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夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

またしても整理整頓

2015年11月08日 13時17分35秒 | 日記
拙宅の奥様の辞書には整理とか整頓とか言う言葉がない。掃除と言う言葉はある。郵便物やカタログ、ダイレクトメール、なんでもかんでも『空いたスペースに置く』。そこに分類とか選別とか言う概念がない。正月飾りが真夏でも埃をかぶって『存在』している。人が、例えばレッスンを受けに来る子供の母親が何か手作りのものをくれたり、旅行のお土産など呉れたりすると『ありがとう!』と受け取る、遠慮も評価もしない、有難う、嬉しい!と言って受け取る。ここはエライ!拙者と同じだ。

人は宜しく誰かがしてくれることやモノがたとえ気に入らなくても『ありがとう』の一言と喜ばせる何かを返さなければならない。そうしないと徐々にツキが落ちて行く。懸命に、善意に溢れて生きて居るにも関わらず何故か一向に幸せにならない人が居るがここの機微が解っていない。一方、ともかく『有難う』を言う人はどういうわけか際どい所で助かったり徐々に運が向いてくる。70年生きて観察した結果だ。

佐世保~唐津往還に善吉と言う飯屋があった。たまにそこに立ち寄った。支払いを済ませて出る時、『美味しかった、ご馳走さま』と言うと善吉爺さんは満面の笑みを浮かべた。・・これが人間というものである。偉そうな屁理屈など言う必要はないしそういう人はいつまでたってもこの地上世界の幸運獲得のメカニズムは悟れない。

ただ、奥様と拙者の違いは拙者の場合は伯母様の『有難うと貰っておいて後で食べた事にして捨てましょうネ!』を忠実に実行しているに反して奥様は『空所に置いてそのまま忘れるモード』なのだ。するとある日、『アラ、これいつかあたしが上げたんだよね、でもアソコの隅っこで埃を被っているわ、ヤーネ!』となる。拙者は伯母の言ったことが本当だと思う。人が人に何かプレゼントする、何かしてあげる、その行為は『親しみと善意、あなたをおろそかには思っていない』と言う気持ちの表明、儀式なのである。そこに屁理屈を言う余地は本当はない。品位の問題である。

何か話がそれているなあ・・・。

で、奥様が居る時に整理整頓をやると『イヤミ』になるから外出時にする。すると言っても構えてやるわけではない、ふと『もう少しカドを揃えて』などと手を出したり『これをあちらにあれをこちらに』などと眺めていてついついやってしまって大掛かりになり、とんでもない大掃除件ゴミ出しに発展するのである。

帰宅した奥様はそれについて何の論評もしない。『便利な奴だ、させておこう!』程度だろう。掃除はする、四角い部屋を丸く掃除する。拙者のように竹串を持ち出して畳の隅の埃をつまみ出したり、果てはタタミを上げたり戸を外すようなことはしない。ああ疲れた!!昨日もネコ(一輪車のこと)を4往復して大量のごみを車に運び、焼却場まで捨てに行った。超疲れた。でも気分爽快。『いつかアタシもゴミに出すんでしょ』と嫌味を言われた。



中身に自信が着くに従って

2015年11月08日 08時48分39秒 | 日記
自分の中身、実態世界の自分に自信がついて来るに従って現象界でモノを持つことが煩わしく成って来る。あの当時、何故こんなものに拘ったのだろう、と思うモノやコトがある。最近それを捨て始めた。身が軽くなる気分で爽快だ。理由の如何を問わず多くのモノを持っている人は実態世界での自分に何か不足を感じている、その代償行為だろう。

第三次世界大戦は起きない

2015年11月08日 06時44分32秒 | 日記
その前に、と言うかそれよりも人類は神と戦う戦争を、多分既に始めていて徹底的に負ける。

少し長いがヨハネの黙示録から引用する。11章3節~・・・我、わが二人の証人に権を与えん、彼らは荒布を着て1260日のあいだ予言すべし。彼らは地の主の御前に立てる二つのオリーブの樹、二つの燈台なり。もし彼らを害わんとするものあらば、火その口より出てその敵を焼き尽くさん。・・・思うままに幾度にても諸々の苦しみをもて地を撃つちからあり。彼らがそのあかしを終えん時、底なき所より上る獣ありてこれと戦いをなし勝ちてこれを殺さん。その屍は大いなる都の巷に残らん。この都を例えてソドムと言いエジプトと言う、即ち彼らの主もまた十字架に付けられ給いし所なり。もろもろの民・族(やから)・国語(くにことば)・国のもの、三日半の間その屍を見、かつその屍を墓に葬ることを許さざるべし。地に住む者共は彼らに就いて喜び楽しみ互いに贈り物を贈らん。此の二人の予言者は地に住むものを苦しめたればなり。三日半ののち命の息神より出て彼らに入り、彼ら足にて起ちたればこれを見る者大いに恐れたり。天より大いなる声して『ここに昇れ』と言うを彼ら聞きたれば雲に乗りて天に昇れり・・・

ヨハネが見ていたものは実態世界の光景である。その世界には過去から未来の全てが揃っており、どこをも見ることが出来る。従って黙示録に記載されていることを時系列で考えることは出来ない、あっちを観たらこんなことがあっている、同時にこっちではこんなことが起きた、との表現法と考えるとだんだん見えて来る。時間微分されて現象化した地上世界のエッセンス的な姿、現象化する事象の本質が描かれていて、黙示録の記事をそのまま地上世界には当てはめられない。例えば1260日が実際の1260日ではない、1260日と言う文言が表象するある長さである。以上を前置きにして私の解釈を述べる。

大いなる都とは地上人間世界である。『世俗・堕落』と言う意味でエジプト、またソドムである。底無きところより上る獣とは前例がなかった政治体制、つまり国際連盟、国際連合である。二人の予言者とは第一次と第二次の世界大戦である。人類はこの戦争で非常な苦しみを経験した。そして、『主』即ち『神』とは実態世界に於ける地球である。『彼らは地の主の前に立てる二つのオリブの樹』と書いてあるが、国連の紋章にそれが現われている。

彼らは生き返った、つまり人類は再び世界大戦の危機を感じはじめた。しかし雲に乗って天に昇った・・・つまり見えなくなった、世界大戦はもう起きない。代りに別の事件がある。その事件、この後の記述が日本に関するものである。12の星の冠を戴き、日を着て月に乗る女、つまり三日月型に弓なりの列島に住んで日章旗を持ち、70年間女性原理が支配した日本国、その女が男子を産んだ、その男子はやがて鉄の杖で諸国民を支配する、その男の子は天に挙げられた・・・つまり人類の手の届かないところに保護された、女は敵の前から逃がされた、つまり実態世界の日本には誰も手をつけられない。が、神に敵対してその最終目的を阻もうとする存在は『女の残れる者たち』つまり現在の地上世界での日本人、に戦いを挑む、と解釈される。

パンギブンオサルちゃんのコクレン、支那人のユネスコ、イアンフイアンフと濡れ落ち葉のようにくっついてくるトンスル共和国、これらは実態世界に於いて旧約エゼキエル書38章に出て来るマゴグのゴグの地上世界への現象化だろう。仲間内で争って最終的にハゲワシやカラスの餌になる。

市役所

2015年11月08日 06時26分44秒 | 日記
もう40年も昔のことだが・・・母は市役所にパートに出ていた。その時話していた・・・・、課長さんはネ、9時頃出て来てお茶を飲みながらゆっくり新聞を読み、10時過ぎ頃から『ちょっと出て来る』と言ってどこかに行くよ。それから昼過ぎに帰って来て何しているかは知らない。帰って来られるとアタシはお疲れさまと言ってお茶を出すのよ、そしたらね、若い女の職員が『そんなことしないでください、どうせ遊んでいるんだから』とか『奥さんがそんなクセをつけると私たちまでしなければならなくなります』と言うのよ、今の若い子ったらネ!

しかしそれを聴きながら私はその若い女の職員のいう事が正解だと思っていた。無論、組織人、職業人としての経験から言えば、常にこまねずみのように動くのが立派とは思わない、歩きながら考えている、雑談しながら閃く、じっと座って考える、こともあり得る、高位になればなるほどそうなることは認める。しかし上記のようなことは往々にしてあり得る。

身内に市役所職員が居た。カリフォルニヤ米を食ってみよう、と言うわけで何かの調査とか言う名目でスシ食いにアメリカまで団体旅行!あんな不味い米なんか食えるか、と言っていたがそんな傲慢な事が出来るのか?と思って聞いていた。