崩壊するスウェ-デン 既に低強度の内戦状態に突入 YouTube
今年の1月ころにアップされていた動画です。
これを見ると何か感じますよね。
今後世界で起きることは統合に失敗した上層部とそこを突いてくる下層部の衝突だろうと思われます。
早い話、戦争は起きるんじゃないか?ということです。
どういった形の戦争かは分かりませんが(すでに起きているという見方も出来るかも?)、情報戦を駆使した捏造や統制、意図された衝突と浄化政策は今より過激になっていくのではないかな?と思います。
どっちにしても暴力的な世界は、上層から見ればアンダーグラウンド化し、下層から見ればオーバーグラウンド化していくのだと思います。
それに絡む、というより中枢に基幹するのがインターネットであることは間違いありません。
世界の覇権争いは、こうした上層主権の奪い合いだと言えそうです。
固く結束していく底辺では細分化や暴力化が顕著になり、今まで歴史が積み上げてきた集合主義を個人主義へと変えていくのだろうと思います。
金銭的な裕福度によって暴力との接点が変化し、一部の集合主義者たちと莫大な数の個人主義者たちによる、中間層での戦争です。
中間層はもう不要なのです。
上層から食い物にされ、下層から暴力で駆逐されるのが中間層なんだと思います。
おそらく都市部はゆくゆく住むに適した場所ではなくなるのでしょう。
こうした観点から、残念ながら上層による支配・統制された世界は結果として実はなかなか快適であったということが露呈してくると思われます。
上層による支配の恩恵と、下層に開放された自由の恩恵の、双方のメリットを期待している中間層は勘違いしている存在であると思うのです。
未来予測など出来るわけもありませんが、いずれ他人を食らうか他人に食らわれるかの選択肢を突き付けられるような気がしてなりません。
時に諦めは美学を生む。
他人を屠(ほふ)ってまで生きたくないと思えば他人に屠られることもそれほど悲しいことではありません。
さっさとドロップアウトしたいものです。
しかし可能な限りはそうならないように、選挙に参加し、自国文化が他国文化に同化を迫られても明確なNOを言えるよう自分の生き方をしっかりと保ち、それを元に普段の生活を心がけることは大切なことだと思います。
中間層に何も出来ないのかというとそうでもないでしょう。
三点によるリバランスは理想的です。
平和解決による三点のリバランスはあり得ませんから、上層と下層のバランスを中層がコントロールすることで、中層の活路は見いだせるかもしれません。
鍵はウィキリークスなど、やはりインターネットですかね。
踊る人、踊らされる人、踊らす人、さまざまな形で人が人をコントロールしようとするでしょう。
「日本」という国で考えた場合、どうして行くべきでしょうかね。
米国の衰退は日本にとっては重大な、それこそ自国の問題と同等の問題です。
精神論を唱えてもこればかりは事実です。
米国債を買うことは日本自国を守るのと同義でもあるのです。
アフガンやイラクから撤退していく米国がどこまで出口戦略を取らされるのかは、日本がまさに侵略されるかされないかという問題に等しいと考えておくべきでしょう。
夢物語の平和主義では日本は自国を守れません。
リスクの取り方が日本と世界では違うのです。
自国内の問題は自国民同士が話し合い解決していくために存在するべきであって、決して自国民同士が分裂する方向に進んではならないと思います。
もっとも重要な問題は、自国民同士が疲弊したところに他国が美味しいところをごっそり持っていくことです。
それに比べれば原発問題などは可愛い問題ではないかと思います。
価値観の問題でしょうけど。
暴力的な世界になれば子供の未来なんて原発問題以上に無くなります。
これだけは間違いないと思います。
ですので自国のアイデンティティだけは死守するべきでしょう。
もちろん原発問題に目を向けることも大切です。
しかしものには順序がある。
原発問題は長期的に考えていかなければならない理由があります。核廃棄物です。
今何が重要なのか政治が選択できるようにすることがボクら国民の責務でしょう。
機会があれば反韓デモには参加してみたいものです。
この記事はあくまでボク自身の取捨選択です。
誰かの取捨選択に対しての批判にもなっています。
デフォルメをして批判することは非常に大切です。
デフォルメをしないということは個人の細部にわたって批判することになるからです。
個人人格の批判にもなりかねません。
そうした批判は正しい主張の姿勢ではないと思います。
デフォルメは細部を削ぎ落とすことによって主張をテーマ別に抽出出来るようにする方法です。
デフォルメ出来ない人との議論はまったく楽しくなく、聞いていて辟易してくるものです。
細部を丁寧にするあまり主題が届きにくくなるのではまったく無意味です。
相手に主張が届くようにすることは議論で大切なことです。
それをやらないということはつまり最初から議論するつもりはないということであって、それならこちらも最初から議論するつもりはないというのがボクのスタンスです。
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今年の1月ころにアップされていた動画です。
これを見ると何か感じますよね。
今後世界で起きることは統合に失敗した上層部とそこを突いてくる下層部の衝突だろうと思われます。
早い話、戦争は起きるんじゃないか?ということです。
どういった形の戦争かは分かりませんが(すでに起きているという見方も出来るかも?)、情報戦を駆使した捏造や統制、意図された衝突と浄化政策は今より過激になっていくのではないかな?と思います。
どっちにしても暴力的な世界は、上層から見ればアンダーグラウンド化し、下層から見ればオーバーグラウンド化していくのだと思います。
それに絡む、というより中枢に基幹するのがインターネットであることは間違いありません。
世界の覇権争いは、こうした上層主権の奪い合いだと言えそうです。
固く結束していく底辺では細分化や暴力化が顕著になり、今まで歴史が積み上げてきた集合主義を個人主義へと変えていくのだろうと思います。
金銭的な裕福度によって暴力との接点が変化し、一部の集合主義者たちと莫大な数の個人主義者たちによる、中間層での戦争です。
中間層はもう不要なのです。
上層から食い物にされ、下層から暴力で駆逐されるのが中間層なんだと思います。
おそらく都市部はゆくゆく住むに適した場所ではなくなるのでしょう。
こうした観点から、残念ながら上層による支配・統制された世界は結果として実はなかなか快適であったということが露呈してくると思われます。
上層による支配の恩恵と、下層に開放された自由の恩恵の、双方のメリットを期待している中間層は勘違いしている存在であると思うのです。
未来予測など出来るわけもありませんが、いずれ他人を食らうか他人に食らわれるかの選択肢を突き付けられるような気がしてなりません。
時に諦めは美学を生む。
他人を屠(ほふ)ってまで生きたくないと思えば他人に屠られることもそれほど悲しいことではありません。
さっさとドロップアウトしたいものです。
しかし可能な限りはそうならないように、選挙に参加し、自国文化が他国文化に同化を迫られても明確なNOを言えるよう自分の生き方をしっかりと保ち、それを元に普段の生活を心がけることは大切なことだと思います。
中間層に何も出来ないのかというとそうでもないでしょう。
三点によるリバランスは理想的です。
平和解決による三点のリバランスはあり得ませんから、上層と下層のバランスを中層がコントロールすることで、中層の活路は見いだせるかもしれません。
鍵はウィキリークスなど、やはりインターネットですかね。
踊る人、踊らされる人、踊らす人、さまざまな形で人が人をコントロールしようとするでしょう。
「日本」という国で考えた場合、どうして行くべきでしょうかね。
米国の衰退は日本にとっては重大な、それこそ自国の問題と同等の問題です。
精神論を唱えてもこればかりは事実です。
米国債を買うことは日本自国を守るのと同義でもあるのです。
アフガンやイラクから撤退していく米国がどこまで出口戦略を取らされるのかは、日本がまさに侵略されるかされないかという問題に等しいと考えておくべきでしょう。
夢物語の平和主義では日本は自国を守れません。
リスクの取り方が日本と世界では違うのです。
自国内の問題は自国民同士が話し合い解決していくために存在するべきであって、決して自国民同士が分裂する方向に進んではならないと思います。
もっとも重要な問題は、自国民同士が疲弊したところに他国が美味しいところをごっそり持っていくことです。
それに比べれば原発問題などは可愛い問題ではないかと思います。
価値観の問題でしょうけど。
暴力的な世界になれば子供の未来なんて原発問題以上に無くなります。
これだけは間違いないと思います。
ですので自国のアイデンティティだけは死守するべきでしょう。
もちろん原発問題に目を向けることも大切です。
しかしものには順序がある。
原発問題は長期的に考えていかなければならない理由があります。核廃棄物です。
今何が重要なのか政治が選択できるようにすることがボクら国民の責務でしょう。
機会があれば反韓デモには参加してみたいものです。
この記事はあくまでボク自身の取捨選択です。
誰かの取捨選択に対しての批判にもなっています。
デフォルメをして批判することは非常に大切です。
デフォルメをしないということは個人の細部にわたって批判することになるからです。
個人人格の批判にもなりかねません。
そうした批判は正しい主張の姿勢ではないと思います。
デフォルメは細部を削ぎ落とすことによって主張をテーマ別に抽出出来るようにする方法です。
デフォルメ出来ない人との議論はまったく楽しくなく、聞いていて辟易してくるものです。
細部を丁寧にするあまり主題が届きにくくなるのではまったく無意味です。
相手に主張が届くようにすることは議論で大切なことです。
それをやらないということはつまり最初から議論するつもりはないということであって、それならこちらも最初から議論するつもりはないというのがボクのスタンスです。
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