つらねのため息@gooブログ

写真や少し長い文章を掲載していく予定。

『電気は誰のものか:電気の事件史』

2015-09-14 23:57:00 | エネルギー
田中聡『電気は誰のものか:電気の事件史』(2015年、晶文社)読了。

明治の時代、当たり前のことながら電気はコンセントをつないだり、スイッチをつければつながるというものではなかった。人々は驚き、戸惑い、恐れながら、「文明の光」を受け入れ、電気を点灯していった。明治の代はいわば、資本主義という文明との出会いの時代でもあったわけだが、それと絡まりながら始まったそうした電気という文明との出会いが当時の庶民にとってどのようなものであったかを本書は描き出してくれる。

そうした通底して流れる問いと同時に、もうひとつ、より大きくかつ重要な問いとして本書で描かれているのが、書名にもなっている「電気は誰のものか」という問いである。それは資本家や国家のものではない、公益性を持った公共のものであるというのが本書のメッセージと言える。

そのような電気の公共性を問うものとして本書が取り上げているものが二つある。ひとつは富山県滑川町などで闘われた電気料金値下げをめぐる電灯争議であり、もうひとつが、以前本ブログでも紹介した、かの赤穂騒擾事件である。

赤穂騒擾事件とは、明治44年長野県の上伊那郡赤穂村で持ち上がった村営電気構想が、同村を供給区域とし、時の政権与党立憲政友会とも関係の深かった長野電灯によって妨害され、これに怒った村民が長野電灯の電気を引いた家を焼き討ちしたという事件である。

本書の第一章は、結果として多くの人が裁判で有罪となるに至ったこの事件の顛末を詳細に記述している。そして、著者は「打ち壊し、焼き討ちにまでいたった事件に、あまり共感はできそうにない」としつつも、「一方で政治権力と企業とが結んで村のための事業を阻み、警察も司法もその癒着に加わっているかのようにふるまう社会の暗さのなかに無力に立たされ裁かれた人々の悶えるような思いには、同情しないわけにはいかない」と述べる。そしてその理由をこう続ける「今も、その暗さはあまり変わっていないように思えるからだ」と。そしてこう問いかける。「電力問題に限らず、政府や大企業のやり方に怒りを覚えても、どう立ち向かえばいいのかわからないままに、自立の力を失いつつある地方、中小企業、そして私たちの多くは、みな赤穂村の村民ではないだろうか」。

"Ich bin ein Berliner!"と叫んだジョン・F・ケネディを想起しつつ、この問いに答えたい。そう私たちはみな赤穂村民だと。




亀戸事件と平澤計七

2015-09-03 23:10:00 | 生協・協同組合
92年前の今日、1923年9月3日、東京府南葛飾郡亀戸町で、社会主義者が亀戸警察署に捕らえられ、刺殺された亀戸事件が起こった。

亀戸事件 - Wikipedia

この亀戸事件の犠牲者の一人に平澤計七という労働運動家がいた(以下、山本秋『日本生活協同組合運動史』(1982年、日本評論社)184-193頁による)。平澤は明治22(1889)年、新潟県魚沼郡小千谷町の生まれ。日本鉄道大宮工場の職工見習教場に入り鍛冶工となった。当時から文芸的才幹を発揮、小山内薫の門を叩く。後に鉄道院新橋工場を経て浜松工場に移るが、大正5(1916)年、友愛会の活動への参加を志して上京、東京スプリング製作所に就職した。そのころ友愛会の機関誌『労働及産業』の懸賞感想文に入選、友愛会の大島支部、江東支部の組織化に成果を上げ、鈴木文治に認められ本部書記兼出版部員に抜擢された。大正7年10月には渡英する野坂参三の後任として出版部長となる。

大正8(1919)年、友愛会は大日本労働総同盟友愛会と改称したが、平澤は急進化する幹部との間に摩擦を生じ、出版部長を辞任させられ、友愛会での肩書は兼任していた友愛会城東連合会の会長のみになった。そして大正9年、友愛会関東大会で平澤に対する弾劾決議が可決されると、城東連合会員約300名とともに友愛会を脱退、純労働者組合を結成した(純労働者組合の純とはインテリ階級の介入を排除し、純労働者のみによって組織運営する組合の意味)。

この純労働者組合の労働者たちが大正9(1920)年10月、岡本利吉を講師とした労働問題講習会を開き、そこで岡本が話したイギリスのロッチデール公正先駆者組合の話に感銘を受け、同年10月29日に設立されたのが戦前の関東の消費組合(現在の生活協同組合)運動の先駆のひとつとなった「共働社」であった。

いわば平澤は日本の生協運動のパイオニアの一人ということができる。

平澤計七 - Wikipedia

関東大震災が起こると、平澤は純労働者組合と共働社の組合員でのちに長く関東消費組合連盟の有力な指導者になる正岡高一宅が全焼したのを自宅に引き取り、行方不明になった正岡の妹を探して上野から浅草まで歩き回った後、夜警に出てから自宅に帰った。ちょうどそのころに制服巡査が5,6人来て「まことに済まんが、警察まで一寸来て呉れといい、『ハイ』と言いおとなしく出ていきました」といった具合で連行され、その夜虐殺され二度と帰ってこなかった(山本前掲書218-219頁(引用部は亀戸事件建碑実行委員会編『亀戸事件の記録』よりの孫引き))。

※藤田富士男・大和田茂『評伝平澤計七』(1996年、恒文社)をもとに一部補筆。