つらねのため息@gooブログ

写真や少し長い文章を掲載していく予定。

「セクハラヤジ」考

2014-06-21 00:09:00 | 自治のこと
みんなの党の塩村あやか都議が代表質問中に、女性蔑視のヤジを浴びせられたという。


当然のことながら多くの批判の声が上がっているが、現在のところ、都議会自民党は発言者を特定しない(=処分をしない)意向という。

女性都議へヤジ、抗議1千件 自民、発言者特定せぬ意向:朝日新聞デジタル

都議会自民党に発言者の処分を求める動きもあるようだが、個人的には同調できない。いま、声を挙げている人たちの多くは、恐らくリベラルな考えをもつ人たちで、自民党員ではない人が多いだろうし、自民党に投票したことのない人たちも多いだろう。私的な団体としての自民党は自民党員のものだし、彼らが内部の人間に対してどう処するかは、外部の人間がとやかく言うことではない。

しかし、発言した人間を特定できないと次の選挙で落とそうに落とせない、自民党が過半数を握っている以上、議会の場で明らかにできないという反論もあるだろう。それに対して私はこう考える。「自民党席から聞こえてきた」というのは当事者の多くの一致しているところのようなのだから、特定できない以上、次の選挙で自民党の人に投票しなければよいのだ。自民党が特定しないと言っている以上、いわば今回の野次に対して自民党が連帯責任を負うと言っているのだ。それならば、有権者の側は、それに対応して投票行動をとればよい。政党政治とはそういうものだろうし、自民党が特定しないというのはある種の見識ではないだろうか。
 そしてそれは、都議会にとどまるものではない。上は総裁から末端の党員に至るまで、処分がないのなら離党する(あるいは最低でも今回の野次を批判する)といった行動に移らない限り、全自民党員はこうした野次を容認しているとみなすべきであろう。なのだから、どの選挙においても自民党公認の候補というのはこの種の女性蔑視の考え方をもっている可能性があるということであり、そういう候補には投票しないと有権者が投票行動で示せばよいのだ。

その意味で言えば、私は、今回の野次を議事録にとどめることを提案したい。今回の本会議の議事録に、「自民党席より『…』と叫ぶ者あり」というような形で記録に残しておけばよい。誰がやったかわからずとも、どの政党が責任を負わねばならないかがすぐ分かるように。



ところで、今回の野次は「議会の品位をおとしめる」とか「セクハラ」という問題ではなく、女性蔑視そのものだと私は思う。その意味で上記引用ツィートに賛意を表するけれども、付け加えるならば、これは「都議会議員」を侮辱しその尊厳を傷つける野次なのだ。塩村都議は世田谷区選出の都議であるが、世田谷区民の代表ではなく、東京都の全有権者を代表する都議会の議員だ。その意味で、東京都民は今回の野次が自分たちの代表に対して向けられたものであるということについても問題意識を持つべきなのではないだろうか。

ついでにいえば、「女性蔑視の」野次だけが問題なのではなく「野次」そのものが問題であるということも強調しておきたい。

東京都議会 議員名簿

それにしても、都議会の女性議員比率は20%弱(127人中女性25人)。これを限りなく50%に近づけることがやはり必要なのだろうと思う。

都道府県議会議員に占める女性の割合(pdf)

とくに都道府県議会は女性議員の比率が少なく、少し古いデータだが、今回惨状が露呈した東京都議会の女性議員比率は、実はそれでも全国で一番高い。やはりもっともっと女性議員を増やすべきだと思う。

常設型の住民投票条例でも住民投票の実施を拒否できる?

2014-02-17 18:30:00 | 自治のこと
『成蹊法学』76号〔判例評釈〕住民投票実施請求代表者証明書の交付申請却下処分が適法とされた事例(広島市住民投票拒否事件)/武田真一郎

この事例、詳しく知らなかったのだが大変興味深い。旧広島市民球場の解体の賛否を問う住民投票の実施を請求するため、署名収集を行おうとしたが、住民投票実施請求代表者証明書の交付を申請したところ、市長は、旧広島市民球場の解体は「市政運営上の重要事項」に当たらないとして、申請を却下した、という事例。

先日の小平市の住民投票の事例でもみられたが、地域の重要争点について住民投票のための条例を直接請求して制定し、住民投票を実施することは、首長や議会の壁に阻まれとても難しい。

これを回避するのが常設型の住民投票条例で、一定数の署名が集まれば必ず住民投票を実施しなければならないとようにするものだ。

広島市にも常設型の住民投票条例があるが、その第1条、第2条は以下のように規定している。

第1条 この条例は、地方自治の本旨に基づき、市政運営上の重要事項について、市民の意思を問う住民投票の制度を設け、これによって示された市民の意思を市政に的確に反映し、もって市民の福祉の向上を図ることを目的とする。

第2条 住民投票に付することができる市政運営上の重要事項(以下「重要事項」という。)は、現在又は将来の市民の福祉に重大な影響を及ぼし、又は及ぼすおそれのあるもの(次に掲げるものを除く。)とする。
(1)市の機関の権限に属しない事項
(2)法令の規定に基づき住民投票を行うことができる事項
(3)専ら特定の市民又は地域に関係する事項
(4)市の組織、人事又は財務の事務に関する事項
(5)前各号に定めるもののほか、住民投票に付することが適当でないと明らかに認められる事項

すなわち住民投票の対象が、「市政運営上の重要事項」に限定されている。

さらに広島市住民投票条例施行規則第12条1~3項は以下のように規定している。
(1)条例第5条第1項の規定により住民投票の実施を請求しようとする代表者(以下「請求代表者」という。)は、住民投票請求書を添え、市長に対し、文書で住民投票実施請求代表者証明書(以下「代表者証明書」という。)の交付を申請しなければならない。

(2)前項の規定による申請があった場合において、市長は、住民投票請求書に記載された住民投票に付そうとする事項が条例第2条の重要事項又は条例第6条の形式に該当しないと認めるときその他適法な方式を欠いていると認めるときは、請求代表者に対し、相当の期間を定めて、その補正を求めなければならない。

(3)前項の規定により補正を求められたにもかかわらず、請求代表者がその定められた期間内に補正をしないときは、市長は、第1項の規定による申請を却下しなければならない。

すなわち市民が直接請求をしようとしても、市長が、対象となる事項が「市政運営上の重要事項」ではないと判断すればそれを拒否できる、とも読めるようになっている。常設型の住民投票条例であっても実際には首長の判断によって直接請求の申請を拒否できる可能性があるわけで、住民投票をめぐる問題点の一つといえる。

小平の住民投票に思う

2013-05-26 13:13:00 | 自治のこと
今日、小平市で住民投票が行われている。問われているのは、50年前に決まった都道建設計画を見直すかどうか。直接請求による住民投票が実現するのは、東京都では初めてのことという。そんな昔の都市計画がまだ有効だったのかとか色々と驚きはあるが、少し考えたことを申し述べたい。

考えたいのは直接請求の成立後、小平市が投票率50%の成立要件を加える条例改正案を市議会に提出、可決された点だ。小平市の小林正則市長は「投票の信頼性、実効性を担保するため、ある程度、投票率が高くないと市民の総意、市を代表した意見として取り扱うのはどうなのか、と考えた」と説明しているという。

東京新聞:50%未満「総意でない」 小平市長「投票率後出し」正当化:社会(TOKYO Web)

なんだかなあという気がしてしまう。投票率50%という成立要件を課すということは、見直しの必要はないと考える人に住民投票をボイコットするという選択肢を与えるということだ。投票をしないという選択、市民に参加の機会を放棄させるということが民主主義やまちの自治にとって良いことなのだろうか。投票をボイコットするということは、その体制の正統性に対する疑義から生じる行動のように思う。国政や自治体の選挙の際、各自治体は投票率の向上のためにかなりのアピールをする。それは何も選挙を通じた参加が市民の権利だからだけではなく、多くの市民の参加が選挙やそれによって選ばれる首長や議員などの「代表」性、ひいてはその体制自身までもの正統性を、より強固なものにするからだろう。もし見直しの必要がないと考える人が多数派なのならば、投票に参加して粛々と否決すればいいだけのことである。市民の参加の機会を奪うような方法に強い違和感を覚える。

もうひとつ考えたいのは、選挙で選ばれた「代表」の方々にしばしばみられる直接民主主義的な手法に対する忌避感である。彼らは自分たちのみが正統な意思決定機関であるかのように考え、直接請求や住民投票のような市民が直接参加する手法を否定的に捉えがちであるように思われる。しかし、だとすればなんなのだろうか。日本の住民投票は憲法に定められたものやリコールのように地方自治法などの法律に定められたものを除けば、諮問型の住民投票に過ぎず、法的な拘束力を持たない。自分たちが正当な市民の「代表」であると考えていて、例えば投票率が低いなどの理由で住民投票の信頼性が担保されていないと考えれば、首長や議会はその結果を無視すればよい。何をびくびくとしているのだろうか。しばしば指摘されているように、小林正則市長が三選を果たした4月の市長選の投票率は37.28%であった。自らの正統性に自信を持てない「代表」が、市民参加に成立要件を設け、その「信頼性、有効性」を云々するとはどういうことなのだろうか。

各種選挙における投票率|東京都小平市

ところで、投票率をみていて改めて思ったことがある。これは小平市に限った問題ではないが、国政レベル、都レベルの選挙に比べ市議会議員選挙や市長選挙の投票率は著しく低い。大事なのは国政だけではないはずだ。むしろ自分たちに身近なレベルでの選挙でこそ参加することが大切だ。ヴィリー・ブラントの有名な言葉を借りれば「もっと民主主義を!」というキャッチフレーズは何よりもそれぞれのまちの自治の場にこそ相応しい。住民投票のような機会だけではなく、日頃から自分たちのまちの自治に関心を持ていなければと改めて思う。せめて4年に一度の選挙くらいは。

国政と自治

2013-04-16 01:22:00 | 自治のこと
兵庫県の2つの市長選挙で維新の会が敗北したことが大きく報じられている。

朝日新聞デジタル:維新、兵庫2市長選で敗北 「橋下氏の名だけで勝てぬ」 - 政治

維新の会:戦略の見直し必至 2市長選で惨敗- 毎日jp(毎日新聞)

伊丹・宝塚市長選 維新候補、現職に敗れる 勢力拡大ならず - MSN産経ニュース

それぞれの市長選で維新の会の候補が敗れたことから、維新の会の勢いが落ちたとまでは言わないまでも、勢力の拡大に失敗し、戦略を見直す必要が出ているという。
しかし、そうなのだろうか。先週の東京の小平市長選挙でも民主党などが推す候補が勝利したが、これらに共通にみられるのはきちんと地域の実情を知り主張することができる候補がいれば、その推薦政党の消長にとらわれずに選挙戦が戦われるということなのではないだろうか。事実、上に挙げた毎日新聞の記事によれば、維新の会の候補は「党の看板である公務員批判と役所改革一辺倒の主張を展開した」という。そのまちの課題も知らず、党の主張を繰り返すだけの人物に、自分たちのまちのこれからの4年間のかじ取りを任せたいと誰が思うだろうか。その選挙で選ばれるのは自治体の首長なのだ。

にもかかわらず、マスメディアはすぐさま自治体選挙の結果を国政政党とのつながりで論じたがる。これはいかがなものだろうか。

青森と郡山の2市長選で自民党と公明党が推薦した候補が敗北したことをつかまえてアベノミクスへの支持が限定的だと論じた下記の記事も同様だ。

自公:青森と郡山の2市長選で敗北 アベノミクス支持限定- 毎日jp(毎日新聞)

もとより、国全体の経済政策が、そのまちの市民の生活や自治のありように直結するはずもない。国全体の課題に対応するために、私たちは国会議員を選び、国政に参加しているのであって、自治体の選挙ではそのまちの課題とそれへの対応が論点となってしかるべきだろう。自治体の選挙が国政に結び付けられてしか論じられないような状況で、それぞれのまちに自治が根付くことがあるだろうか。そこで論じられているのは本当にまちの自治なのだろうか。

「地方自治は民主主義の学校」という古い言葉を持ち出すまでもなく、この国のデモクラシーをとりまく現状がこういうところにも表れているような気がする。

柏崎市長の違和感

2012-07-16 23:59:00 | 自治のこと
昨今の脱原発運動の盛り上がりにはなんとなく違和感を感じている。もちろん、運動の目指している方向性に異論はないし共感はしている。しかし、「どうして今?」という気持ち、これだけの事故を経験する前に何とかできなかったのか、そんな思いがどこかになんとなく引っ掛かってもいる。例えば新潟県中越沖地震の時の下記のような記事。柏崎市長が感じた違和感を私たちはあの時、共有できず、それに向きあうこともしなかった。自戒の念も込めて記憶にとどめておきたい。

アサヒ・コム:柏崎市長「影響ない首都圏に違和感」 地震の原発停止で(2007年08月11日10時19分)