綱敷天神社 禰宜日誌

大阪梅田の綱敷天神社のご案内ブログです

平成31年 菜種守の授与

2019年02月24日 | ノンジャンル
本年も例年通り、イライラ封じの「菜種守(なだねまもり)」の授与を明日、2月25日から4月上旬までの菜の花の時期限定で、茶屋町の御旅社で授与致します。

この春は平成の御代から、新しき御代への御代替わりとなる節目の春です。

新しき御代が、春の和らぎの如く、穏やかな年まわりとなるよう、祈念致し授与申し上げます。



●授与についてのご案内●

初穂料:700円

昨今、社務多忙の為、平日は留守がちでございますが、土日の13:00~17:00であれば概ね授与所に神職か巫女が詰めております。

なお、菜種守は御旅社限定の御守ですので、御本社では授与しておりません。



●菜種守について●

茶屋町はかつて一面の菜の花畑で、俳人の与謝蕪村が「菜の花や月は東に日は西に」と詠むほどに菜の花の名所でした。

また当宮の御祭神、菅原道真公も菜の花にはご縁があり、道眞公が天神さまとなられた後、京都では落雷や災害が続き、天神さまの祟りと恐れられましたが、道真公の御命日である旧暦2月25日頃に咲く菜の花の風情に、天神さまの荒ぶる御心が年を重ねるごとに次第に宥ね(菜種)られて、学徳の神さまと成られたという信仰があり、この菜種守はそういったトゲトゲしい心を宥ね、開運を祈念する御守です。

御守の中には御神符と共に、茶屋町産の菜種が封入されております。かつて梅田で菜種を栽培していた頃は、その出来の良し悪しを鞘を振って確かめ、その音が良ければ笑顔になったという言い伝えもあり、この菜種守もそういった故事に倣い、菜種の音が鳴るようになっています。

また御守袋の織り柄が近世までの梅田の風景になっており、まさに梅田・茶屋町ならではの御守です。






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兎我野のイノシシ

2019年02月05日 | ノンジャンル
本日、平成31年2月5日は旧暦1月1日です。中国では春節という事で、休暇を日本で過ごされる中国人観光客の方を梅田でも多く見かけます。

さてそんな本年は亥年ですが、日本で動物としてのイノシシの最古の記録をたずねますと、実は梅田にいたイノシシが、日本史上最古の可能性が高いのです。

日本最古の書物『古事記』によれば、猪の文字が最初に出てくるのは、大國主神が兄弟である八十神に騙されて、赤く焼けた巨石を赤い猪と騙されて、それを受け止めてしまって焼け殺されかけた時が文字としては最初です。
しかしこれは赤い猪に見える「焼けた石」ですので、猪ではありません。

次に見えるのは第八代 孝元天皇の皇子である少名日子建猪心命の名前の中の1字ですが、こちらは猪とは関係なく、音の当て字と思われます。

その次に見えるのは、倭健命の伊吹山での白猪の祟りの段ですが、この白猪は神の使者とされていますので、動物とみるべきでは無いでしょう。

そして次に見えるのが、倭健命の孫にあたる応神天皇が生まれたばかりの頃。異母兄である香坂王、忍熊王、の二皇子が応神天皇を亡き者にしようと悪企みをし、その企みの成否を占う為に、「トガノ(斗賀野)」で、良い獲物が獲れたら大吉、ダメなら凶という事で狩りをしたところ、どこからともなく赤い怒った猪が出てきて、香坂王を食い殺したという記述。


これが日本史上、最古の動物としてのイノシシの記述です。


このトガノの場所がどこだったのか。諸説ありますが、大きくわけて2つあり、1つは神戸説(兵庫区夢野町や都賀川周辺)、もう1つが、ここ梅田の兎我野町説です。

その中でも、筆者としましては梅田のトガノ説を強く推しております。地元という事もありますが、史料的見地などから考えても梅田の可能性が高く、主なものを上げただけでも、

①応神天皇の次代の仁徳天皇の御代にもトガノの地が出てきており、そのトガノの地はいまの梅田でほぼ間違いない事から、同年代で同じ地名を使っていれば、同じ場所と考えるのが自然。

②江戸時代の暁鐘成の『摂津名所図会大成』で、湊川(夢野町)をトガノとしているのは「むかしの杜撰」であると言い切っている点。

③地勢的に夢野町周辺は高低差のある崖地であり、狩りには不向きな土地である点。(源義経の鵯越えもすぐ近くであり、かなり落差のある崖が多い)

④近年、梅田の埋蔵文化財の調査で、古墳時代に人が生活していた形跡が見つかっており、応神天皇の御代には梅田はすでに人が住んでいた事がわかっている。また、近くの森ノ宮遺跡からイノシシの骨も出ており、イノシシもいたのは間違いない点。

⑤日本書紀には香坂王らが陵墓築造と偽って陣地を明石に築いたという記述があり、これが夢野町説の根幹であるが、この陣地築造の時期と、軍を起こしたタイミングは違う可能性があり、日本書紀にも「時、」とわざわざ時期が違いますという事を示す言葉が入れられており、当時のニ皇子の本拠地が奈良であった事を考えると、陣地は予め明石に築き、いよいよ決起する「時」、奈良から大阪まで出て、梅田のトガノで占いをして、それが大凶だったので、南の住吉に退却したという方が、流れとしては自然な点。(明石から一気に住吉に退却では距離が開きすぎる)

⑥都賀川周辺をトガノと比定している文献もあるが、都賀川の名の由来は都賀庄の荘園名からで、野の字は無かった。野の字が出てきたのは村の合併で生まれた都賀野村が明治22年になって出来た時からであり、比較的新しい。また夢野町も仁徳天皇の「菟餓野の鹿」に由来すると考えられる摂津国風土記の「夢野の鹿」から取られた地名であるが、この摂津国風土記の中では「トガノ」と「夢野」は明確に区別されており、トガノ≠夢野である事は間違いない。 梅田の兎我野町は江戸時代初期の古地図「石山合戦配陣図」にもトガノの転訛とみられる「トコノオ」という地名が既に見られるなど、史料の観点からも梅田の方が古い点。

などなどの理由から、斗賀野は梅田であったという可能性が高いといえます。

このイノシシ年。ぜひ梅田はイノシシの記録上最古の地の可能性が高いという事を一つ覚えていただけたら幸いでございます。 

(なおこれらは全て筆者の独断と偏見による推測であり、綱敷天神社の公式見解ではありません)

写真は兎我野町に眠る江戸時代の大阪の画家、森狙仙の「猪図屏風」
(江戸時代(18~19世紀) 紙本墨画淡彩 株式会社千總蔵)



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