goo blog サービス終了のお知らせ 

綱敷天神社 禰宜日誌

大阪梅田の綱敷天神社のご案内ブログです

新田ふとん店さまご奉納の神牛飾り綱、よだれ掛け

2023年12月16日 | 日記

今年も残り半月ほどとなりました。

この時期になりますと、当宮の氏子さんで、神山町の御本社から北へ50mほどいったところにあります「
#新田ふとん店」さまから、毎年、神牛像の為の「紅白の飾り綱」と、「よだれ掛け」をご奉納頂いております。

これだけ立派な飾り綱を締めている神牛像は全国的にもあまり無く、新田ふとん店の店主さまの敬神の真心を表しているかのようです。

本年も変わらぬ温かきご篤志、感謝申し上げます。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

亥の子餅と梅田の兎我野

2023年11月13日 | 日記
今日は旧暦10月初亥の日です。
古来この日には和菓子の「亥の子餅」を食べる習わしがあります。


なぜこの日に亥の子餅を食べるのかというと、『古事記』によれば、第15代天皇である、応神天皇さまがお生まれになられた時、異母兄の麛坂王・忍熊王は、幼い応神天皇さまを亡き者にしようと謀り、その前にその企みが成功するか否かの神意を占う為、兎我野(斗賀野(記)・菟餓野(紀))に狩りに出て、良き獲物が穫れたら吉、獲れなかったら凶と定めて狩りをしました。これを「兎我野の誓約(うけい)」といいます。


ところが、その狩りの最中、どこからか怒った赤い猪が出てきて、麛坂王を食い殺してしまい、結果として大凶。後に忍熊王も討ち倒され、応神天皇さまは後年、無事天皇の位に就かれます。


無事に天皇の位に就けたのは兎我野のイノシシのお陰と思われた応神天皇さまは、その神恩を忘れぬ為に、亥の月(旧暦10月)亥の日に、イノシシの形(ウリ坊)に似せた亥の子餅を食べる事を吉例としたといわれ、既に平安時代には年中行事とされ、源氏物語にも登場するなど日本でも有数の古い歴史をもつ和菓子です。


実際には応神天皇さまの説話と亥の子餅との関係を記録した書物は悠遠の時代であった為か残っていませんが、宇多天皇の御代、つまり平安時代初期頃から宮中行事となったとみられ、近世においては、大阪の能勢から宮中に亥の子餅が献上されており、この能勢の地では応神天皇との伝承が語り継がれています。


その亥の子餅のそもそもの伝承の発端となった「兎我野の誓約」の地とは、当宮の氏地である「兎我野町」がその有力地と考えられており、いうなれば、亥の子餅は梅田とも所縁が大変深いお菓子といえます。


またこの初亥の日はコタツを出す日でもあります。そもそも亥の子餅は神恩感謝と、無病息災を念じて食べていたと考えられており、一気に冷え込みが強くなるこの時期、亥の子餅とコタツで心身ともに健やかに暖かくお過ごし下さいませ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「難波の堀江」開削1700年

2023年11月13日 | 日記

今日、令和5年11月13日は旧暦の10月1日です。 実は大阪にとって、また日本の土木史にとって、重要な河川「難波の堀江」が開削されて1700年という一つの大きな節目となる月です。
 
 
そもそも「難波の堀江」とは、古墳時代の天皇陛下であらせられる仁徳天皇さまの御代に開削された、大阪の人工の放水路の事です。
 
 
原文
『日本書紀』 仁徳天皇11年(西暦323年)
「冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江。」

口語訳
仁徳天皇11年の冬10月に、高津宮(現在の大阪城周辺か)の北の原っぱを掘って、上町台地東岸に沿って、南から流れ込んでくる大和川水系の川の水を、西の大阪湾方向へ流した。その放水路を堀江と言った。
 
 
つまり、西暦323年に出来た「難波の堀江」は、今日、西暦2023年旧暦10月1日で、ちょうど開削1700年の節目となります。
 
 
この「難波の堀江」の位置については、今も諸説入り乱れていますが、考古学上、また地形上、現在の中之島の東から、大阪城北端にかけて流れる大川(旧淀川)がそれと考えられており、規模から考えても古墳時代、最大級の大土木工事であった事が推測されています。
 
 
その「難波の堀江」は一体何の為に掘ったのかというと、前述の大和川水系の水、また淀川水系の水が、古代ではちょうど現在の大阪城の北東あたりで溜まり込む地形(河内湖)となっており、度々当時の皇居である高津宮周辺が水害に遭っていたと考えられています。 その水害を防ぐ為に、現在の上町台地北端である、大阪城の北側を東西に掘って、放水路とした。という説が有力です。
 
 
この「難波の堀江」という放水路が出来た事で、古代の大阪市北区、中央区周辺は水害が減って、人々の住める土地となっていったようです。


なお、日本書紀の暦通りに数えれば1700年ですが、上古の天皇陛下の年譜については、伝説的な部分も多々あるので、現代の暦法では無理のある部分もあります。しかし、仁徳天皇さまの父である応神天皇さま以降の御代については、『宋書』の倭の五王との比定から考えると、かなり近しい年代であったと考えられ、少なくとも4,5世紀に、「難波の堀江」の大土木事業が行われていた事はほぼ間違いないと考えられています。
 
 
この難波の堀江は、当初は放水路として開削されたと見られていますが、後に、水上運輸の重要地点ともなり、「難波津」という港湾が形作られます。その難波津の近くに咲いていた梅の花を詠んだ歌に
 
「難波津に 咲くやこの花 冬籠り 今を春べと 咲くやこの花」
 
という歌があり、この和歌は実在が確認できる和歌としては、最も古い和歌で、和歌の父ともいわれ、近世までは手習いの最初に習う和歌とされ、日本の和歌の原点となっています。
 
 
また、難波の堀江の開削から239年後の、欽明天皇13年(552)10月に、蘇我稲目が祀っていた仏像を、物部尾輿がこの難波堀江に投棄し、さらにそれらの息子の世代にも同様の事があり、敏達天皇14年(585)3月、蘇我馬子が祀っていた仏像を、物部守屋が焼いて、同じく難波の堀江に投棄しています。この仏像を後に、信濃の本田善光が拾って郷里に持ち帰り、お祀りする為に建てたお寺が今の善光寺です。
 
 
更に、難波の堀江の開削から、578年後の、昌泰4年(901)。当宮の御祭神の菅原道真公が無実の罪で京都から九州大宰府に左遷される途次、この難波津の和歌の事に思いを致されて、当宮の紅梅をご覧になられた故事から、梅田の梅の字も生まれたと考えられています。
 

このように、日本の和歌、仏教、梅田に大きな影響を与えた「難波の堀江」ですが、その後も様々な人々が足跡を残し、平安時代から鎌倉時代にかけては渡辺党の根拠地、室町時代には大坂本願寺、さらに豊臣秀吉の直轄となり、徳川時代以降は「天下の台所」の拠点として蔵屋敷の水運の中心となり、現代に至っても、八軒家浜という名で、水運を担っており、さらに、昨今では上町台地東側の氾濫防止の為の地下の放水路の出口にも繋げられており、1700年前の古代から、現代に至るまで、活用されている事を考えると、仁徳天皇の御代の人々のお陰で支えられているんだなという事を強く感じます。
 
ちなみに今日は、亥の月亥の日で、亥の子餅を食べる習いのある日です。この亥の子餅の風習も、当宮氏地の兎我野町であった「兎我野の誓約」という説話が所以で、「難波の堀江」を開削した仁徳天皇さまの父、応神天皇さまの故事に由来します。実は当宮では戦前まで応神天皇さまをお祀りした末社がありましたが、戦災で焼失し、現在は御本殿にて配祀する形となっておりますが、応神天皇さま、仁徳天皇さまとも縁深き神社でもあります。

応神天皇さま、仁徳天皇さまの親子二代にわたり、大阪の歴史の基礎を築かれ、その上に立つ現代の私達。神々の恵みと先人の恩への感謝を忘れず、次の時代へ佳き歴史を積み重ねていきたいものです。

古代大阪の地形図

難波の堀江推定地(現在の大川)

 難波津の想像図  

難波の堀江で仏像を見つけた本田善光

現在の八軒家浜(大川南岸) 

現在の大川(難波堀江推定地・令和5年10月撮影)

現在の大川にかかる噴水(令和5年10月撮影)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

令和五年 秋祭

2023年10月15日 | 日記

10月15日は当宮御本社の秋祭でした。

この日は御神前に「ゆりわ」という器に団子を盛ってお供えする習いがあります。

これは1122年前、菅原道眞公が当地に逗留時に、梅田の民が献上した故事にちなむ神饌です。

秋の風も心地よく、今年も滞り無くお納め致しました。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

令和五年(2023) 遣梅式

2023年07月25日 | 日記

令和5年7月24日。本年も茶屋町の御旅社にて、遣梅式(けんばいしき)の御儀滞りなくお納め申し上げました。

この神事は、大阪天満宮の天神祭と、当宮との間で行われる特殊神事です。

天神祭は日本三大祭りの一つに数えられ、大阪天満宮にお祀りされる天神さまが、鳳輦やお神輿に遷られ、氏子崇敬者皆さんで賑やかに陸渡御、船渡御という渡御列を組んで、氏地を巡行される祭礼です。

その中で最も重要な神事が「神霊移御の儀」という神事で、本殿から鳳輦という神さまの乗り物まで、天神さまの御神霊をお遷しする儀式です。

この際に、天神さまの依代として用いられるのが、梅ケ枝(梅の瑞枝とも)で、その枝に天神さまの御神霊が宿られ、本殿から鳳輦まで乗り移られます。

そしてその梅ケ枝は、当宮の紅梅の枝を用いるのが習わしとなっています。

当宮の紅梅は由緒によれば、天神さまこと菅原道真公が、無実の罪で京都から大宰府へと左遷される途次、ここ梅田で満開に咲いていた紅梅に目を留められ、それを一時見ていかれたいと立ち寄られ、その際に即席の座席として、船と陸を繋ぐ「とも綱」を円く円座状にして敷いた事から当宮の社号「綱敷」の名もあります。 そして道真公のご覧になられた紅梅は後に「梅塚」という名前となり、当宮関係者が代々大切に守り伝えて来ました。

一説には、この梅は梅田の梅の字の由来にもなったといわれ、古くは古墳時代の仁徳天皇さまの御代に讃えられた「難波津に咲くやこの花」の梅も当宮の梅といわれており、天神さまの所縁の梅である事はもちろん、大阪の歴史においても、また和歌の歴史においても非常に重要な梅です。

そうした霊験あらたかなる梅である事から、天神祭において御神霊にお遷り頂くのに相応しい梅として、古くから大阪天満宮より神霊移御の儀に使わさせて頂きたいとの申し出を受けて、当宮が授与して参りました。

神事自体の歴史も古く、江戸時代まで行われていたようですが、幕末の動乱で神事が行えなくなった事から途絶し、戦災などで史料類の多くも焼失、そのまま140年あまりが経過していましたが、平成22年(2010)に当宮と大阪天満宮との両神社で史料が発見された事から、古儀復興の気運が高まり、コロナ禍の中止や略儀化などもありましたが、本年は本式での神事となり、古儀復興から13回目になります。 なお遣梅式の名は古儀復興時に考案され、梅の枝を遣わす神事という意味です。

本年も、西天満小学校に通う児童の中から選ばれた神童さんが、恭しく当宮に参拝の上、しっかりと梅ケ枝を拝受致しました。

今日25日は、実質4年ぶりとなる規制の無い天神祭です。 大阪天満宮におかれては、陸渡御、船渡御、そして花火と、これから最高潮を迎えますが、神童の持つ梅ヶ枝にもぜひご注目下さい。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歯神社例祭 と ブラタモリ

2023年06月05日 | 日記
季節外れの台風2号の影響が心配される中ではありましたが、本年も無事に、当宮末社である歯神社の例祭(歯神祭)、滞る事なくお納め申し上げました。

本年は日曜日だった事もあってか、全国各地からお参りの方がお越しになられていたようで、中には遠く北海道からお参りの方もおられたようです。皆様ご遠路ようこそお参りでした。

また、本年も変わらぬご崇敬をお寄せ頂き、たくさんの歯ブラシをご奉納下さいました、全日本ブラシ工業協同組合さま、株式会社サンギさまには、厚く御礼申し上げる次第です。

ところで、今度の土曜日、6月10日19:30より、NHK「ブラタモリ」にて、梅田の特集があり、その中で歯神社が登場し、歯神社の由来など含めてご紹介頂くようです。

ぜひご覧下さいませ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

拝殿の鈴緒、手水舎の柄杓 元通りに

2023年05月08日 | 日記

新型コロナウイルスが感染症対策2類から5類へと移行した事から、当宮でも感染防止対策として撤去しておりました、拝殿の鈴緒、手水舎の柄杓を、御本社、御旅社ともに本日8日の朝から元に戻しました。 

また茶屋町の御旅社では、今回鈴緒の房を全て新調しました。

3年ぶりとなる鈴の音。ぜひお参り頂いて大神さまにお届け下さい。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玉姫稲荷神社の御朱印授与のご案内

2023年05月01日 | 日記

茶屋町の当宮御旅社の境内末社、玉姫稲荷神社(玉姫社)は5月5日が例祭日ですが、本年は令和5年5月5日と5が三つ並びの吉数である事から、これを言祝ぎ、またコロナ禍の本格終息への祈りを込めて、限定御朱印をこの度授与する事となりました。玉姫社の御朱印の授与は今回が初めての事となります。

玉姫社は、女性守護の神様といわれ、梅田に住まう女性、働く女性、縁ある女性方を中心に尊崇され、また芸能上達、良縁、商売繁盛、そして子供たちを疫病からお守り下さる神様として信仰されています。

5月5日の例祭は「玉姫祭」ともいわれ、午前11時からの神事に加え、同日には神牛像への花飾りを施す倣いがあり、これは江戸時代に梅田で行われていた「梅田の牛の薮入り」という行事の名残と考えられており、梅田の民俗風習上、重要な神事でもあります。

この度、授与致します御朱印には、社号の揮毫に加え、
大阪を中心に活躍するイラストレーター「舛田善信さん」の手による当宮ゆかりのお花の絵と、
女性に向けた広告で定評のあるグラフィックデザイナーの「釣井裕紀さん」の手による玉をイメージした印面となっており、大変華やかな御朱印です。

これまで玉姫社の御朱印は、一般に授与した事がなく、今回が初めての授与となります。3日間だけの、枚数限定となりますが、この慶節にぜひお受け下さい。

 

期日 令和5年(2023) 5月3日~5日 (3日間)

時間 午後1時から午後5時

場所 大阪市北区茶屋町12番5号 綱敷天神社御旅社内

授与枚数 120枚
      5月3日 上限30枚
      5月4日 上限30枚
      5月5日 上限60枚 

初穂料 1枚500円 (書き置きのみ)

 

注意事項

  ・御本社、御旅社、歯神社の御朱印は
   通常通り授与します(待ち時間発生します)
  ・授与は先着順です
  ・事前の取り置きは出来ません
  ・お一人につき一枚の授与です
  ・授与は三日間のみです
  ・転売禁止です

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道眞公の冤罪が晴れて1100年

2023年04月20日 | 日記

今日4月20日は当宮の御祭神、菅原道眞公の無実の罪が晴れた日です。
そしてその日から今日で丸々1100年となりました。
道眞公は、まだお若い醍醐天皇を支えて右大臣として国政を担っておられましたが、信任が厚い事を気に入らない藤原時平らによって、昌泰四年(延喜元年:901)正月廿五日に無実の罪を着せられ、左遷職である大宰員外帥に降格。京都から遠く九州太宰府へと流され、延喜三年(903)2月25日。その地で薨去されてしまわれたといわれています。
その直後から、京都をはじめ全国で天変地異が相次ぎ、とどめが、皇太子であった保明親王が23歳の若さで薨御(皇太子が亡くなる事)になられ、『日本紀略』には「天下庶人 悲泣せざるは無し。その声、雷のごとし。世を挙げて言う、菅帥の霊魂宿忿のなすところなりと」と、数々の天災や悲劇は、無実の罪で流され、無念の内に亡くなられた道眞公の祟として恐れました。
こうした人々の声が大きかった事もあってか、延喜二十三年(延長元年:923)4月20日に、道眞公を左遷した時の詔書などを焼き捨て、元の右大臣に復し、更に正二位を追贈しました。
つまり今日は、国家が道眞公の御神霊の存在を認めた日ともいえます。
そして、今日に至ってはその日から1100年の慶節となり、当宮では朝一番に言祝ぎの神事を執り行い、その後、天神さまの総本社の京都・北野天満宮にお参りにまいりました。北野天満宮では「明祭(あけのまつり)」という神事が行われ、無実の罪が晴れた日をお喜び申し上げておられます。
なお、道眞公は、天災をもたらす「祟り神」として崇められた事に始まるといわれますが、これは庶民が道眞公が無実であると信じて疑わなかった事の裏返しなのではないでしょうか。また讃岐守(現在の香川県知事)時代の仁政など、庶民に寄り添っておられた姿は、貴族同士の派閥争いに終始したあの時代に、庶民にどれほどの清涼感を与えたか、想像に難くないです。 またこの日本国の国語、歴史、詩文、外交、そして雪月花をこよなく愛される姿など、それまで東アジアの端っこでぼんやりとしていた国ぶりが、この道眞公の時代にしっかりと形作られたといえます。
そんな道眞公が貶められる事無く、冤罪が晴れるという日の目を見た。今日の佳き日にふさわしく、京都、大阪ともに素晴らしい青空の一日でした。
写真は御旅社での神事、北野天満宮、『国史大系』第5巻 日本紀略 菅公冤罪消除の段
https://dl.ndl.go.jp/pid/991095





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御旅社 鳥居建立 150年

2023年04月01日 | 日記

茶屋町の当宮御旅社の鳥居ですが、今月で建立からちょうど150年となります。

明治6年(1873)、4月に御旅社の鳥居として、氏地6町の有志から寄進された事が鳥居に石刻されています。

当時の大阪は、銀目廃止令による金融恐慌や、廃藩置県による蔵屋敷システムの崩壊などで経済は大混乱で、本格的に江戸時代の終了を庶民も肌で感じていた時代でした。

この頃、神社界も、上知令などで土地を国に没収され、大変厳しい時代であったようで、当宮御旅社も現在の太融寺の東門の向かい当たりに元々鎮座していましたが、その土地が国に上知されてしまった為、明治五年頃に才田の地(現在の西天満6丁目)に遷座しています。(それから数年後に土地の寄進があり、御旅社は茶屋町に遷座しました)

ですので、この鳥居は才田の地に御旅社があった時代に建立されたものと推測されます。
しかし、かような厳しい時代に、何故こんなに立派な石鳥居が建立出来たのか正直、謎に思うところです。

推測になりますが、当宮の氏子地域である北野村という村は、大坂の役で豊臣方に味方したが為に、江戸時代は苛烈な扱いを受けていたといわれ、辛苦の時代であったようです。 その江戸時代が終わった事で、一気に圧政から解放され、更には、翌年の明治7年に大阪駅が開業する事となっており、それまで鄙びた農村だったところが、大開発の現場に豹変した事で、村としては活気に溢れていた可能性があります。

実は前年の明治6年には、神山町の御本社本殿も建て替えられており、昔の日本人は何事にも「先ず神事」という考えがありましたので、北野村の大開発が始まる前に、先ず村の守り神である当宮を良くしようと考えたのかもしれません。

鳥居に彫り込まれている奉納された方々のお名前を見てみると、面白い事に3文字で書かれているものが殆どです。実はこの時代、庶民はまだ苗字が無く、国民全員、苗字を名乗るようになるのはこの2年後です。ですので、当時は苗字でなく、屋号や略称が中心で、それをそのまま彫り込んでいるという訳です。見てみると、村人に加え、八百屋さん、醤油屋さん、お花屋さん、お風呂屋さん、塩屋さんや、明治、大正の大侠客の野口榮次郎の名前もあり、当時の北野村にどんな人々がいたのかが分かる貴重な史料ともなっています。

それから150年。大阪駅が出来るのも、阪急梅田駅が出来るのも、梅田の街が発展していくのも、ずっと見守り続けている鳥居です。

さて、その鳥居ですが、せっかく150年の慶節を迎えますので、今回、色が褪せてきていた扁額を修理しました。 この扁額は昭和31年(1956)に、御旅社社殿を建て替えた際に新調したもので、田丸会という会の方々から奉納頂いたものです。昭和59年に一度修理しましたが、それから40年近くそのままでしたので、今回きれいに色を入れ直しました。


ぜひ、ご参拝の折には鳥居を見上げて、きれいになった扁額もご覧下さいませ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする