綱敷天神社 禰宜日誌

大阪梅田の綱敷天神社のご案内ブログです

79回目の終戦の日

2024年08月15日 | 日記

79年前の8月15日。焼け野原となった梅田。
 
その路傍に小さな露草が咲いていたそうです。

小さき花といえど、一生懸命に咲くその姿に、当時の氏子さんらは励まされたそうです。

未だ世界では、戦火が燻る現代。79年前の当時を知る方々も年々少なくなってきています。戦争の惨禍を再び繰り返さぬよう、御神前に平和を祈念し、露草一枝を奉りました。

露草は当宮境内に生えていたものです。今年は強烈な暑さのせいか、花は小さいですが、79年前と同じく8月の暑さの中、涼しげな青色を見せてくれています。

器は、戦時中用いられた陶器製の手榴弾です。当時は兵科の火器として作られたものも、現代では平和の花器となっています。

ただただ平和への祈りと、戦没者の方々の御霊の安からん事をお祈り申し上げます。


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杉本傅氏とパリ五輪

2024年07月27日 | 日記

本日、令和6年(2024)7月27日午前2時30分(日本時間)から、開会式が行われる、第33回オリンピック競技大会「パリ五輪」。32競技、329種目が実施される予定です。

このオリンピックですが、ちょうど百年前の大正13年(1924)もパリでの開催でした。

当時日本は関東大震災の直後でしたが、災害に負けぬ日本を世界に示す為、万難を排し、19名の選手団が派遣され、そのうちの約3割にあたる6名が水泳選手であり、その水泳選手団を監督として率いたのが、当宮の歴代の氏子であった 杉本傅(すぎもと つたえ)氏でした。

杉本家は、現在の堂山町にある東急REIホテルあたりに代々のお家があられ、江戸中期の古い地図等にも杉本家の名前が出てくるなど、梅田に根ざし、当宮とも関係の深いお家柄でした。

杉本傳氏はその杉本家で生まれ、日体大卒業後、母校である府立茨木高校の教員となり、まだ世界でも萌芽期であった近代水泳に着目。その指導の為、大正5年(1916)に大正天皇の御即位を記念して、校庭に南北30メートル・東西18メートルの水泳池を生徒らと協力して建造。これが日本最初の水泳授業の為のプールといわれています。

大正9年(1920)に開かれた全国競泳大会に、指導する茨木高校水泳部が出場し、高校生ながら全国優勝。その後も様々な大会で圧倒し、水泳指導者として杉本氏の名声は高まり、大正13年のパリ五輪では水泳の代表監督に就任しました。ちなみにこの時の開会式では、日本のマラソン界の父といわれる金栗四三氏が旗手を務めており、水泳のみならず陸上も黎明期でした。

パリ五輪においては、杉本傅氏の愛弟子である、高石勝男氏等が入賞するなど、黎明期と思えぬ活躍を見せ、後に海洋国家日本のお家芸ともいわれる日本水泳が世界に泳ぎ出した大会でもありました。

実はいま私たちが学校で普通に習っているクロールを、日本に定着させたのはこの杉本氏の功績が大きく、他にも水泳飛び込みや、背泳、水球の普及にも大きく貢献されました。

また杉本氏が直接関わられていたのかどうかは不明ですが、杉本氏の生家から東にいった大阪梅田の東端、扇町公園には、かつて大阪プール(現在は港区に移転)がありましたが、ここに設置された競泳飛び込み台には、今では一般的になっている背泳の為の持ち手がついています。伝承によれば、これが世界最初の背泳の持ち手とも言われており、水の都である大阪。その中でも杉本氏の生誕地である梅田を日本水泳の発信地にしようという思いがあられたのではという気もしてまいります。

そうした日本における近代水泳の基礎を固められたので、杉本氏は「日本近代水泳の父」ともいえる方でした。

しかし、とてもシャイな性格であられたそうで、顕彰などでお名前が出る事をあまり好まれず、現代に至るまでその顕彰は殆ど成されていません。

数少ないお名前が残っている場所というのが、母校茨木高校の顕彰碑と、当宮御本社の玉垣のお名前ぐらいとなっています。
今後日本の水泳史の研究が進めば、必ずお名前が高まる方である事は間違いありません。これからの調査研究に期待したいところです。

そんな杉本傅氏が指導に関わった水泳競技。

今回の第33回オリンピック競技大会 パリ大会では、
団長の金子日出澄氏、総監督の村松さやか氏をはじめ、
梅原孝之監督が率いる競泳選手27名、
安田千万樹ヘッドコーチが率いる水泳飛び込み5名、
塩田義法ヘッドコーチが率いる水球選手13名
中島貴子 ヘッドコーチが率いるAS選手9名
吉田龍平コーチが率いるOWS選手2名

また8月28日からの
第17回パラリンピック パリ大会では
上垣匠監督が率いる競泳選手22名

の方々が精魂込めて競技に臨まれます。
選手の皆様には悔いのない全力競技をと祈念する思いです。

そして、今日のトビウオジャパンの原点になった、杉本傅氏の功績も忘れずにいたいものです。



   


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令和六年(2024) 遣梅式

2024年07月25日 | 日記

令和6年(2024)7月24日。本年も茶屋町の御旅社にて、遣梅式(けんばいしき)の御儀滞りなくお納め申し上げました。

この神事は、大阪天満宮の天神祭と、当宮との間で行われる特殊神事です。

天神祭とは、日本三大祭りの一つに数えられ、大阪天満宮にお祀りされている天神さまの御神霊が、鳳輦やお神輿に遷られ、氏子崇敬者皆さんで賑やかに陸渡御、船渡御という渡御列を組んで、氏地を巡行される祭礼です。

その中で最も重要な神事が「神霊移御の儀」という神事で、本殿から鳳輦という神さまの乗り物まで、天神さまの御神霊をお遷しする儀式です。

この際に、天神さまの依代として用いられるのが、梅ケ枝(梅の瑞枝とも)で、その枝に天神さまの御神霊が宿られ、本殿から鳳輦まで乗り移られます。

そしてその梅ケ枝は、当宮の紅梅の枝を用いるのが習わしとなっています。

当宮の紅梅は由緒によれば、天神さまこと菅原道真公が、無実の罪で京都から大宰府へと左遷される途次、ここ梅田で満開に咲いていた紅梅に目を留められ、それを一時見ていかれたいと立ち寄られ、その際に即席の座席として、船と陸を繋ぐ「とも綱」を円く円座状にして敷いた事から当宮の社号「綱敷」の名もあります。 そして道真公のご覧になられた紅梅は後に「梅塚」という名前となり、当宮関係者が代々大切に守り伝えて来ました。

一説には、この梅は梅田の梅の字の由来にもなったといわれ、古くは古墳時代の仁徳天皇さまの御代に讃えられた「難波津に咲くやこの花」の梅も当宮の梅といわれており、天神さまの所縁の梅である事はもちろん、大阪の歴史においても、また和歌の歴史においても非常に重要な梅です。

そうした霊験あらたかなる梅である事から、天神祭において御神霊にお遷り頂くのに相応しい梅として、古くから大阪天満宮より神霊移御の儀に使わさせて頂きたいとの申し出を受けて、当宮が授与して参りました。

神事自体の歴史も古く、江戸時代まで行われていたようですが、幕末の動乱で神事が行えなくなった事から途絶し、戦災などで史料類の多くも焼失、そのまま140年あまりが経過していましたが、平成22年(2010)に当宮と大阪天満宮との両神社で史料が発見された事から、古儀復興の気運が高まり、コロナ禍による中止などもありましたが、今回で古儀復興から14回目になります。 なお遣梅式(けんばいしき)の名は古儀復興時に考案され、梅の枝を遣わす神事という意味です。

本年も、西天満小学校に通う児童の中から選ばれた神童さんが、恭しく当宮に参拝の上、しっかりと梅ケ枝を拝受致しました。 

今日25日は天神祭の本宮です。 大阪天満宮におかれては、陸渡御、船渡御、そして花火と、これから最高潮を迎えますが、神童の持つ梅ヶ枝にもぜひご注目下さい。



 


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大阪駅 150年

2024年05月11日 | 日記

本日、令和6年(2024)05月11日。大阪駅が開業してからちょうど150年となりました。

当時、近代化を急ぐ明治政府は、明治5年(1872)に新橋駅ー横浜駅間に日本初の鉄道を敷設した事に続いて、大阪ー神戸間の鉄道敷設を計画。

当初は貨物輸送なども考えて米市場のある、大阪市北区堂島あたりに頭端式の駅を計画していましたが、地価が高いのに加え、建設資材運輸の問題、また将来的に東京まで繋ぐ東海道線への接続を考えると立地的に不便でした。

そこで検討の結果、東西に抜ける事が出来る、現在のような通過式が採用される事となり、堂島の東北、当時泥沼地で田畑しか無く、地価も激安だった梅田が好適地として選ばれ、現在のJPタワー梅田あたりに建てられる事が決まりました。

しかし当時の日本には、鉄道建設のノウハウはありませんでしたので、いわゆるお雇い外国人である、英国人技士ジョン・イングランド氏の指導を仰いで、建設に着手。

英国ダーリントン社製の双頭のレールが敷設され、駅舎の骨組みは木造でしたが、壁面は赤レンガで飾られ(色合いのせいなのか当時はこのレンガの事を麭麺瓦(パン瓦)と呼んだそうです)、建物の角には隅石が配され、
このように、これまでの日本に無かった近世フランス調ゴシック様式の西洋建築が突然、田畑しかない場所に出現した事は、当時の梅田の人々には相当な衝撃であったようです。今なら田畑しかないところに宇宙ロケットの発射基地が出来るようなものだったのかもしれません。

こうして大阪初となる技術がどんどん注ぎ込まれて建設された大阪駅は、明治7年(1874)05月11日に開業しました。

開業当初は英国人が建設始動した事もあってか、英語で「梅田ステーション」と呼ばれていましたが、英語に不慣れな大阪人は「梅田すてんしょ」と訛って呼んでいました。

開業時点では、大阪―神戸間には、大阪、神崎、西宮、住吉、三宮、神戸の6駅だけで、列車は1日8本。だいたい乗降客数は1000人ほどだったようです。
運賃は、上等が1円、中等が70銭、下等は40銭とあり、明治の円相場は変動が大きいですが、『米価三代暦』にある明治7年の玄米一俵(60kg)の価格2.91円をもとに、令和5年の総務省発表、玄米60kgの平均小売価格が約28,404円なので、大雑把に現代の価値に直すと、上等は約1万円、中等7千円、下等は2千円ぐらいになります。今は460円ですから、約21倍も高いですね。(現代と明治7年では物価も違いますし、当時の大阪の経済状況はめちゃくちゃでしたので、一概にも言えませんのであくまでも推計です)

このように旅客は高額でしたので、当時は旅客よりも貨物輸送の比重が大きく、明治11年には、堂島川から運河が開削され、駅の南西に入堀も設けられました。これによって水運も図られる駅となっており、明治中頃には、缶詰を作る製缶工場等が駅の北側にはあったようです。

しかし、開業当時の大阪駅は周辺に何も無く、また梅田墓地というお墓がすぐ隣地にあり、開業後も暫くは卒塔婆や墓石が立ち並んでいたそうで、当時、十代半ばの新人駅員が、夜あまりにも怖くて姉に迎えに来てもらったという逸話も伝わっています。

その暗さと怖さのせいなのか、実は大阪で最初に電灯が点いたのは大阪駅前で、明治16年(1883)11月18日に、大阪駅前の火の見櫓にアーク灯が設置されています。

こうした新しい技術の粋が集められた大阪駅でしたので、新しいもん好きの大阪人には格好の名所となり、数多くの絵画に描かれ、中にはお弁当持参で機関車に乗るだけの、いわゆる「乗り鉄」も早い段階からいたようです。

このお弁当持参の旅客に目をつけて、明治21年(1888)には、水了軒というお店が駅弁業を始めています。ちなみにこの年、神戸ー東京間が東海道線で結ばれた年でもありました。この水了軒さんは現在は仕出し中心となられていますが、いまも営業されています。

ちなみに、この大阪駅の初代駅長である武藤正明氏は、奥様が高杉タケさんといい、なんと高杉晋作の妹さんであり、この武藤駅長とは義理の兄弟でもありました。初代大阪駅は明治の草創期という事もあり、こうした逸話が色々とあります。

明治34年(1901)7月に大阪市電の乗り入れ計画や、旅客輸送量の増大、駅前広場を確保する為、駅の位置を東にずらし、当宮の氏地であった北野松本町付近に二代目大阪駅が建てられ、そして現在に至っています。
ちょうどその頃ぐらいから、梅田すてんしょとは呼ばれず、ただ単に大阪駅と呼ばれるようになっていったようです。
ちなみに、「私鉄は梅田駅なのに、なぜ国鉄は大阪駅なのか」という論争は昔からありましたが、一応、現在のところJR西日本さんの公式見解としては、大阪の玄関口であるので大阪駅と呼称しているとされています。

梅田は、近世まで田畑しか無い地でしたが、この大阪駅の登場で、鉄の時代に入り、そして今では大阪の玄関口として1日あたり、約70万人の乗降客数を誇る、西日本最大の駅となっています。


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玉姫稲荷神社の例祭と御朱印

2024年05月01日 | 日記

令和5年から授与を開始しました、茶屋町の綱敷天神社御旅社の境内末社、玉姫稲荷神社の御朱印を、好評につき本年も5月3~5日限定で授与致します。

そもそも玉姫稲荷神社(玉姫社)は、女性守護の神様といわれ、梅田に住まう女性、働く女性、縁ある女性方を中心に尊崇され、また芸能上達、良縁、商売繁盛、そして子供たちを疫病からお守り下さる神様として信仰されています。

その例祭日は5月5日で、通称「玉姫祭」ともいわれ、午前11時からの神事に加え、同日には神牛像への花飾りを施す倣いがあり、これは江戸時代に梅田で行われていた「梅田の牛の薮入り」という行事の名残と考えられており、梅田の民俗風習上、重要な神事でもあります。

授与致します御朱印には、社号の揮毫に加え、
大阪を中心に活躍するイラストレーター「舛田善信さん」の手による当宮ゆかりのお花の絵と、
女性に向けた広告で定評のあるグラフィックデザイナーの「釣井裕紀さん」の手による玉をイメージした印面となっており、大変華やかな御朱印です。


期日 5月3日~5日 (3日間のみ) ※6日はありません

時間 午後1時から午後5時まで

場所 大阪市北区茶屋町12番5号 綱敷天神社御旅社内

授与枚数 100枚
      5月3日 上限25枚
      5月4日 上限25枚
      5月5日 上限50枚 

初穂料 1枚500円 (書き置きのみ)

 

注意事項

  ・御本社、御旅社、歯神社の御朱印も
   通常通り授与します(待ち時間発生します)
  ・5月6日は玉姫社の御朱印の授与はありません。
  ・授与は先着順です
  ・事前の取り置きは出来ません
  ・お一人につき一枚の授与です
  ・授与は3日間のみです
  ・転売禁止です

その他

  ・玉姫社の例祭は5月5日11時からです。ご参列自由です。
  ・玉姫社、神牛像へのお花のお供えは、花束状のものですと
   暑さで萎れますので、小さなアレンジメントなど鉢状のものか、
   設置してあります榊立てに差し込む程度のものでお願いします。
 
  



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