綱敷天神社 禰宜日誌

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与謝蕪村の菜の花の句 250年

2024年03月23日 | 日記

安永三年(1774)3月23日、京都東山(諸説あり)において、連句の会が開かれ、そこで俳人の与謝蕪村が「菜の花や 月は東に 日は西に」という有名な句を詠んでから、今日でちょうど250年(註1)となります。

この句については、俳人の高井几董が残した『続明烏』や『宿の日記』に3月23日に、即興で作られた「春興二十六句」の発句として詠まれた連句(註2)である事が記されています。

一面に広がる菜の花畑、その東にはお月さまが出て、西には夕日。

この風景を詠み込んだ写生的な名句ですが、万葉集の柿本人麻呂の歌や、与謝蕪村の母方郷里の丹後地方の俗謡などを組み込んでいるともいわれ、非常に高度な俳句とされています。

この菜の花の句ですが、一説には与謝蕪村が生まれた、大阪市北区の東北角あたりにあった、毛馬村の淀川堤防から見た、菜の花咲く茶屋町の風景が原型であったともいわれています。

当時は、堤防の上に登って西の方を向くと、ちょうど、茶屋町付近の菜の花畑が一面によく見え、さらに東には月、西には日と、まさに菜の花の句のような風景が広がっていたと思われます。

その光景が強烈に目に焼き付き、幼い与謝蕪村の心の原風景としてあったのではないかとみられています。

また与謝蕪村はこの句を詠んだ3年後に、「春風馬堤曲」という俳詩を発表しており、その内容が故郷の毛馬村への郷愁の念を込めて詠んでいる事から、この時期、老境に差し掛かっていた蕪村は、故郷への思いを強めていた可能性が高く、この句会でもその時の思いが菜の花の句として現れたのかもしれません。

今回、この250年という節目の日を控えた3月22日。当宮神職が与謝蕪村の眠る京都 金福寺に、個人的にお参りして、茶屋町産の菜の花を墓前に捧げてまいりました。この菜の花は地域の皆さんがお育てになられた菜の花で、茶屋町のお花屋さんであるフロリストメリーさんにお願いして墓前用に仕立てて頂き、金福寺さんにお供えの許可を頂いた上で捧げました。

菜の花は古来、ささくれる心を穏やかにするチカラがあるといわれています。蕪村も郷愁の念とともに、心穏やかに茶屋町の菜の花に思いを馳せていたのかもしれません。

 

写真①
茶屋町の梅田芸術劇場前にある与謝蕪村の句碑。今年も地域の皆さんが育てた菜の花で彩られています。

写真②
京都 金福寺にある与謝蕪村のお墓。茶屋町産の菜の花を、フロリストメリーさんにお願いして墓前花に仕立てて頂きお供えさせて頂きました。(金福寺さんの許可済み)

写真③
与謝蕪村の故郷、毛馬村のあったあたり。現在の淀川大堰があるたりです。

写真④⑤
京都東山の将軍塚からみた、月は東に日は西に

 

※註1
当時は旧暦ですので、今の暦に直すと、この句が詠まれたのは、恐らく新暦の5月3日になります。この時期ですともう菜の花も散っている時期です。(ですので菜の花の句は与謝蕪村が想像をめぐらして詠んだ句であり、幼い頃に見た茶屋町の菜の花を詠ったものとみられています)
しかし、せっかくの菜の花の句ですので、今回、5月ではなく、菜の花咲く、新暦3月23日に寄せて投稿いたしました。


※註2
連句とは上の句と下の句を別々の人が詠むものです。この菜の花の句の場合、
発句
 菜の花や 月は東に 日は西に
             与謝蕪村
脇句
 山もと遠く 鷺かすみ行く
             三浦樗良
と、与謝蕪村と三浦樗良の二人によって詠まれています。


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