デルタとノースウェストの大合併というインパクトある報道を目にしましたが、総体的にメリケン幕府も元気がない感じですね。次はユナイテッドととコンチネンタルが合併したりして・・・・
◆現地研究家ら14日来県 県人の台湾移住史を調査(徳島)
◆2世らから聞き取り 県人の台湾移住調査、現地研究者ら来県(徳島)
花蓮(かれん)県吉安(きつあん)郷(旧吉野村)は花蓮市の一駅隣で3~4km位ですかね。バスで通ったことしかないのですが、真言宗の「吉野布教所」が数年前に修復・復元されていたかと思います。(一度行ってみないといけませんね)
郷土史研究家や花蓮県関係者、現地の報道記者らが移民者の二世や三世への聞き取り調査に徳島にやってきたとのことですが、「吉野村の歴史は台湾では分からないことが多い」(研究家の翁純敏さん)とあるように、終戦後移民らが一斉に引き揚げてしまったため、歴史の断絶が生じてしまったのでしょうね。
花蓮縣には、吉野(花蓮県吉安郷)、豊田(花蓮県壽豊郷)、林田 (花蓮県鳳林鎮)、瑞穂(花蓮県瑞穂郷)などの移民村が作られたようですが、当時の東部台湾は北廻鉄路など当然無い時代で、基隆からさらに太平洋側を回りこんで接岸する以外に手立てが無い陸の孤島だったようです。満蒙開拓移民団の入植何かよりも大変だったのではないでしょうか?
花東縦谷国家風景区管理所のHPには、「西洋文明の導入により発展を遂げていた日本人は、ここに模範的な移民村を建設したのです。これは台湾における農業経営の規範となり、各方面に多大な影響を与えました。これら移民村の多くは完璧な計画に基づいた集落で、村内の道路は碁盤の目状であるほか、各家の土地は正方形となっています」と記述されていますが、吉安郷の地図を見るとなるほどねぇという感じがいたします。その昔、引揚者というと長期の海外出張から戻ってきた人々のようなイメージを抱いていましたが、生活基盤は完全に外地にあった訳で、終戦で引き揚げてきた時はまさに裸一貫という状況だったでしょう。命あるだけマシだと割り切れるものだったのかどうか・・・・往時の苦労がしのばれる話です。
掃叭石柱
一昨年の11月、花蓮縣瑞穂郷に北回帰線指標や掃叭石柱を見にいったことがありましたが、アミ族の初老の運転手さんが「この辺は舞鶴と言って・・・・大阪にもあるでしょう?」とやおら道中車を止めて説明してくれたことがありました。(「舞鶴は京都だけどほとんど〝誤差〟の範囲だな・・・・」と感心したのですが、京都・大阪は旅行したことがあるとのことでした)
当時は付近一帯コーヒー園だったそうですが、日本人が引き揚げてから継承する者がいなくなったとのことでした。コーヒーと聞いてブラジル移民を連想したのですが、今年はブラジルへの移民開始から百年目にあたる<日伯友好年>でもあります。先人達の苦労に思いをはせる機会を持ちたいものですね。
花蓮縣の御一行が聞き取り調査にやってきたのは、日治時代がどうのこうのということではなく、あくまで郷土の歴史を大事にしたいという<台湾主体性意識>に基づく行為でしょうが、こうした姿勢は我が国においても等しく重要なことだと思います。私が小学生の頃は、郷土史を学ぶ時間があったのですが、「ゆとり教育」でこの辺が煽りを食らっているのであれば、再考が求められるところです。
〔備忘録〕・・・・歡迎光臨花東縱谷國家風景區
インターネットで夢みる花蓮へ(花蓮縣政府)
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