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つらねのため息

写真や少し長い文章を掲載していく予定。

アジェンダセッティング

2005-09-08 00:06:37 | 日本のこと
選挙について書こう、書こうと思っていたのだが、ついつい先延ばしにしているうちに、投票日目前になってしまった。

さて、今回の選挙に至る過程で一番注目に値するのは総理大臣のアジェンダセッティング能力の高さであろう。郵政三事業の問題が財政投融資の問題とのつながりで大きな問題の一つであることは確かにそうかもしれない。しかし、それでもとりあえず黒字である郵政の問題は喫緊の課題ではなかったはずである。
事実、国会ではこれまで年金の問題が重要な政策課題であったのであり、だからこそあの馬鹿らしい未納劇場がくりひろげられたのではなかったか。

そんな郵政問題が衆議院解散を要するほどの重要な国政課題となったのはひとえに小泉総理大臣のライフワークだからという理由以外にない。いわば小泉さんの趣味だからであり、その意味ではかのXjapanを首相が愛好しているのと大差はない。

しかし、なぜ首相がやりたいといっただけでこれだけの問題にまで発展するのか。それはやはり小選挙区制の導入によって、自民党内のパワーバランスが執行部に有利な形で大きくシフトしたからであろう。今回の刺客騒動で明らかになったように、一人しか候補者を立てられない小選挙区では党執行部が候補者選任の最終的な力を持っている。二大政党制に向かいつつある現状では公認を得られずに選挙に臨むことは大変に厳しい選択であろう。かつての「中選挙区制」では無所属で出馬しても三位や四位にもぐりこむことができたが、現在では衆議院議員にとって首相の意思に逆らうことはほぼ確実に失業を意味するようになったのである。

この制度上の構造こそが、首相が「郵政民営化」をごり押ししえた要因であり、郵政問題を構造改革の「本丸」に押し上げた原動力であり、BSE問題で醜態をさらした人間が、偉そうにしていられる理由であろう。

善悪は別として首相のアジェンダセッティング能力は小選挙区制の導入によって飛躍的に増大したといえる。今回の一連の騒動はそのことをまざまざと見せ付けてくれた。

folkeparti

2005-08-17 23:31:29 | 日本のこと
亀井新党の注目の(世間的にはそうでもないか?)党名は『国民新党』になったそうで。

わが研究対象のデンマークにはデンマーク国民党(Dansk Folkeparti)なる極右政党があるし、「国民」という形容詞はまあ保守政党としては無難(?)な選択であろう。しかし「新」なんて言葉がつくと、10年(!)ほど前の新党ブームが思い出される。当時雨後の筍のごとく出てきた「新党」達は、離合集散を繰り返し二大政党に吸収されていった。スタートから既に危うげなこの政党には果たしていかなる命運が待ち受けているのだろうか。

ところでこの国民新党なる党名、英訳するとPeople's New Partyといったところだろうか。これを日本語に再翻訳すれば人民新党、一気に左派政党の観を呈してくる。先ほど出したデンマーク語のFolkepartiにしても社会主義人民党(Socialistisk Folkeparti)なんて政党もあるくらいで、同じFolkepartiを研究者は訳し分けているわけだ。もっとも欧州議会最大会派の中道右派政党は欧州人民党(European People's Party)なので人民と訳せば=左派というわけではないけれども(「ヨーロッパ国民」は存在しないので)。
とにかく、この辺の感覚はいまいちわかりにくい。一度ヨーロッパ系言語を使う人の感覚を訊いてみたいところである。

次の注目は「ムネオ新党」。果たしてどんな党名になるのだろうか。松山千春のセンスが問われるところでもある。

ゲーリングの哄笑

2005-06-01 00:20:54 | 日本のこと
何だか検索に引っかかることが多い様なので5月9日の日記をブログに転載します。

菅直人氏が昭和天皇に戦争責任があると発言したとニュースになっていたが、いまだに昭和天皇に戦争責任がなかったと言う人がいることのほうが理解できない。責任というのは別に悪いことをしたから生じるものではなく、ことの善悪を抜きにして、何らかの行動にはその責任が伴うはずだ。右翼の方から考えればあの戦争は勝敗こそ時の運で負けたとはいえ、アジア解放のための正しい戦争だったはず。その責任が天皇にあるというのは誇りにこそすれ否定するべき代物ではないはずだ。それとも彼らは「大東亜戦争」を戦った功績を天皇から取り上げようというのだろうか。天皇の戦争責任を否定することはそれこそ「靖国の英霊」に申し訳ないことであるように思えるのだけども。

丸山真男の文章の中にゲーリングの哄笑と言う話がある。日本の超国家主義(ultra nationalism)が近代日本において世俗的君主と精神的君主が一体化された天皇という実体のもとで現れ、その結果として内面的自由や自我意識が抑圧されてしまう。そのため日本の権力支配は強い自我意識に基づくものではなく天皇を長とする権威のヒエラルキーによって基礎付けられる。有名な箇所を引用すれば「従ってそうした権威への依存性から放り出され、一箇の人間にかえった時の彼らはなんと弱々しく哀れな存在であることよ。だから戦犯裁判に於て、土屋は青ざめ、古島は泣き、そうしてゲーリングは哄笑する」ということになる。ここではナチス権力者たちが自我を持った責任主体であったことと比較して日本の権力者たちが絶対的な価値である天皇の権威に基づいて行動していたことが言われるわけだが、日本においてさらに問題なのは天皇を中心とした権威の体系が天皇自身の責任に基づくものではなく「万世一系」の天皇家代々の権威に基づいていることがさらに指摘される。天皇から広がる無限の権威の体系は「万世一系」という伝説に基づく限り無限に過去へとつながっているわけだ。(「超国家主義の理論と心理」引用箇所は丸山真男1964『増補版現代政治の思想と行動』未来社p20)
ちなみに「哄笑」とは「大口をあけて声高く笑うこと。大笑い。(広辞苑より)」だそうです。本当かどうかは知らないけど、丸山真男がやたらと難しい文章を書くのは戦時中に軍部の検閲を煙に巻くために使っていたのがくせになったという話しを読んだことがある。
閑話休題。
さらに丸山先生はここから日本ファシズムの矮小性やその無責任の体系へと議論を深めていくわけであるが(「軍国支配者の精神形態」)、いまだに責任という問題から逃れられずにいる我々にとって、丸山真男の議論は古くて新しい問題であるのではないだろうか。

憲法議論

2005-05-06 00:00:00 | 日本のこと
近頃「憲法改正」という言葉がよく聞かれる。保守政治家が「9条はけしからん。日本も軍隊をもちたい」と考えるのは話としては納得できるし、それはそれで一つの首尾一貫した政治的立場というものである。問題は左翼がこの問題をどう考えているかというところである。現在の「憲法改正」論議が9条をかえるための策動であり、だから政治的な戦術として「護憲」を唱えるのはわかる。ただ問題はどうもその先を日本の左翼は考えていなさそうな点にある。少なくとも昨今の社共両党の議論を見る限り、感情論的な護憲論しか聞こえてこない。しかし、何が何でも憲法を守ろうという立場では憲法の持つ理念は守れないように思う。少なくとも本来あるべき護憲とは憲法の条文を一文字たりとも変えさせないという点にあるのではなく、それをいかに生かしていくのかというところにあるはずだ。それができずに徒に憲法を守るといってもそれはただの現状追認にしかならない。「非武装中立」を訴えていた政党が、自衛隊は「違憲合法」なんていうよくわからない話をしてついには日米安保「堅持」とまで言い出したのはその好例だ。結局単に憲法の文字を守ろうとするだけでは解釈改憲に対抗できない。本当に「護憲」を唱えるのなら自衛隊は9条にあわないのだから廃止すると言ってしかるべきであるし、それは9条「改正」と同様に一つの政治的立場であるはずだ。

裁判官とか政治家という頭のいい人が考えると違うのかもしれないが普通に考えれば憲法9条と自衛隊の存在は矛盾する。そして今の法体系の下で考えれば自衛隊はなくすべきである。護憲を言うのであればそこまで言うべきだと思う。それができないのであれば憲法を変えてどこかで折り合いをつけるしかない。党内の複雑な議論をまとめられないだけだろうがその意味では民主党の態度の方がよっぽど真摯である(断っておけばぼくは憲法を変えるのではなく自衛隊をなくすべきだと思っている)。

そもそもちょっと左翼な人間であれば「象徴」とはいえ侵略戦争の象徴でもあり封建制の遺物でもある天皇制を残した現行憲法に「改正」の余地があることは明らかなはずだ。「社会民主主義者」や「共産主義者」が憲法1条をそのままに「護憲」を唱えるのはちゃんちゃらおかしい。感情的な護憲論ではなく、ちゃんと突き詰めた議論をして欲しいものである。