鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅶ294] 老いの意味論(2) / 老いは哀しや‥ 

2024-05-17 08:34:25 | 生涯教育

駅や歩道橋の階段が恐ろしい。かつては一段おきにも登っていた駅の階段がアルプスの山のように思われ一段登るごとに息をつくようになった。でもまだ登りの階段はいい。下りの階段は手すりにすがりながら一段一段恐る恐る下る。一段踏み外したら奈落の地獄に転げ落ちることになることを知っている。

数日前のこと。午後には日課となった周辺を散歩していた(妻はこれを徘徊と言っている)。私の数十メートル前を白い上下の運動着を身に着けた年配らしい男が歩いていた。歩きの歩幅は私の方がやや広いので、彼に追いつきそうになった。彼は街路樹の木陰の先を歩いていたのだが、突然視界から消えた。はてどこへ消えたのか‥と思っていたら彼は一段低くなった歩道の窪みにうつ伏せのまま倒れていた。

彼が起きようともしないので異変を感じて声をかけた。返事もない。そこでうつ伏せになった彼の両肩を持ちあげて表向きに返した。彼の顔は血だらけになっている。きっと倒れた瞬間両手を出したものの身体を支え防禦する力がなく顔面から地面に落ちたのだ。眼鏡のガラスが無残に割れてフレームは歪んだままだ。私は後ろポケットに入っている広告の印刷されたティシュペーパーをむんずとつかみ鼻梁脇の出血の箇所に押し当てて止血をした。しばらく押しつけていると出血は止まるが、少し経つと再び出血し始める。かなりの年齢の老人で80歳はとっくに越えているだろう。メガネのガラスによる傷からの出血で真っ赤に染まったティシュを見て呆然としている。彼を支えて起きあがらせた。救急車を呼ぶまでもないな、と私は感じた。「どうしますか? お宅まで私が一緒にお送りしましょうか? 救急車を呼びましょうか? 」すると彼は答えた。「いやいや、あのー、タクシーを呼んでいただけますか! 」私は携帯電話で地元のタクシー会社に電話した。

彼は震える声で私に礼を言った。「ありがとうございました、助かりました、せめてお名前でもお聞かせください」と彼は言ったが、何か映画のシーンのようでもあり「名乗るほどのものじゃありませんや」と言おうとしたが気障なのでやめた。数分で到着したタクシーに彼を押し込んだ。線路をはさんで向う側の地名を運転手さんに告げていた。私の心臓の鼓動はしばらく止まらなかった。私も遭遇するであろうこの事故に「老いの哀しみ」が私を包んだ。

空笑が出るほどの絵に描いたごとき私の老いの日々である。『伝道の書』12章(これについては後述)そのままの日々である。

地方都市に住んでいた妻の母が亡くなってから数年がたつ。古くなった家を処分することになり母の遺品を整理していると、かなり前に私が母にプレゼントした折り畳み杖が玄関の傘立てに置いてあったのでそれを自宅に持ち帰った。今や「老い」が盗っ人のように波のように静かに私自身を覆うようになってきたので、今度は私が母の使っていた杖のお世話になるのも、そう遠い日ではないだろう。

老いの哀しみの中には老年期の経済的不安も伴うのが普通の人たちの一般的な現実だ。守銭奴に徹して畳の下の壺に金の延べ棒や現金を貯め込んだ生活をしてきたり、親の遺産相続で金満生活を続けられる老人は限られているだろう。鑑三翁の当時も同様だったろう。鑑三翁は珍しく素っ気なく解説文もなく次のような聖句をいくつか引用している。タイトルは「生計難と聖書の慰籍」。鑑三翁47歳の時のものである。それまで在籍していた万朝報社を退社(1903年)して後、自らの手で発刊した月刊誌『聖書之研究』の販路も拡大せず販売不振も続き、誌名を変更したり元に戻したりして鑑三翁も経済的にも不安を抱えていた時期である。父宜之も前年に亡くなっていた。いずれ明らかになる出版事業の成功不成功、わが身の「老い」や経済的問題、家族の将来について考えを巡らしていたことがわかる。これらの聖句を胸に抱きつつ信仰を堅いものにして行ったことだろう。神の特別の使徒・鑑三翁も現世の生活をごく普通の人間と同様に過ごし、同じような不安を抱えていた。

《生計難と聖書の慰籍》  (全集15、p.468)(1908(明治41)年5月)

「わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない。」(詩篇37:25)

「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」(イザヤ書46:4)

「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」(ローマ人への手紙8:32)

「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。だから、わたしたちは、はばからずに言おう、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか。」(へブル人への手紙13:5-6)

日々の新聞広告で「元気に老いるために」とか「元気で病気知らずの老後」とか「健やかな老後生活」とか「私は老いに負けない」とか‥物欲しげなタイトルの老者向けの書籍の広告が目立つ。「本なぞ読んで元気に長生きできりゃ世話ないよな」と広告を見て毎度思う。全ての物事には「時」があるので受け容れるだけなのに。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« [Ⅶ293] 老いの意味論(1) / 伸... | トップ | [Ⅶ295] 老いの意味論(3) / 老... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

生涯教育」カテゴリの最新記事