つらねのため息@gooブログ

写真や少し長い文章を掲載していく予定。

美馬水力電気の故地を訪ねて

2017-10-01 19:17:00 | エネルギー
先日、学会のついでに四国電力の吉良発電所(徳島県美馬郡つるぎ町)を見に行ってきた。あらかじめ調べたところ、公共交通で行くにはつるぎ町営のコミュニティバスに乗るしかないのだが、特に休日は本数が少なそうである。その日のうちに関東に戻ってくるためには最寄り駅であるJR貞光駅を7時35分に出るバスに乗り発電所を見て、9時13分のバスに乗って戻ってくるしかないということがわかった。これに間に合うためには徳島駅を6時9分に出発して7時31分に貞光駅に到着する電車に乗る必要がある。

つるぎ町コミュニティーバス実証運行のページ

当日、どうにか5時過ぎに起床し身支度を整え徳島駅に駆け込む。すいている気動車(徳島には「電車」がないそうだ)に乗り込む。



ずっとガラガラかなと思いながら乗っていたら、日曜でも部活があるようで高校生が続々と乗ってくる。後で知ったが貞光にはつるぎ高校という高校もあるようだ。貞光駅に到着し大急ぎで駅を駆け抜けたところ(何しろ4分しかない)、コミバスが停まっていて一安心。ドアを叩いて「吉良発電所ってのを見に行きたいんですけど…」と声をかけたところ気のいい運転手さんで「おお、近くまで行くよ」とのことでいそいそと乗り込む。道中、運転手一人、乗客一人なのでずっと話し込む。少し前までは四国交通の(さらにその前は徳島バスの)路線バスが走っていたらしいが、赤字で撤退し現在は町営のコミバスが山間部の人たちの足となっているとのこと。10数分走ったところで、目的の吉良発電所前の広瀬というバス停に着き、「帰りもここで待っていれば拾ってあげるからね~」下ろしてもらった。

吉良発電所は流れ込み式の水力発電所で現地の看板によれば出力は2,700kW。立軸フランシス水車はドイツ(スイスの誤り?)エッシャーウィス社製、立軸三相同期発電機は米ウェスチングハウス社製である。なお、四国電力のウェブサイトによると出力の増強が計画されているようである。

四国電力「水力発電所の出力増加に向けた取り組みについて(平成29年3月28日発表)」(PDF)


四国電力吉良発電所


吉良発電所水圧鉄管


水圧鉄管を上から見下ろす

さて、なぜ早起きしてまで貞光まで来たかと言えば、この吉良発電所、日本でも数少ない戦時統合を免れた電気事業者の発電所なのである。吉良発電所は1925(大正14)年、美馬水力電気によって建設された。この美馬水力電気は戦時中の配電統合などを潜り抜け1975(昭和50)年に四国電力に引き継がれるまで「終始一貫して独立した電気事業者として、全国的にも特異な存在の会社(現地看板)」であった。

室田武の名著『電力自由化の経済学』(宝島社、1993年)では「戦前に起源のある戦後の私営卸事業者」として愛媛県新居浜市の住友共同電力(前身の吉野川水力電気が1919(大正8)年創業)、新潟県糸魚川市の黒部川電力(1923(大正12)年創業)、とともにこの美馬水力電気の名前を挙げている(73-76頁)。また室田は国策統合による「日発・九配電体制の創出によっても日本の電気事業者のすべてが日発、あるいは九配電のいずれかに統合されたわけではないという事実」を指摘し、その傍証してこの3社と九州火力及び神奈川県の電気事業の5者が存在したことを指摘している(室田前掲書194-195頁)。

このように稀有な歴史を歩んだ美馬水力電気であるが、なぜ国策統合を免れたのかは判然としないところがある。白川富太郎『四国電気事業沿革史』(電友社、1957年)には「所謂る卸売業者に対しては強制統合の方法もなくあくまで話合の上自主統合に待つ方法の外なく」との記述があるが、話し合いがスムーズに進まなかったためなのかどうかはわからない。美馬水力電気の背後関係を詳らかに調べているわけではないが、同じ四国の住友共同電力のように巨大資本がバックにあったわけでもなさそうであるし、吉良発電所のさらに奥にある切越発電所を保有していた貞光電力は、第二次配電統合の際に四国配電に統合されており、山間部に存在したことが理由でもなさそうである。なお、上記の黒部川電力は「中央の送電幹線と直結していないことおよび地方の部分的需要家に電力を供給していたこと」を理由に国策統合を免れている(黒部川電力については三浦一浩「黒部川電力と地域分散型エネルギー事業の過去・未来」『社会運動』413号(2014年8月)44-48頁、森田弘美『水力発電に夢を賭けた男たち:黒部川電力の100年』(黒部川電力、2015年)などを参照)。

美馬水力電気は最終的に1975年に四国電力に合併されるが、この時までには四国電力の子会社になっていたようである(そうであるならば、なおのこと戦時統合で統合されなかった理由がわからないが)。

なお、美馬水力電気は基本的に卸専業の電気事業者であったが、吉良発電所の存在した端山村(1956年貞光町と合併、現つるぎ町)では同発電所の電気を利用して点灯することに着眼し、交渉を重ねた結果、1927(昭和2)年より点灯している。ただしこの点灯は徳島県内一円を供給区域としていた三重合同電気によるものとして行われている。需要戸数は400戸、灯数560灯であったという(貞光町史編纂委員会『貞光町史』貞光町役場、1965年)。


清流貞光川


発電所から下流方向


同じく上流方向

発電所を見終えてバスを待っていると定刻より数分遅れてコミバスが戻ってきた。奥の集落から乗ってきたお客さんが二人、運転手さんと「わざわざ東京から発電所を見に来た酔狂なやつがいる」と話をしていたようで「地元にいたら、わざわざ見ようとは思わんもんなあ」「ずいぶん古いよなあ」「大正14年?ならうちの祖父さんと同い年だ」などと発電所談議で盛り上がった。


貞光駅構内


貞光は「うだつ」のまちでもある。

昭和35年の散宿所

2017-02-19 17:39:00 | エネルギー
以前、墨東公安委員会さんのブログで「散宿所」という言葉について触れられていました。

「散宿所」についての覚書~電気事業史の忘れられた言葉について : 筆不精者の雑彙

詳しくは、上記の記事を見てもらえればと思いますが、要は戦前の電力会社の営業拠点を散宿所と呼んでいたということのようです。「散宿所」とは本来、1896年の電気事業取締規則において定められたもので、当初は「送配電線網(「線路」)を常時監視するため」に「電気事業者が作業要員を常駐させる保守拠点」を「散宿所」と呼んでいたものが、やがて故障修理を兼ね、サービス拠点へ変化していったものとのことでした。

この「散宿所」という言葉はいつまで使われていたのでしょうか。墨東公安委員会さんによると、「新聞紙面に『散宿所』の言葉がよく見られたのは大正時代」とのこと。「性格が変わって『営業所』『派出所』と名前も変わり、昭和になるとあまり紙面に出なくなった」とのことでした。ただ私(つらね)も上記の墨東公安委員会さんのブログ記事にコメントを付けたのですが、加島篤「日本における定額電灯制と電球貸付の変遷」(『北九州工業高等専門学校研究報告』第46号(2013年1月)9-26頁)の記述から昭和30年ころまで「散宿所」という言葉が一部の電力会社で使われていたということが読み取れました。

加島篤「日本における定額電灯制と電球貸付の変遷」(『北九州工業高等専門学校研究報告』第46号(2013年1月)9-26頁):リンク先はPDFファイルです。

ところで、先日、国会図書館へ行った際、ついでにこの「散宿所」について検索をかけたところ、1960(昭和35)年8月の『東京電力株式会社社報』に掲載された「裏日本の山谷をふみわけて」という記事がヒットしました(「裏日本の山谷をふみわけて(笹川・上路・親不知各散宿所を訪ねて)」『東京電力株式会社社報』110号(1960年8月)19-22頁)。この記事は記者が同年の7月中旬、富山県から新潟県の西部にかけての3つの散宿所―西から笹川・上路・親不知(それぞれ駅でいうと泊駅、市振駅、親不知駅に対応)―を訪れた際の見聞記を3つの散宿所の駐在員の座談会風に仕上げた記事です。なぜ富山県から新潟県西部に東京電力の散宿所があるかというと、これらの散宿所は黒部幹線(通称:クロカン)という黒部川沿いにある関西電力の新愛本変電所から東京方面をつなぐ送電線とそれに並行する通信線を守ることがその仕事だったからです。つまり、この3つの散宿所は散宿所本来の定義である送電線路の保守拠点としてのそれであったということです。

散宿所の仕事は当然、送電線と通信線の保守・巡視がメインだったようですが、そのためには日常的に巡視路の整備を行ったり、土地柄雪が多いので送電線下の除雪なども大変だったようです。また山奥ですから巡視の際にはマムシと熊に悩まされていたようですが(会社からスズが支給されていたとのこと)、マムシは捕まえて焼酎付けにしたり、獲物の熊の毛皮を持っている剛の者もいたようです。生活面でいうと3つの散宿所とも集落内にはあったようですが、都市部から離れたところにあることや時代的な問題もあるのか、「牛肉が買えない」とか、「タバコを買いそびれる」ことがあるなど苦労もあったようです(「会社の厚生課でやってくれる巡回映画が待ち遠しい」という記述もありました)。

上述の通り、この記事は記者の見聞記を座談会風に仕上げたものなのですが、記事の最後についている協力者一覧を見ると、笹川散宿所から2人、上路散宿所から1人、親不知散宿所から4人の名前が挙げられていて、最低でもこれだけの人数が常駐していたことがわかります。また、いずれも家族と住み込んでいたことが記事からはうかがえます(食卓を囲む写真が掲載されていたり、子どもについて触れた記述があるなど)。さらに興味深いのは駐在員の「郷里」として「信州」や「九州」という記述があって、必ずしも地元の人が雇われているというわけではないということです。またこの郷里が九州の方は上述の熊の毛皮を持っている方なのですが「定年になって帰郷する際に持っていく」との記述があるので、もしかすると当時の契約では、定年まで散宿所で勤めあげるような契約だったのかもしれません。

これらの散宿所について別の資料からアプローチできないかと探したのですが、どうにもよくわかりません。ただ、東京電力編纂『関東の電気事業と東京電力』(2002年)の750頁には東京電力の発足当時「送電線路に沿って10~20km感覚で点在する散宿所には1~2名の保守員が常駐し」ていたこと、「日常の巡視や事故復旧などの作業で現場に赴く際には徒歩によるか、または自転車が使われていた」が1950年代後半には「送電設備の増強にともなって送電線保守の業務量が急増したため」「四輪車か三輪車、ないしはオートバイが配備される方針がとられ」たことなどが記載されています。また、同時に「送電線保守体制の再編成にも着手し、散宿所を逐次廃止して、そこに常駐していた保線員が保線区に集中して勤務する体制に改めた」とのことで「散宿所の数は、55年度末の509ヵ所から60年度末の68ヵ所へと激減した」と言います。つまり3つの散宿所は激減する中で残った散宿所ということが言えます。

電力系統図│託送・サービス│東京電力パワーグリッド

また、「クロカン」についていうと、東京電力パワーグリッドの「電力系統図」によると(上記リンク先の154kV系統図を参照)、現在の黒部幹線は埼玉県の奥秩父変電所から長野県の新町開閉所までのことを指しているようです。3つの散宿所があったあたりの送電線はのちに黒部北幹線という名称になり、現在は廃止されているようです(それでも「黒部幹線」という名前が残っているのは興味深いですが)。

結局、「散宿所」という言葉はいつごろまで使われていたのかという問いに明確に応えられるものではありませんが、1960年まで(語の本来の意味での)「散宿所」が存在したということは言えるのかなと思います。

『電気は誰のものか:電気の事件史』

2015-09-14 23:57:00 | エネルギー
田中聡『電気は誰のものか:電気の事件史』(2015年、晶文社)読了。

明治の時代、当たり前のことながら電気はコンセントをつないだり、スイッチをつければつながるというものではなかった。人々は驚き、戸惑い、恐れながら、「文明の光」を受け入れ、電気を点灯していった。明治の代はいわば、資本主義という文明との出会いの時代でもあったわけだが、それと絡まりながら始まったそうした電気という文明との出会いが当時の庶民にとってどのようなものであったかを本書は描き出してくれる。

そうした通底して流れる問いと同時に、もうひとつ、より大きくかつ重要な問いとして本書で描かれているのが、書名にもなっている「電気は誰のものか」という問いである。それは資本家や国家のものではない、公益性を持った公共のものであるというのが本書のメッセージと言える。

そのような電気の公共性を問うものとして本書が取り上げているものが二つある。ひとつは富山県滑川町などで闘われた電気料金値下げをめぐる電灯争議であり、もうひとつが、以前本ブログでも紹介した、かの赤穂騒擾事件である。

赤穂騒擾事件とは、明治44年長野県の上伊那郡赤穂村で持ち上がった村営電気構想が、同村を供給区域とし、時の政権与党立憲政友会とも関係の深かった長野電灯によって妨害され、これに怒った村民が長野電灯の電気を引いた家を焼き討ちしたという事件である。

本書の第一章は、結果として多くの人が裁判で有罪となるに至ったこの事件の顛末を詳細に記述している。そして、著者は「打ち壊し、焼き討ちにまでいたった事件に、あまり共感はできそうにない」としつつも、「一方で政治権力と企業とが結んで村のための事業を阻み、警察も司法もその癒着に加わっているかのようにふるまう社会の暗さのなかに無力に立たされ裁かれた人々の悶えるような思いには、同情しないわけにはいかない」と述べる。そしてその理由をこう続ける「今も、その暗さはあまり変わっていないように思えるからだ」と。そしてこう問いかける。「電力問題に限らず、政府や大企業のやり方に怒りを覚えても、どう立ち向かえばいいのかわからないままに、自立の力を失いつつある地方、中小企業、そして私たちの多くは、みな赤穂村の村民ではないだろうか」。

"Ich bin ein Berliner!"と叫んだジョン・F・ケネディを想起しつつ、この問いに答えたい。そう私たちはみな赤穂村民だと。




『利尻電気の歩み』

2015-03-01 22:47:00 | エネルギー
室田武の名著『電力自由化の経済学』(1993年、宝島社)に「北と南の島々における一般電気事業の戦後史」という一節がある。そこでは戦後日本の一般電気事業が「九電力のみによって担われてきたのではなく、他にもいろいろな電気事業者が通産省の事業認可を得て存立してきた歴史(同書417-418頁)」が、いくつかの実例をもって紹介されている。特にそこで紙幅を割いて紹介されているのが、北海道利尻島の事例だ。

利尻島の電気事業は1920(大正9)年、鬼脇電気が水力発電所を建設、当時の鬼脇村に電気を供給したことに始まる。翌1921年には鴛泊村に利尻水力電気が設立され、その後の増強なども合わせ、鴛泊村、沓形村、仙法志村を供給区域とした。また、1935(昭和10)年には鬼脇電気は村営化されている。

戦時下、電気の国家統制、配電会社の国策統合が進むが利尻島の電気事業もその例にもれず、鬼脇村営電気、利尻水力電気ともに北海道配電に統合される。

敗戦後の利尻島は鰊の豊漁に恵まれ、電気を望む声が高まったが、北海道配電に供給力増強の力はなく、島内の4つの村の村長は利尻電気利用組合(申し合せ組合)をつくり、沓形村に内燃力による発電所を建設、北電に託送する形で電気を供給した。しかし、この託送制度はうまく機能せず、利尻電気利用組合は一部事務組合としての利尻郡町村電気組合へと改組され、北海道電力から発送配電施設と供給権を買収、1953年より一般電気事業者の認可を得て、営業を開始した。室田は「たいていの場合、電力会社が小さな電気事業者を吸収・合併するという展開になる」日本の電気事業史の中で「小さな組合が大きな北海道電力から分離・独立したわけであり、きわめてユニークな事例として注目に値する(同書422頁)」とこの利尻島の事例を高く評価している。

この利尻島の電気事業はその後、設備の拡充強化に農山漁村電気導入促進法による補助金を獲得するため、島内の4つの漁協による利尻電気漁業協同組合連合会に移管され、同連合会による共同自家用電気施設となる。この連合会による設備の拡充ののち、北海道電力への移管が進められ、1972年北海道電力への移管により利尻島の独立した電気事業には終止符が打たれた。

この利尻島の電気事業の歴史を伝える一冊の書物がある。1972年、北電への移管を記念してつくられた『利尻電気の歩み』(利尻電気漁業協同組合連合会・利尻郡電気組合発行・編集)である。同書はこの利尻の独立した電気事業の歩みを今に伝える貴重な史料であるといえる。



支店管内の電力設備一覧-旭川支店-ほくでん

なお、上記、北海道電力のサイトによると、利尻島の人たちが自らの手で作り上げた鬼脇にある清川水力発電所、鴛泊の鴛泊水力発電所、沓形の沓形火力発電所はいずれも現役で、今も利尻島の電力供給を支えている。また、下記ブログでは鴛泊水力発電所の様子が、紹介されている。

発電所探訪 | RISHIRI Curator Diary

沓形火力発電所は設備の拡充が進められており、9号機運転開始の様子が、北海道電力のFacebookページにアップされている。ここには「沓形発電所の運転開始は昭和25年。昭和47年に利尻電気漁業協同組合連合会から当社が設備を引き取り、運転しています」と明記されている。

【沓形(くつがた)発電所9号機が営業運転を開始しました】北海道電力 公式Facebookページ

電力会社が本来の供給義務を果しえない中で、地域の人たちが自らの協同の力で地域の公共インフラを担った、とても貴重な歴史であると言えよう。現代、電力会社による電気事業の実際が明らかになってくる中で、先人たちが切り開いてきたこうしたエネルギーの自治・協同の歴史は大きな意味を持っている。

江戸川電気株式会社とその周辺

2014-08-10 20:35:00 | エネルギー
戦前の日本の電気事業は自由競争に委ねられ、各地には地域ごとに電灯会社がつくられていったが、東京の江戸川区にもかつて「江戸川電気株式会社」という電力会社が存在した。以下では、メモ代わりに同社についてひとまずわかってきたことをまとめておきたい。

『江戸川区史第三巻』(1976年、江戸川区)によると江戸川電気株式会社は明治44年11月14日創業許可を受けた。一般電灯電力を供給種別とし、小松川村、葛西村、松江村、鹿本村、篠崎村、瑞枝村を供給区域として大正2(1913)年9月21日営業を開始している。資本金は10万円、代表者は千葉胤義、社員20名、事務所を葛西村桑川617番地に置いた。発電機三基で出力は60キロワット、大正4(1915)年末の供給状況は需要家数1968戸、総燭光数17637とある。区史によると江戸川電気株式会社は東京市電気局、日本電燈などと並んで東京電燈と争う気配にあったが、大正6(1917)年1月27日、8万円で東京電燈に買収されたという(同書225頁)。

この記事の参照元は逓信省電気局編纂の第9回『電気事業要覧』となっているが、この『電気事業要覧』をもとに少し補足をすると、大正元(1912)年の第6回『電気事業要覧』では発電出力が75キロワットとなっていて、計画段階から事業開始の間で出力が引き下げられたことがわかる。なお、この発電はガス機関による発電となっている。また、出願や出資人との関係であろうか、事務所所在地が東京市京橋区南紺屋町になっている。

大正5(1916)年の第8回『電気事業要覧』ではガス発電と同時に東京電燈から受電している旨の記載があり、ガス発電については「東京電燈会社より受電工事落成の上には廃止するものとす」となっている。事実、第9回『電気事業要覧』では受電のみしか記載されていない(第6回~第9回『電気事業要覧』、いずれも18-19頁参照)。

東京電力による『関東の電気事業と東京電力:電気事業の創始から東京電力50年への軌跡』(2002年、東京電力)にもガス機関の発電によって開業したが「その後供給力が東京電灯からの受電に切り替えられたのにともなって、東京電灯との関係も強化された(同書206頁)」という記載がある。

また、『東京電燈株式会社開業五十年史』(東京電燈、1936年)でも、この江戸川電気の買収について触れられている。当時、電気事業者が「陸続と創設された」がその多くは供給区域が重なっていないか、小売事業者と電力の売買契約を結ぶ卸売電気事業者であり、「東京市及び其の附近に於て当社と最も競争の虞あったものは、特に一般電燈電力供給権を有する市電、日本電燈、江戸川電気等の小売事業者であった」。そこで東京電燈は「競争を防止する為、先ず」江戸川電気を買収し、「一部の不安を除去することが出来た」としている(同書114-115頁)。

事業内容はやや不明確だが、大正年間に江戸川電気株式会社が存在し、江戸川区で配電・小売の事業を行っていたことは、以上から確かなもののように考えられる。

それではこの江戸川電気株式会社をつくったのはいったいどのような人たちなのだろうか。まず検討するべきなのは代表となっている千葉胤義であろう。

神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ 【 新聞記事文庫 】

上記のサイトで「千葉胤義」を検索すると「綱類原料の供給 サイザル麻栽培計画」という記事が出てくる。台湾で麻の栽培をする会社の発起人になっているという記事で、江戸川電気に関わっていることとあわせると、実業家的な人のような印象を持つ。

さらに、インターネットで「千葉胤義」を検索すると1921(大正10)年に杉本商店というところから『佐倉義民木内宗五郎』という本を出していることがわかる。同書は豪華なことに犬養毅と尾崎行雄が題字を書いていて、池田宏という人が序文を書いている。この池田宏は内務官僚で後藤新平に見出された人で、後藤が東京市長になる時に助役になり、東京市政調査会の設立などにかかわったという(池田については、とりあえずwikipedia情報なのでちょっと不確か)。その池田の序文によると千葉は宮城県出身、「夙に志を懐きて海外に遊び」「今や新進気鋭の実業家として立志伝中の一人たり」というようなことが述べられている。その他にも「東京双輪商会」の関係者として紹介している記事もあるようである。

これらがすべて同一人物を指しているのかは不明だが、総合すれば、千葉は実業家的な人物で政界・官界とも何らかのつながりのある人という印象を受ける。しかし、なぜ江戸川の電気会社に関わるようになったのかはいまいちよくわからない。

一方、先ほどの神戸大学の図書館のホームページで「江戸川電気」で検索すると「才賀事件の前途」という記事がヒットする。電気事業のプロモーターとして成功し「電力王」とも呼ばれた才賀藤吉という人物の才賀電機商会という会社がつぶれたという記事なのだが、その関連会社として江戸川電気が出てくる。具体的な関係性が明確ではないが、技術あるいは資本面で、何らかの関係性を持っていたことが窺われる。なお才賀電機商会は、現在の都電荒川線の前身となる軌道事業のほか、現在の東京都北区や埼玉県川口市などで電気事業を行っていた王子電気軌道の設立にも関わっており、才賀藤吉は同社の初代社長となっている。

最後に電気之友社が出していた『電気年鑑』の大正7(1918)年の号に江戸川電気が出ている。ここでは役員の名前がいくつか出ていて、社長の千葉胤義の他に専務に大塚喜一郎、常務に川野濱吉、取締役に町田健、綿貫英隆、主任に石附卯一郎、主任技術者が及川福太郎となっている。社長の千葉は住所が東京市赤坂区青山南町になっているので、やはり江戸川とは関係ない人のようだ。町田、綿貫の両取締役は住所がともに「東京市京橋区彌左工門町4」となっている。2人がそろって同じ番地に住んでいるとは考えにくいので、何らかの資本の関わりなどが想起される。

王子電気軌道 - Wikipedia

なお、上記、Wikipediaの王子電気軌道の項目によると同社は明治44(1911)年に本社事務所を京橋区彌左工門町に移転したとある。明治45(1912)年5月には北豊島郡巣鴨村字巣鴨新田885番地に移転となっているので、大正7(1918)年の『電気年鑑』とは時間的なずれがあるが、この住所の重なりあいは興味深い。町田、綿貫の両取締役は王子電気軌道、ひいては才賀電機商会の関係者だった可能性が考えられるが、他日、より詳細な調査を期したい。

一方、藤田清編『小松川町誌』(1926年、中央自治研究会)によると、常務の川野濱吉は小松川村の村長、荒川放水路設置後の小松川町長を務めた人物であった。何年から村長を務めていたのかは不明だが、町誌には大正3年4月1日の小松川町誕生から大正13年の10月3日まで町長を務めていたとの記述がある(同書113-117頁)。また、川野は大正7(1918)年に設立された小松川信用金庫の初代組合長も務めている。

こましんの歴史(1918~1945)~Komashin History(1918~1945)~

専務の大塚喜一郎についても同様の人物像が浮かび上がってくる。鈴木和明『明解行徳の歴史大事典』(2005年、文芸社)によると市川市の島尻と江戸川区の下今井との間に「当代島の渡し」という小伝馬船を使った渡し船が昭和初期の短期間あり、その経営が大塚喜一郎という人だったという(同書27頁)。また、『江戸川区教育百年史』の資料編第1巻(1980年、江戸川区教育委員会)に「大正2(1913)年に瑞穂実業補習学校・一之江実業補習学校を瑞江第一実業補習学校・瑞江第二実業補習学校と改称した(瑞穂村と一之江村が合併して瑞江村となったため)旨の記事があり、それを提出したのが瑞江村長の大塚喜一郎となっている(同書45頁)。
※大塚喜一郎についてはGoogleブックス検索を利用したので、引用が不正確な可能性がある。

専務・常務の陣容を見る限り、地元の村長を務めている名士が名を連ねており、江戸川電気も地域の人たちが(控え目に言っても)かなり深く関与した、地域の電気会社だったことは言えそうである。千葉や、才賀がそこにどのように関わったのかはまだ不明な部分も多いので今後さらに調査が進めていきたい。