今を積み重ねた先に未来があるとする。と言うことは過去を積み上げた先に今があることになる。
未来はどのくらい存在しているのか分からないけど、少なくとも地球史における過去はおおよそ分かっている。
46億年の過去を積み重ねた先に今がある。今から小手先の何かをして46億年の歴史って覆るのかな。
ほんの一年足らず前までは、覆らなくても挑戦していかなければならない、なんて思ってた。でもなんか違うと思い始めていた。その矢先に震災。
まさか46億年の歴史は関係なく、人類が生まれてからの歴史だけが今に関係しているとかではない。科学が発達したのは僅か半世紀だとしても、人類が積み上げてきた欲望というベクトルの強さは数百万年、そして、地球が誕生した46億年前から積み重ねられてきたものであることは疑いようもない。
要するに、今更人類の欲望を小さくしていこう、なんて、無理なんだと思う。だって今の積み重ねの先に未来があるのでしょ?過去の積み重ねが今なんだから、今存在している人類の積み重ねた欲望は莫大なエネルギーを内包している。科学の発達は過去から積み重ねた欲望のベクトルの集大成に過ぎず、人類は過去から今まで脈々と欲望の強さを変えずに生きてきた。
積み重ねたベクトルの強さは半端ではない。わずか半世紀でここまで科学を発展させてしまう程、46億年かけて積み重ねたベクトルは強いわけだ。これからたったの数年とか数十年とかでそれを覆せるとは到底思えないんだ。
それを分かった上でも抗うべきだと思っていたのが昔の俺なわけだ。
しかし発想が転換された。無駄な足掻きは無駄なことに違いはない。アリがいくらもがいても象を踏み潰せないように、人間の寿命たかだか数十年がいくらもがいても46億年の歴史を覆せるわけがない。
アリが象に立ち向かう姿を見て、「うんうん分かる」と言えるのは気持ちの問題だ。気持ちが大切なものなのは紛れもない。でも気持ちは前に向くなら大切なのであって、後ろに向く気持ちも確かに必要ではあるものの、重要ではない。
後ろに向く気持ちが必要なのは前に向かうためである。
俺は、無駄だと思う気持ちは後ろ向きだと思うわけだ。かと言って、俺の人生を捧げた先に平和な未来が存在しているとは、どう逆立ちしても思えない。俺にとって一番合理的に今を生きることが出来る考え方は、今も昔も未来も、全て切り離された別次元の世界であると考えることだ。
今と過去と未来を同次元で考えるから、人は人を許せなくなる。今日誰かを嫌いだった自分が明日も同じく誰かを嫌いだとしたら、明日顔を合わせた時に、今日と同じように嫌いな感情ですれ違う。腐った現在の先に腐った未来が存在しているのだとしたら、なぜ今を生きなければならないのか分からない。人は必ず死ぬと分かっているのになぜ生きているのだろう。
全て次元が違うからだと思うのだ。
俺は今日と明日で違う次元を生きる。いつか死ぬであろうステージでは、俺は今の俺とは違う次元で生きていて死んでいく。今、いくらその次元に働きかけを行なっても、神でもない限りは次元のコントロールなど出来ない。上手いことをして上手い次元へと到達するのであるなら、今、この世の中は幸せで溢れかえっているはずである。
このブログで書いてあることの多くとこの記事は、矛盾があるかもしれない。結果としては今が積み重なって未来になる。だが、アリが勝てもしない象に立ち向かうことを美学だと感じるように、今の積み重ねが善行であるなら未来も善が待つ、と考えるのも美学だ。
美学とは、武士は食わねど高楊枝、的な、意地や自尊心や哲学だ。しかし食わなければ腹は膨れない。高楊枝をしても食わなければ待つのは死だ。美学と現実は、これまた切り離された存在だ。ゆえに未来は必ずしも美学では体現されない。
ということはだ。未来がどうなるかは誰にも分からない、としか言いようがないことになる。
え、なんて当たり前な・・・って思われるね(笑)
でもどうなるか分からないということを本当に理解しています?今日嫌いだったあの上司と明日いきなり笑顔で話し合える気がします?俺はなかなかそうは出来ない。どこかで今の延長上にある明日を想定している。
未来は誰にも分からないのに、なぜ未来を危惧して今、その危惧される未来を想定し、対策をするのか。
未来を想定する人間が未来を予定してしまう。人間が未来を捨てた時、ようやく未来は誰にも分からないものへと落ち着く。誰かが未来を分かろうとするから、その未来へと続いた今じゃなければ納得できなくなる。こじれてこじれて、こじれにこじれ抜いた今、人間は現在過去未来の次元を切り離す必要があるだろう。
未来はどのくらい存在しているのか分からないけど、少なくとも地球史における過去はおおよそ分かっている。
46億年の過去を積み重ねた先に今がある。今から小手先の何かをして46億年の歴史って覆るのかな。
ほんの一年足らず前までは、覆らなくても挑戦していかなければならない、なんて思ってた。でもなんか違うと思い始めていた。その矢先に震災。
まさか46億年の歴史は関係なく、人類が生まれてからの歴史だけが今に関係しているとかではない。科学が発達したのは僅か半世紀だとしても、人類が積み上げてきた欲望というベクトルの強さは数百万年、そして、地球が誕生した46億年前から積み重ねられてきたものであることは疑いようもない。
要するに、今更人類の欲望を小さくしていこう、なんて、無理なんだと思う。だって今の積み重ねの先に未来があるのでしょ?過去の積み重ねが今なんだから、今存在している人類の積み重ねた欲望は莫大なエネルギーを内包している。科学の発達は過去から積み重ねた欲望のベクトルの集大成に過ぎず、人類は過去から今まで脈々と欲望の強さを変えずに生きてきた。
積み重ねたベクトルの強さは半端ではない。わずか半世紀でここまで科学を発展させてしまう程、46億年かけて積み重ねたベクトルは強いわけだ。これからたったの数年とか数十年とかでそれを覆せるとは到底思えないんだ。
それを分かった上でも抗うべきだと思っていたのが昔の俺なわけだ。
しかし発想が転換された。無駄な足掻きは無駄なことに違いはない。アリがいくらもがいても象を踏み潰せないように、人間の寿命たかだか数十年がいくらもがいても46億年の歴史を覆せるわけがない。
アリが象に立ち向かう姿を見て、「うんうん分かる」と言えるのは気持ちの問題だ。気持ちが大切なものなのは紛れもない。でも気持ちは前に向くなら大切なのであって、後ろに向く気持ちも確かに必要ではあるものの、重要ではない。
後ろに向く気持ちが必要なのは前に向かうためである。
俺は、無駄だと思う気持ちは後ろ向きだと思うわけだ。かと言って、俺の人生を捧げた先に平和な未来が存在しているとは、どう逆立ちしても思えない。俺にとって一番合理的に今を生きることが出来る考え方は、今も昔も未来も、全て切り離された別次元の世界であると考えることだ。
今と過去と未来を同次元で考えるから、人は人を許せなくなる。今日誰かを嫌いだった自分が明日も同じく誰かを嫌いだとしたら、明日顔を合わせた時に、今日と同じように嫌いな感情ですれ違う。腐った現在の先に腐った未来が存在しているのだとしたら、なぜ今を生きなければならないのか分からない。人は必ず死ぬと分かっているのになぜ生きているのだろう。
全て次元が違うからだと思うのだ。
俺は今日と明日で違う次元を生きる。いつか死ぬであろうステージでは、俺は今の俺とは違う次元で生きていて死んでいく。今、いくらその次元に働きかけを行なっても、神でもない限りは次元のコントロールなど出来ない。上手いことをして上手い次元へと到達するのであるなら、今、この世の中は幸せで溢れかえっているはずである。
このブログで書いてあることの多くとこの記事は、矛盾があるかもしれない。結果としては今が積み重なって未来になる。だが、アリが勝てもしない象に立ち向かうことを美学だと感じるように、今の積み重ねが善行であるなら未来も善が待つ、と考えるのも美学だ。
美学とは、武士は食わねど高楊枝、的な、意地や自尊心や哲学だ。しかし食わなければ腹は膨れない。高楊枝をしても食わなければ待つのは死だ。美学と現実は、これまた切り離された存在だ。ゆえに未来は必ずしも美学では体現されない。
ということはだ。未来がどうなるかは誰にも分からない、としか言いようがないことになる。
え、なんて当たり前な・・・って思われるね(笑)
でもどうなるか分からないということを本当に理解しています?今日嫌いだったあの上司と明日いきなり笑顔で話し合える気がします?俺はなかなかそうは出来ない。どこかで今の延長上にある明日を想定している。
未来は誰にも分からないのに、なぜ未来を危惧して今、その危惧される未来を想定し、対策をするのか。
未来を想定する人間が未来を予定してしまう。人間が未来を捨てた時、ようやく未来は誰にも分からないものへと落ち着く。誰かが未来を分かろうとするから、その未来へと続いた今じゃなければ納得できなくなる。こじれてこじれて、こじれにこじれ抜いた今、人間は現在過去未来の次元を切り離す必要があるだろう。
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