今日、令和5年11月13日は旧暦の10月1日です。 実は大阪にとって、また日本の土木史にとって、重要な河川「難波の堀江」が開削されて1700年という一つの大きな節目となる月です。
そもそも「難波の堀江」とは、古墳時代の天皇陛下であらせられる仁徳天皇さまの御代に開削された、大阪の人工の放水路の事です。
原文
『日本書紀』 仁徳天皇11年(西暦323年)
「冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江。」
口語訳
仁徳天皇11年の冬10月に、高津宮(現在の大阪城周辺か)の北の原っぱを掘って、上町台地東岸に沿って、南から流れ込んでくる大和川水系の川の水を、西の大阪湾方向へ流した。その放水路を堀江と言った。
つまり、西暦323年に出来た「難波の堀江」は、今日、西暦2023年旧暦10月1日で、ちょうど開削1700年の節目となります。
この「難波の堀江」の位置については、今も諸説入り乱れていますが、考古学上、また地形上、現在の中之島の東から、大阪城北端にかけて流れる大川(旧淀川)がそれと考えられており、規模から考えても古墳時代、最大級の大土木工事であった事が推測されています。
その「難波の堀江」は一体何の為に掘ったのかというと、前述の大和川水系の水、また淀川水系の水が、古代ではちょうど現在の大阪城の北東あたりで溜まり込む地形(河内湖)となっており、度々当時の皇居である高津宮周辺が水害に遭っていたと考えられています。 その水害を防ぐ為に、現在の上町台地北端である、大阪城の北側を東西に掘って、放水路とした。という説が有力です。
この「難波の堀江」という放水路が出来た事で、古代の大阪市北区、中央区周辺は水害が減って、人々の住める土地となっていったようです。
なお、日本書紀の暦通りに数えれば1700年ですが、上古の天皇陛下の年譜については、伝説的な部分も多々あるので、現代の暦法では無理のある部分もあります。しかし、仁徳天皇さまの父である応神天皇さま以降の御代については、『宋書』の倭の五王との比定から考えると、かなり近しい年代であったと考えられ、少なくとも4,5世紀に、「難波の堀江」の大土木事業が行われていた事はほぼ間違いないと考えられています。
この難波の堀江は、当初は放水路として開削されたと見られていますが、後に、水上運輸の重要地点ともなり、「難波津」という港湾が形作られます。その難波津の近くに咲いていた梅の花を詠んだ歌に
「難波津に 咲くやこの花 冬籠り 今を春べと 咲くやこの花」
という歌があり、この和歌は実在が確認できる和歌としては、最も古い和歌で、和歌の父ともいわれ、近世までは手習いの最初に習う和歌とされ、日本の和歌の原点となっています。
また、難波の堀江の開削から239年後の、欽明天皇13年(552)10月に、蘇我稲目が祀っていた仏像を、物部尾輿がこの難波堀江に投棄し、さらにそれらの息子の世代にも同様の事があり、敏達天皇14年(585)3月、蘇我馬子が祀っていた仏像を、物部守屋が焼いて、同じく難波の堀江に投棄しています。この仏像を後に、信濃の本田善光が拾って郷里に持ち帰り、お祀りする為に建てたお寺が今の善光寺です。
更に、難波の堀江の開削から、578年後の、昌泰4年(901)。当宮の御祭神の菅原道真公が無実の罪で京都から九州大宰府に左遷される途次、この難波津の和歌の事に思いを致されて、当宮の紅梅をご覧になられた故事から、梅田の梅の字も生まれたと考えられています。
このように、日本の和歌、仏教、梅田に大きな影響を与えた「難波の堀江」ですが、その後も様々な人々が足跡を残し、平安時代から鎌倉時代にかけては渡辺党の根拠地、室町時代には大坂本願寺、さらに豊臣秀吉の直轄となり、徳川時代以降は「天下の台所」の拠点として蔵屋敷の水運の中心となり、現代に至っても、八軒家浜という名で、水運を担っており、さらに、昨今では上町台地東側の氾濫防止の為の地下の放水路の出口にも繋げられており、1700年前の古代から、現代に至るまで、活用されている事を考えると、仁徳天皇の御代の人々のお陰で支えられているんだなという事を強く感じます。
ちなみに今日は、亥の月亥の日で、亥の子餅を食べる習いのある日です。この亥の子餅の風習も、当宮氏地の兎我野町であった「兎我野の誓約」という説話が所以で、「難波の堀江」を開削した仁徳天皇さまの父、応神天皇さまの故事に由来します。実は当宮では戦前まで応神天皇さまをお祀りした末社がありましたが、戦災で焼失し、現在は御本殿にて配祀する形となっておりますが、応神天皇さま、仁徳天皇さまとも縁深き神社でもあります。
応神天皇さま、仁徳天皇さまの親子二代にわたり、大阪の歴史の基礎を築かれ、その上に立つ現代の私達。神々の恵みと先人の恩への感謝を忘れず、次の時代へ佳き歴史を積み重ねていきたいものです。
古代大阪の地形図
難波の堀江推定地(現在の大川)
難波津の想像図
難波の堀江で仏像を見つけた本田善光
現在の八軒家浜(大川南岸)
現在の大川(難波堀江推定地・令和5年10月撮影)
現在の大川にかかる噴水(令和5年10月撮影)