綱敷天神社 禰宜日誌

大阪梅田の綱敷天神社のご案内ブログです

新嘗祭と白酒黒酒

2020年11月23日 | ノンジャンル
本日11月23日は、日本全体の収穫感謝の祭礼である「新嘗祭(にいなめさい)」が宮中はじめ全国の神社で斎行されます。

その際、御神前にはその年に収穫された新米がお供えされ、また白酒(しろき)、黒酒(くろき)という特別なお酒も献られます。

書くと長くなるので割愛しますが、古代の製法で醸された特別なお神酒で、文字通り白色、黒色のお酒です。

特に黒酒の方は、「久佐木(くさぎ)」という木の灰を用いて黒くするのですが、その灰は平安時代の『延喜式』によれば、伊勢国、丹波国の両国から献進された久佐木を用いていました。
今般、その伊勢国に鎮座します久居八幡宮の禰宜さまより、ご厚意で伊勢国の久佐木の灰をお頒かち頂きまして、当宮でも黒酒を奉製する機会を得、本日午前中に当宮でも新嘗祭をご斎行申し上げ、大神さまに白酒黒酒を献り、収穫感謝はもとより、令和の御代の安寧、氏子崇敬者の皆様の弥栄と、疫病鎮静を祈念いたしました。

御神饌につきましては新嘗祭をお納めした後、すぐに撤下しましたが、白酒黒酒は折角の機会でございますので、今日の夕方まで御本殿内にて特別に展示しております。お参りの際に是非ご覧くださいませ。

最後になりましたが、久佐木の灰を御献進下さいました久居八幡宮 禰宜さまありがとうございました。



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亥の子餅と梅田

2020年11月16日 | ノンジャンル
今日は旧暦10月初亥の日です。

古来この日には亥の子餅を食べる習わしがあります。
亥の子餅とは、餡を求肥で包み、うり坊(イノシシの子供)に見立てた形から亥の子と呼ばれる和菓子です。

少なくとも貞観年間(9世紀中頃)には記録に見られ、源氏物語にも登場するなど日本でも有数の由緒をもつ和菓子です。

なぜ今日、そんなイノシシの形をしたお菓子を食べるのでしょうか。
それには、実は梅田の古いお話が関わっています。

古事記、日本書紀によれば、古墳時代の第15代天皇、応神天皇さまがまだ赤ん坊の頃に、腹違いの兄弟である、忍熊王、香坂王の2皇子が応神天皇を亡き者にしようと企んだ事がお話のはじまりです。

その際、2皇子は事の成果の可否を占う為に、「菟餓野(兎我野)」の地で、狩りをして良い獣が獲れたら大吉、獲れなかった凶として、戦の吉凶を占う事にしました。これを「菟餓野の誓約(うけい)」といいます。

しかし結果は、飛び出てきたイノシシに香坂王が殺されるという大凶で、結果、忍熊王も敗れて、応神天皇側が勝利しました。

この事で、イノシシに命を助けられたと感じた応神天皇は、毎年亥の月亥の日に吉例として供御を行うようにと命じた事が、亥の子餅の由縁と伝えられています。

この誓狩が行われた菟餓野の地については、実際には諸説ありますが、梅田は当時の地勢から考えると、菟餓野の地の最有力候補といわれており、誓狩のイノシシの話は古代の梅田であった可能性が高いといわれています。(ちなみに日本の記録上、動物としてのイノシシが登場するのはこの時が初めてです)

つまり、梅田は亥の子餅の縁の地ともいえなくありません。

亥の子餅そのものについては、最も由緒を伝えているのは大阪府豊能町の木代村、切畑村、大円村の3村のものが有名で、江戸時代には宮中への献上行列が名物となっていました。

もし今日の初亥を逃してしまった方は、二ノ亥の日(11/28)、三ノ亥の日(12/10)もありますので、その折りに亥の子餅をお召し上がりになられるのも良いかもしれません。

余談ですが、この初亥の日はコタツを出す日とされており、いよいよ冬がやってくる時期とされます。これから段々と寒さが増していき、また新型コロナの問題もありますので、正念場の冬となるやもしれませんが、亥の子餅などを食べて滋養をつけて、これからの冬も元気に過ごしましょう。



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難波八十島祭

2020年11月15日 | ノンジャンル
昨年、令和元年11月14日夜から15日未明にかけて、皇居東御苑に設けられました大嘗宮において、天皇陛下におかせられましては、皇祖 天照大御神さまと、天神地祇(八百万の神)に対し、御代の安寧と、五穀豊穣を感謝し、また祈念申し上げる大嘗祭を御斎行なされました。

今月8日は、憲政史上初めてとなる立皇嗣の礼が挙行され、御即位関連祭祀の中心儀式もほぼ全てお納めになられました。

しかし、古代においては御即位関連祭祀の本当の大トリともいうべき大切な神事がありました。

その神事は「難波八十島祭(なにわやそじまさい)」といい、大嘗祭の翌年に大阪湾岸において執り行われる神事でした。

どのような神事であったかというと、平安時代に著された『延喜式』、『江家次第』によると、新しい天皇陛下の乳母ら祭使一行が難波津に赴き、新天皇陛下の御衣の入った箱を、琴の音に合わせて揺り動かしたのち、最後には祭物を海に投じるという儀式であったと記録されています。

祭の目的は諸説ありますが、難波津は淀川などの運ぶ土砂によって、次第に砂州が広がっていく地であり、国土が生まれ広がっていく、つまりは神秘的なチカラを新しい天皇陛下にも付着(招魂)させて、新天皇陛下にも国土を広く豊かにしていくチカラを授かりますようにという、願いを込めたものだったのではないかと考えられています。また国生み神話の舞台である淡路島に面するという事も要因の一つであった可能性もあります。

記録上としては、嘉祥三年(八五〇年)九月に執り行われたのが最初ですが、奈良時代の文武天皇(聖武天皇の父帝)の御代あたりから、御即位翌年に難波行幸の記録が見える事から、既に古代から執り行われていたとみられ、古くは天皇御自ら執り行うほど大事な神事であった可能性が高いといわれています。

その祭場となったのは最初期の頃は難波津を中心とした北区周辺で、この梅田をはじめ、淀川下流域や、神崎川下流域で行われていたようです。後期になって住吉大社周辺でも執り行われるようになりました。

そのうち、北区周辺で伝承が残っているところとして、

伝承が残る神社
・生國魂神社(元は大阪城あたりに鎮座・大阪市中央区)
・海老江八坂神社(大阪市福島区)
・香具波志神社(大阪市淀川区)
・御霊神社(大阪市中央区)
・田蓑神社(大阪市西淀川区)
・垂水神社(大阪府吹田市)
・富島神社(大阪市北区)
・坐摩神社(元は八軒屋浜あたりに鎮座・大阪市中央区)
・露天神社(大阪市北区)
・八王子神社(大阪市東成区)
・姫嶋神社(大阪市西淀川区)
・澪標住吉神社(大阪市此花区)

島名
・歌島(大阪市西淀川区)
・江之子島(江小島・大阪市西区)
・加島(假島・大阪市淀川区)
・九条島(衢壌島・南浦・大阪市西区)
・小島(大阪市淀川区・神津神社)
・五反島大阪府吹田市
・竹島(大阪市西淀川区)
・佃島(大阪市西淀川区)
・出来島(大阪市西淀川区)
・富島(利島・大阪市北区)
・中島(大阪市東淀川区)
・御幣島(大阪市西淀川区)

(中世以前から名前が見られるところを抜粋・あいうえお順)

などがあり、まさに古代の北区周辺は「八十島」の名にふさわしい地であったとみられます。

当宮の場合、戦災で史料の殆どが焼けてしまった為、類推でしかありませんが、御祭神、嵯峨天皇さまも今から約1200年前に梅田に行幸になられたという当宮の伝承と、また当宮の前身神社であります「神野太神宮」の「神野」とは嵯峨天皇さまの御名ですが、平安時代当時、天皇陛下の御名は乳母の名から採ったという説もあり、その乳母が祭使となって執り行う八十島祭の事を思いますと、当宮の創建にも八十島祭と何らかの関わりがあったとしても不思議では無いようにも思います。

この大阪梅田は古代、天皇陛下の御即位において、大変重要な場所であったという事を、この御即位から一年が経った今、ぜひお心にお留め置き頂ければ幸いです。

写真は昭和天皇御即位大礼時に再現された人形による八十島祭模型と、本日朝撮影した淀川河口の舞洲西端から淡路島方面を望む写真。


 




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立皇嗣の礼

2020年11月08日 | ノンジャンル
本日、令和2年11月8日。秋篠宮皇嗣殿下におかれましては、皇位継承順位第1位たる皇嗣となられたことを内外に宣明する儀式「立皇嗣の礼」を宮中で執り行われるに際し、当宮におきましても立皇嗣の礼当日奉告祭をご斎行申し上げました。

本来4月19日に執り行われる予定でありましたが、新型コロナウイルスの疫禍により延期。それから半年あまりを経て本日無事挙行になられ、これを以て令和の御即位関連儀式の中心儀式はほぼお納めになられました。(今後、伊勢の神宮、皇祖山陵への御参拝の儀がありますが、コロナ禍の状況を伺いながらの為日程未定)

次代への道筋も整えられ、いよいよ令和の御代も本格的に幕開けです。

これよりの令和の御代も、皇室の益々の弥栄と日本国民の幸せ、また世界の平和を常に願い、心温かき良き御代となるよう私どももお支えする気持ちを新たにし、そして新型コロナウイルスなどの疫禍の早期終息を、大神さまに乞い祈り奉る次第です。



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