つらねのため息@gooブログ

写真や少し長い文章を掲載していく予定。

『ルポ 電王戦』雑感

2014-06-22 22:29:00 | 将棋
松本博文著『ルポ 電王戦人間 vs. コンピュータの真実』(NHK出版新書、2014年)



プロ棋士と将棋ソフトとの真剣勝負、電王戦。書名の通り、本書はその電王戦のルポルタージュということはできる。しかし、一読しての感想は「看板に偽りあり」である。現在のプロ棋士と将棋ソフトの闘いだけではなく、コンピュータ将棋の発達の歴史やプロ棋界の400年以上にもわたる歴史を織り交ぜることによって、プロ棋士と将棋ソフト、双方の来歴と現在地を描き出し、両者が何を背負って闘い、その闘いがどのような意味を持つものであったかがそこには描かれている。その意味で本書は、(偏見をあえて言わせもらえれば)電王戦というちゃちなショーのルポルタージュにとどまるものではない。

ところで、本書の特徴のひとつは将棋の局面図がひとつも出てこないことである。そのためtwitterなどでは「将棋を知らない人にも分かりやすい」という評をしばしば目にした。しかし、本当にそうだろうか。例えば、駒の動きなどは将棋を知らない人には図があった方がわかりやすいところもあろう。それらをすべて言葉で説明するということは、将棋を知らない人が理解することを妨げてしまわないだろうか。その意味では、本書は将棋をある程度理解できる人、もっといえば電王戦を実際に観戦していた人向けになっているところがある。にもかかわらず、そのことは本書の価値を減じていない。というのもそれは、電王戦を見ていた人が感じたことを著者が深く理解したうえで、それを言葉として表現しその人たちと共有する力を持っているということであるからだ。いわば、それは著者の表現力を表すものであると同時に、それを表現することを可能にしている言葉というものの奥深さでもあるように思われる。

先日、ある編集者の人と酒を飲んでいたときに、本が売れるかどうかの決め手のひとつは著者紹介の欄であるという話を聞いた。なるほど、本書の著者紹介には本書のエッセンスが詰め込まれているように思う。そこにはこうある。

「1973年、山口県生まれ。将棋観戦記者。東京大学将棋部OB。在学中より将棋書籍の編集に従事。同大学法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力し、「青葉」の名で中継記者を務める。日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継にも携わる。本書が初の単著となる。」

著者が「将棋観戦記者」という将棋を「観て」「伝える」という立場から本書を書いていることがわかる。また、後段からは著者が将棋を多くの人に中継するということにもっぱら意を注いできたこともわかる。「東京大学将棋部OB」という点も興味深い。棋力を示す段位が示されていない点、「OB」という表記は、どことなく純粋に将棋を指して楽しむことに、現在の著者はそれほど重きを置いていないように感じさせる。つまり、このプロフィールは将棋を指すことから観ることへの誘いを表しているように読める。また、東大将棋部というプロ棋士の世界とは違う、しかし将棋に常に関わっている人たちの通常あまり注目されることのない人間模様を描き出した点が本書の白眉と言えるが、その点をもこの短い一文は見事に表している。「本書が初の単著となる」の一文も意味なしとは言えない。ややサービス過剰ともいえそうな将棋の知識が披露されているのは、著者の知識量と同時に本書が初の単著であるが故でもあろう。今後の著者の著作にも注目したくなる。

本書のtwitter上での評に、将棋ソフトponanzaの作者「山本一成物語」であるとのものがあった。それが本書のひとつの筋をなしていることは確かであり、それがまた本書の特徴でもあろう。しかし、本書を読んでいて気付くのは電王戦にいたるあらゆる場面に時折顔を出す著者の姿である。著者の取材に基づく作品である以上当然と言えば当然なのだが、それは、本書のひとつの底流をなしているように思われる。しかし、それは「ルポ」という体裁のためか、著者の奥床しさのためか前面に出てくることはない。しかし、本書を読んでいて気付くのは、「将棋を観る」ということに関して、著者が現代におけるキーマンのひとりであるということである。その意味で私は「松本博文物語」を読んでみたい(それは著者による「ちょっと早い自叙伝」でもよいと思う)。

いずれにせよ、本書の主人公はプロ棋士たちとソフト開発者たちである。彼らは言うまでもなく天才だ。しかし、(私のような凡人が言うことではないかもしれないが)天才は決して天賦の才能に満足する人たちではなく、日々の研鑽によってそれを結実させられる人たちのことであろう。芥川龍之介は「天才とはわずかに我々と一歩を隔てたもののことである。ただこの一歩を理解するためには百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ」と述べている。本書はまさにこの超数学の一端を垣間見せてくれるものである。

「セクハラヤジ」考

2014-06-21 00:09:00 | 自治のこと
みんなの党の塩村あやか都議が代表質問中に、女性蔑視のヤジを浴びせられたという。


当然のことながら多くの批判の声が上がっているが、現在のところ、都議会自民党は発言者を特定しない(=処分をしない)意向という。

女性都議へヤジ、抗議1千件 自民、発言者特定せぬ意向:朝日新聞デジタル

都議会自民党に発言者の処分を求める動きもあるようだが、個人的には同調できない。いま、声を挙げている人たちの多くは、恐らくリベラルな考えをもつ人たちで、自民党員ではない人が多いだろうし、自民党に投票したことのない人たちも多いだろう。私的な団体としての自民党は自民党員のものだし、彼らが内部の人間に対してどう処するかは、外部の人間がとやかく言うことではない。

しかし、発言した人間を特定できないと次の選挙で落とそうに落とせない、自民党が過半数を握っている以上、議会の場で明らかにできないという反論もあるだろう。それに対して私はこう考える。「自民党席から聞こえてきた」というのは当事者の多くの一致しているところのようなのだから、特定できない以上、次の選挙で自民党の人に投票しなければよいのだ。自民党が特定しないと言っている以上、いわば今回の野次に対して自民党が連帯責任を負うと言っているのだ。それならば、有権者の側は、それに対応して投票行動をとればよい。政党政治とはそういうものだろうし、自民党が特定しないというのはある種の見識ではないだろうか。
 そしてそれは、都議会にとどまるものではない。上は総裁から末端の党員に至るまで、処分がないのなら離党する(あるいは最低でも今回の野次を批判する)といった行動に移らない限り、全自民党員はこうした野次を容認しているとみなすべきであろう。なのだから、どの選挙においても自民党公認の候補というのはこの種の女性蔑視の考え方をもっている可能性があるということであり、そういう候補には投票しないと有権者が投票行動で示せばよいのだ。

その意味で言えば、私は、今回の野次を議事録にとどめることを提案したい。今回の本会議の議事録に、「自民党席より『…』と叫ぶ者あり」というような形で記録に残しておけばよい。誰がやったかわからずとも、どの政党が責任を負わねばならないかがすぐ分かるように。



ところで、今回の野次は「議会の品位をおとしめる」とか「セクハラ」という問題ではなく、女性蔑視そのものだと私は思う。その意味で上記引用ツィートに賛意を表するけれども、付け加えるならば、これは「都議会議員」を侮辱しその尊厳を傷つける野次なのだ。塩村都議は世田谷区選出の都議であるが、世田谷区民の代表ではなく、東京都の全有権者を代表する都議会の議員だ。その意味で、東京都民は今回の野次が自分たちの代表に対して向けられたものであるということについても問題意識を持つべきなのではないだろうか。

ついでにいえば、「女性蔑視の」野次だけが問題なのではなく「野次」そのものが問題であるということも強調しておきたい。

東京都議会 議員名簿

それにしても、都議会の女性議員比率は20%弱(127人中女性25人)。これを限りなく50%に近づけることがやはり必要なのだろうと思う。

都道府県議会議員に占める女性の割合(pdf)

とくに都道府県議会は女性議員の比率が少なく、少し古いデータだが、今回惨状が露呈した東京都議会の女性議員比率は、実はそれでも全国で一番高い。やはりもっともっと女性議員を増やすべきだと思う。

ジェラルド・グローマー著『瞽女うた』を読む

2014-06-17 01:17:00 | くびき野
ジェラルド・グローマー『瞽女うた』(岩波新書、2014年)



家々を巡り歩き三味線伴奏で歌う盲目の女旅芸人、瞽女。本書の冒頭にある通り、瞽女がいたのは「それほど昔ではなかった」。私の義理の伯父は農家であったその実家に、幼い頃、「瞽女さん」が来ていたという。彼女たちはどのような存在であったのか。そして、彼女たちがいなくなってしまった今、瞽女あるいは「瞽女うた」は歴史の中の「伝統芸能」に過ぎないのだろうか。

本書は中世に被差別者・困窮者であった女性視障者たちが芸能という生活手段を得て、近世社会に広がっていた様を描き出す。瞽女として組織化され、一定の「正統性」を保持した彼女たちは、交通の発達と相まって、芸能を広める役割を果たし、近世の音楽文化に大きく貢献した。

そして、本書はそのような瞽女たちの活動の展開を数少ない資料から描き出すと同時に、瞽女たちを支えた社会、そして彼女たちのレパートリーを読み解くことによって、近世の社会や音楽文化のあり様を描写する。

そこに描き出されているのは、驚くほどに豊穣な近世の音楽文化であり、それを支えた江戸時代の人々の姿である。考えてみれば当たり前のことだが、当時においても音楽の流行があり、人々はそれを演奏者である瞽女に求め、彼女たちもそれに応えた。そこには芸術があり、それを広めるプレーヤーがいて、それを求める聴衆がいた。そこでは瞽女たちはプロの芸人であったのだ。

また、瞽女たちを支える社会が存在したということは、彼女たちの演奏を聴く聴衆が広く存在したということであると同時に、萌芽的なものとはいえ視障者である彼女たちを支える、福祉の機能を地域社会が発揮していたということでもあった。西国を中心に、瞽女への扶持米制度を設けていた藩もあったほか、関東の村々では来訪する瞽女に対して賄い代が設けられ、村費によって賄われていたという。到底満足なものであったとはいえないまでも、江戸時代の村々にそのような地域福祉の萌芽が、しかも自主的なものとして存在していたことは興味深い。

近世に大きく広がった瞽女文化も、明治に入ると近代化の中で組織や既得権を失い衰退していった。しかし、筆者は終章で「瞽女が残したもの」を問う。「音楽産業」により安く「生産」され、素早く「消費」され、難なく「廃棄」される近代のヒット曲と異なり、「瞽女うた」は聴くのに「かなりの努力を聴衆に要求し」、少なくとも理解するためには何回か繰り返し聴かねばならない。すなわち、それは簡単には「消費」されない。また、瞽女たちのレパートリーは、流行が終ったあとでもその旋律が変昌されたり、替え歌を載せられたりして、元の素材が再利用される。すなわち流行った唄は、ただ捨て去り、忘れ去られることはない。

今日でも、残された音源や記録をもとに「瞽女うた」に触れることはできる。しかし、言うまでもなくそれらの唄は、当時から「伝統芸能」であったわけではなく、近世の人たちにとっては最新のヒットソングであった。とするならば、当時の人たちがその唄をどのように聴いていたのかがやはり問われねばならない。すなわち、近世に流行した唄は「消費」され「廃棄」されるものではなく、繰り返し聴かれ、同じような素材が再利用されるといった、聴き手とつくり手の相互反復の中でつくりだされてきたものなのだ。瞽女唄の聴かれ方やそれを支えた社会のあり方、当時の音楽文化全体を見直すことによって、瞽女唄の内包する批判力は解放される。それは「音楽商品」を「消費」している私たちの芸能への接し方を問うている。

岩波書店の本書のページ

「瞽女うた」のいくつかを上記のページから聴くことができる。

高田瞽女の文化を保存・発信する会

その名の通り、新潟県上越市の高田瞽女の文化を保存・発信する活動を行っている会のサイト。

戦前からの電力会社、住友共同電力と電気を自給自足していた村

2014-06-13 00:26:00 | エネルギー
愛媛県新居浜市に日本有数の歴史を誇る電力会社、住友共同電力がある。

会社概要|住友共同電力株式会社

上記ページによると、同社は西条市・新居浜市の住友グループ系企業、住友化学(株)、住友金属鉱山(株)、住友重機械工業(株)など住友系企業10数社を中心に電力・蒸気を供給している会社である。
 同社の歴史は1919(大正8)年、土佐吉野川水力電気株式会社の設立に遡る。どういうわけか電気供給の事業開始は少し遅れたようで、1927年電気供給事業を開始(この間、1923年に日本最古の電力会社、黒部川電力が設立され事業を開始している)、1934年に四国中央電力株式会社に、1943年に現在の住友共同電力株式会社に改称したものの、戦時中の国策統合を潜り抜け、いまに至っている。

主要供給先|住友共同電力株式会社

ところで上記ページには、「電力供給先一覧」が挙げられているが、住友系の企業や四国電力に並んで「新居浜市別子山地区需要家」という記述がある。

別子山エリア(愛媛県新居浜市)|住友共同電力株式会社

同社の発電施設を紹介したこちらのページでは「旧別子山村の森林組合から譲り受けたマイクロ水力発電所」として「別子山発電所」が、また、同じく「旧別子山村の森林組合から譲り受けた小水力発電所」として「小美野発電所」が紹介されている。「小美野発電所」では、「別子ダム下流の銅山川の水を取水し、最大1,000kWの発電を行」っているうえ、「近隣集落への配電線をもち、地域の電源として貴重な水資源を活用してい」るという。

これらの記述から考えると、別子山村では、村の森林組合で自家発電した電気が利用されていて、それが住友共同電力に移管されたということのようである。すなわち、住友共同電力に譲渡されるまで、協同組合による電力の自給自足が実現されていたということではないだろうか。しかも、上記の会社概要によると、「特定電気事業による新居浜市別子山地区への電気供給開始」は2003年となっており、そんなに昔ではない(別子山村は2003年に新居浜市と合併しており、後述のとおり、電気事業の移管は、この合併が契機となっている)。

現行の電気事業制度について - 経済産業省(PDF)

上記リンク先の資料によると、特定電気事業とは、特定のエリア(供給地点)の需要に対して電気を供給する事業のことである。この事業を行う者を特定電気事業者といい、特定電気事業者は、許可を受けた供給地点において、自ら送配電ネットワークを保有し当該供給地点における電力需要に対して供給する義務を負うほか、退出規制の対象となるなど、基本的に一般電気事業者と同様の規制に服しているという。
 なぜ四国電力による一般供給ではなく住友共同電力による特定電気事業という形をとったのかは興味深い。

Wikipediaの別子山村のページに「電気を自給自足していた村」という記述があったので最後にその記述を引用しておく(引用元の記述は2014年6月13日現在)。

――――――以下引用――――――

別子山村では別子山村森林組合(組合長・和田秋廣(=村長)、組合員約100)が村内全域に電気を供給していた。水力発電所によるクリーンエネルギーで、世帯が極めて少ないとはいえ、全国でも珍しい取組であった。しかしながら、編入合併による閉村とともに同組合も解散し、新居浜にある住友グループの電力会社である住友共同電力(本社・新居浜市)に移管した。
黒字体質は保っていたものの、水力発電所の設置は1957年と古く、設備の更新に億単位の資金が必要と見込まれたが、人口が少ないうえ、「村」の消滅で資金面でも後ろ盾がなくなったための処置である。なお、組合では村内唯一のガソリンスタンドも経営していたがこちらは、伊予三島市(現:四国中央市)の業者に譲渡した。

※2014年6月13日19時24分、ご指摘を受けて記事の一部を修正しました。

東北における北海道電灯

2014-06-11 22:59:00 | エネルギー
『東北地方電気事業史』(1960年、東北電力編集・発行)をパラパラと見ていたのだが「第二章 東北7県下電気事業発達史」の「第3節 秋田県の部」に「北海道電灯―大日本電力株式会社」という項目があるのをふと見つけた。「秋田になぜ『北海道』電灯!?」と疑問をもって読み進めてみたら、なかなか興味深かった(以下、出所は同書143-144頁)。

北海道を事業の発祥地とする北海道電灯は秋田県へ進出、1925(大正14)年12月に秋田電気株式会社の事業を譲り受け、1926年9月に秋田水力電気を合併、12月には秋田木材株式会社の電気事業部門を譲り受け、秋田市に秋田事務所を設置、秋田市を中心とする海岸一帯を事業地とした。
 さらに1928(昭和3)年11月には最上川電気会社、1929年7月には米代川水電会社を合併し山形県に進出。1936年6月には福島県の大事業者、東部電力会社を合併し、福島県に地盤を確保した。
 その後も電力統制の国策も足がかりとしつつ合併を繰り返し、秋田、山形、福島の3県に事業地を拡大したが1941(昭和16)年の配電統制令により設立された東北配電の設立に参加し、同社に東北地方の電気事業設備を出資した。

渋沢栄一記念財団 渋沢栄一 / 渋沢栄一関連会社社名変遷図 / 電気 D 〔商工業:電力〕

『東北地方電気事業史』では時期が不明だが上記のページによると、この間、1934(昭和9)年に「北海道電灯」から「大日本電力」に社名を変更している。

『大日本電力二十年史』 【大日本電力, 1940】 - 実業史研究情報センター・ブログ 「情報の扉の、そのまた向こう」

また、同社の20年史を紹介している上記のページによると同社は「1887年(明治20)静岡創業の富士製紙」の「電気部が1919年(大正8)に分離独立、富士電気とな」ったもの。「30以上の同業会社を併合しつつ、津軽海峡を越えて秋田地方、郡山水戸地方へと進出、それにつれて社名も北海道電灯、大日本電力と変遷」したとある。

『東北地方電気事業史』では東北地方についてしか触れられていないが水戸方面まで進出していたというのは、正直驚く。完全に自由競争のもとにあった戦前の電気事業の一端を垣間見ることができた。

沿革 | 東部ガスについて | 東部ガス

ちなみに、この大日本電力のガス部門が分離独立した旭瓦斯株式会社は「東部ガス」という名で健在。上記のページによると、ガス部門の歴史は1911(明治44)年5月26日秋田市に創立された秋田瓦斯株式会社に遡る。1926(大正15)年5月、秋田瓦斯株式会社は大日本電力株式会社の傘下に入り、1936年5月東部電力株式会社の合併に伴い、郡山、平の両地域を供給区域に加えた。
 1937(昭和12)年5月1日、大日本電力株式会社からガス部門が分離し、旭瓦斯株式会社として独立。その後、1943年7月、茨城瓦斯株式会社を合併して水戸市、土浦市を供給区域に加え、1946年1月、社名を東北瓦斯株式会社と変更、さらに1948年12月、社名を現在の東部瓦斯株式会社に改称した。1982(昭和57)年4月からは守谷町(現守谷市)で供給を開始し、2001年4月1日には秋田市ガス局を譲り受けた。
 現在同社は、秋田県秋田市、福島県郡山市、いわき市、茨城県水戸市、土浦市、かすみがうら市、石岡市、守谷市、つくばみらい市、および常総市等の東北・関東両地方の3県にまたがる11市2町において、都市ガスを供給している。

当たり前と言えば当たり前だが、見事に大日本電力の供給区域と重なっている。