え続ける必要があるモノだ。他人の子供、他国籍をルーツとした子供、自分の子供、にかかわらず、大人として成長を促す必要があるのだと思う。
現実的な問題としては、自分の子供に対してできることと、他人の子供に対してできることとは等価ではないだろう。それを等価にしたいというのは理想なわけで。
理想を現実化するために日々がある。現実(その子の親が放任を通り過ぎたネグレクトであるかもしれない懸念)を理想(その子の親が、より子どもと密着した生き方をすべきという理想)に近づけたい思惑があったとしても、現実は他人の保護された自由によって理想化出来ない。保護された自由が、理想的な日々を歩んでこそ現実化する。日々という現実は理想化出来ないものなのですよ。
その子の親が現実を理想化して理想的な日々を送れるのであれば、そもそもこうした懸念は生まれないわけで、こうした懸念が生まれるということが正に現実を理想化出来ない証明となり得る。その子の親がどうしたら現実を理想化することなく、理想的な日々を送れるのか?というアプローチが、お互いの励まし合いに近いものとして在るべきと考える。
ある日その子が親の勝手な事情(眠いからという事情)で幼稚園を休み、おそらく親は寝ているから子供が外に出てくれてたほうがいいのだろう、昼ごはんすら子供に与えられずにいたとする。その子が、公園で楽しくお昼ごはんを食べている親子に近づいてきて、恨めしそうにはせずとも内心は寂しいだろうに、様子を眺めていたとする。
どうしましょう。
親に対して理想論をぶつけるなら、何やってるの?という苦言で済ませられる。では、そうして済ませてしまった場合、その子供は何を得られるだろう。
非常に繊細な問題なので、答えは無いし書けない。
ある一つの切り口として、その子供に対して、一緒にご飯食べる?と言ってあげることも選択肢としてはある。場合によってはごちそうすることも”選択肢としては”ある。その子供の親にとって、はた迷惑である可能性も十分考えられる。けれど、世知辛いと感じるから世知辛さが増幅するわけで、誰かが支援してくれることで前を向ける場合もあるんだよね。
これは、個人主義としての自由。その子供の親の自由を侵害してしまう自由であるかどうかは、その子供の親が主張して成立するもので、その主張を勝手に想像して、相手の自由を自由の名の下に切り裂くことをしてはならない。
逆説的に書くと、その子の親がこちらの行為をダメというなら従うけど、ダメと言ってないうちは自分の自由が保証される。非対称的で繊細な問題だけど、自由を侵害する自由に怯えて、自由を侵害していない自由を封じちゃならないんだと思う。
RIEは、お母さんはどうしたの?お家に帰ったほうがいいんじゃないの?と、心の内で、親はなにしてるのだ、と思いながら問いかけた(本人談)。子供はその問いかけに、寂しさを得るだろう。かと言って、一緒にご飯食べようか?と言い、ごちそうしたとして、その子の親がしめたことかと寄りかかってくる懸念も、もちろんある。
寄りかかってきたら、時に丁寧な拒否をしてもいいと思う。場合によっては対立的な拒否もいいだろうね。
でもね、自分が理想的な生き方をするのは何も間違っていないと思うんだよね。その理想的な生き方を他人に求める(≒他人の自由を侵害する自由)のは間違っていると思うけども、自分が理想的に生きることは”自由によっても侵害されない自由”なのだと思う。
多くの場合、自分の自由という大義名分で、他人の自由を侵害する。元他国籍か現他国籍かは知らないけど他国籍のお母さんが、そのお母さんの限界である現実の中で生きていることを、他人様の尺度で理想化しようとしてはならない。そのお母さんがどうしたら理想的に生きていけるのか。つまり、そのお母さんの限界が実はもっと上にあるのだと、どうしたら自認出来るのか。ここが一番重要なのだと思う。
あなたはもっと出来るはず。そして今という現実はそもそも限界なはず。現実(限界)を受け入れた先に、自分の知らない限界があるかもしれない。その理想的な日々に挑んで初めて、未来はその理想を現実化していく。現実を理想化しようとしないでください。その理想は、現実の前では限界以上を要求することにほかならないのだから。限界は超えられない・・・上げることも出来ない・・・
何度もこういうネタで書いてるのに、まとまらない。ま、そんなもんだよ。俺がまとめられるなら、とっくに誰かがまとめてるさ(笑)
だけど自分を茶化す意味もあるので書いておきたいところ。
多様性と書いたけど、俺の中で意識しているのは”自由の本質”だ。自由は何者も侵害してはならない。たとえ自由であっても、自由を侵害してはならない。自由を侵害する自由は許されない。これは近代、封建的な社会に隷属する社会から脱却するために多くの血を流して勝ち得た、一朝一夕に覆してはならないほど尊いものである、という原点史学の話だ。
より多くの人が生きていける環境というのは、とても素晴らしい世界だろう。しかし、人は人であり霊長類至高の存在として、負わなければならない責務がある。その責務は、”自由”の本質を忘れてはならない、ということだ。多様性というものがややもすれば形骸化しがちではあるものの、形骸化しようとも掲げなければならない理由が、”自由”という存在には内包されている。
この原点の先に、個人主義と全体主義の鬩(せめ)ぎ合いがある。個人主義における多様性と全体主義における多様性との関係は、非対称的であることにそもそもの存在意義がある。個人主義をそのまま全体主義に拡大できないし、全体主義を縮小したものが個人主義ではないのだ。自由とは自由が履行されるために存在する。
とまぁ、言いたいことは全て書いたのであとは蛇足。
近所にとある他国籍をルーツとする子供がいる。現在の状況は知らないもののおそらく日本国籍ではあると思う。ルーツが他国籍なだけで。
その片親か両親かは不問として、親は他国籍であった。繰り返すけど現在のことは知らない。
ちょっと横道。
”理想と現実”という表現がある。親としての在り方。人としての在り方。個人としての在り方。多くは理想的で、理想は理想であるから理想である。トートロジー(笑)
その人の限界。これは、おそらく定量的だと思う。限界は限界だから限界だ。いやー無敵論法というのは使い勝手がいいねぇ(笑)見えないものが定量的であるかというと、NOなんだけど、見えないからといって定量的ではないかというとそれもNOだ。見えてないだけで定量的なものというのはあると思う。論理的ではないけどね。
限界を上げる、っていう表現は結構好きなんだけど、限界は限界だから限界なのに、限界を上げるって論理的じゃないよね。
論理的じゃないものを好きか嫌いかは別次元の話。だから俺は限界を上げるという表現は結構好きだ。
ただ、自分の限界がどこにあるのかって、自分が本当に把握できているのか相当の疑問がある。自分の把握している限界って本当に自分の限界なの?それ以上に出来る(出来た)ってことは、そもそも限界の見積もり方に甘さがあったのではないの?それら含めて、限界という表現は使われて然るべきものなのではないのかしら。
結局のところ自分の出来るところが限界なのですよ。それ以上に出来たなら、限界を上げたわけではなくて、そこが自分の限界だったということなのですよ。限界を上げたのではなく、その瞬間における限界を知ったというだけ。にも関わらず限界を上げた気分になるのは、自分へのご褒美なんだよね・・・前を向く、前に進むためのエネルギー。養分。
この段落の結論。限界は上がらない。ただその瞬間の限界を知るのみ。そして本質的な限界は知ることの出来ないもの。だから限界が上がったような錯覚が起きる。でもその錯覚は自分へのご褒美。他人へのご褒美にはならない。限界を上げることは不可能。限界に挑むことは可能。ニュアンスとして伝わるだろうか・・・
この前一段落は一般論ではなく個別の論なのでさらっと流してください。
話を戻して。ここからも一般論ではないのだけど(笑)
この他国籍をルーツとした子。お母さんは一般的に言われるところのネグレクトとの境い目を際どくしている。想像にすぎないけど、異国日本での仕事に手一杯なのだと思われる。しかし子供にどのような罪があるだろうか。
罪、とか書いちゃうところで、とても陳腐になってしまう。でもあえて罪と書く。子供は子供。その子が成長するために必要なモノは、親が理想的であるか無いかにかかわらず、先を生きている者にとって与え続ける必要があるモノだ。他人の子供、他国籍をルーツとした子供、自分の子供、にかかわらず、大人として成長を促す必要があるのだと思う。
現実的な問題としては、自分の子供に対してできることと、他人の子供に対してできることとは等価ではないだろう。それを等価にしたいというのは理想なわけで。
理想を現実化するために日々がある。現実(その子の親が放任を通り過ぎたネグレクトであるかもしれない懸念)を理想(その子の親が、より子どもと密着した生き方をすべきという理想)に近づけたい思惑があったとしても、現実は他人の保護された自由によって理想化出来ない。保護された自由が、理想的な日々を歩んでこそ現実化する。日々という現実は理想化出来ないものなのですよ。
その子の親が現実を理想化して理想的な日々を送れるのであれば、そもそもこうした懸念は生まれないわけで、こうした懸念が生まれるということが正に現実を理想化出来ない証明となり得る。その子の親がどうしたら現実を理想化することなく、理想的な日々を送れるのか?というアプローチが、お互いの励まし合いに近いものとして在るべきと考える。
ある日その子が親の勝手な事情(眠いからという事情)で幼稚園を休み、おそらく親は寝ているから子供が外に出てくれてたほうがいいのだろう、昼ごはんすら子供に与えられずにいたとする。その子が、公園で楽しくお昼ごはんを食べている親子に近づいてきて、恨めしそうにはせずとも内心は寂しいだろうに、様子を眺めていたとする。
どうしましょう。
親に対して理想論をぶつけるなら、何やってるの?という苦言で済ませられる。では、そうして済ませてしまった場合、その子供は何を得られるだろう。
非常に繊細な問題なので、答えは無いし書けない。
ある一つの切り口として、その子供に対して、一緒にご飯食べる?と言ってあげることも選択肢としてはある。場合によってはごちそうすることも”選択肢としては”ある。その子供の親にとって、はた迷惑である可能性も十分考えられる。けれど、世知辛いと感じるから世知辛さが増幅するわけで、誰かが支援してくれることで前を向ける場合もあるんだよね。
これは、個人主義としての自由。その子供の親の自由を侵害してしまう自由であるかどうかは、その子供の親が主張して成立するもので、その主張を勝手に想像して、相手の自由を自由の名の下に切り裂くことをしてはならない。
逆説的に書くと、その子の親がこちらの行為をダメというなら従うけど、ダメと言ってないうちは自分の自由が保証される。非対称的で繊細な問題だけど、自由を侵害する自由に怯えて、自由を侵害していない自由を封じちゃならないんだと思う。
RIEは、お母さんはどうしたの?お家に帰ったほうがいいんじゃないの?と、心の内で、親はなにしてるのだ、と思いながら問いかけた(本人談)。子供はその問いかけに、寂しさを得るだろう。かと言って、一緒にご飯食べようか?と言い、ごちそうしたとして、その子の親がしめたことかと寄りかかってくる懸念も、もちろんある。
寄りかかってきたら、時に丁寧な拒否をしてもいいと思う。場合によっては対立的な拒否もいいだろうね。
でもね、自分が理想的な生き方をするのは何も間違っていないと思うんだよね。その理想的な生き方を他人に求める(≒他人の自由を侵害する自由)のは間違っていると思うけども、自分が理想的に生きることは”自由によっても侵害されない自由”なのだと思う。
多くの場合、自分の自由という大義名分で、他人の自由を侵害する。元他国籍か現他国籍かは知らないけど他国籍のお母さんが、そのお母さんの限界である現実の中で生きていることを、他人様の尺度で理想化しようとしてはならない。そのお母さんがどうしたら理想的に生きていけるのか。つまり、そのお母さんの限界が実はもっと上にあるのだと、どうしたら自認出来るのか。ここが一番重要なのだと思う。
あなたはもっと出来るはず。そして今という現実はそもそも限界なはず。現実(限界)を受け入れた先に、自分の知らない限界があるかもしれない。その理想的な日々に挑んで初めて、未来はその理想を現実化していく。現実を理想化しようとしないでください。その理想は、現実の前では限界以上を要求することにほかならないのだから。限界は超えられない・・・上げることも出来ない・・・
何度もこういうネタで書いてるのに、まとまらない。ま、そんなもんだよ。俺がまとめられるなら、とっくに誰かがまとめてるさ(笑)
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