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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

カラスのこと、山の神のこと

2013-01-24 23:41:13 | 民俗学

 吉田保晴氏は、鳥に関わる方言や俗信を取り上げて「民俗の窓を通して」と題する記事を『伊那路』(上伊那郷土研究会)に連載している。その17回は「伊那谷のカラス」(『伊那路』665)であった。これまでの吉田氏の同シリーズ中でも、特別ページ数を費やした「カラス」である。それほどカラスの周辺には話題が多いということなのだろう。比較的山に暮らすハシブトガラスをヤマガラスと呼び、逆にハシボソガラスをサトガラスと呼ぶ秋田県の例を紹介するとともに、柚木修氏の「ハシボソガラスは秋の収穫から山に入り、春になると里に下りてくる「山の神の使い」だといわれていた」という言葉も引用して、山の神との関わりにも言及している。

 不吉な鳥として人間には嫌われているカラスであるが、神との関わりも強い鳥である。「烏勧請」という言葉があるが、『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)によると

 正月行事や事八日、収穫儀礼などで烏に餅や団子などを食べさせる行事。烏呼びともいい、二つのタイプにわけられる。一つは家ごとの年中行事として行われているもの、もう一つは神社の神事として行われているもので、後者は御烏喰神事とか鳥喰神事などといわれ、広島県厳島神社や滋賀県多賀大社、愛知県熱田神宮など西日本各地の神社に伝えられていた。前者の家ごとの年中行事として行われているものは、東北から九州まで全国各地に伝えられていた。岩手県岩手郡西根町では第二次世界大戦中まで旧暦で一月十六日の朝早くポッポの烏に餅をやるという行事があった。前日の十五日の晩に七つの丸餅を作り、翌朝早く一家の主人が藁で作った年縄にその丸餅を挟みそれを持って近くの山へ行き、木に吊してくる。その時集まって来る烏に「ポッポ、ポッポ」といいながら餅を小さくちぎって投げてやると鳥がそれを食う。万が一、鳥がこれを食べないと不吉なしるしといった。餅の残りを少し持って帰って焼いて食べたが、これは男だけが食べ女は食べてはいけないものとされていた。全国各地の事例を整理してみると次のような傾向を指摘できる。第一のタイプ、正月の山入りの際に行われるもので、供物は餅、呼び方はロウロウ、シナイシナィ、ポウポウなど奇声を発するもの、与え方は投げ与える、行事の理由としては厄病除けや災難除け、吉凶判断で、分布は東北地方北部。第二のタイプ、正月の鍬入れの際に行われるもので、供物は餅や米、呼び方はオミサキオミサキ、カラスカラスなど連呼するもの、田んぼに早稲・中稲・晩稲と餅や米を三カ所並べて置いて鳥がどれを先に啄むかによって作占いをする、分布は北関東に濃密。第三のタイプ、春と秋の事八日の行事の中で行われているもので吊しておいたり置いておいたりして鳥に食わせ、それによって厄払いとか疫病神送りとする、東北の一部と中国・四国の一部とに限られた特徴的な分布がみられる。第四のタイプ、秋の収穫儀礼の中でみられるもので、供物は餅・団子・イモなど、烏の害を除けるためとか、田の神への供物だなどといっている。このタイプは九州にみられる。このような伝承も第二次世界大戦中の食糧難を期に廃れていったものが多い。なぜ鳥に餅などを食べさせるのかについては、いくつかの解釈がある。一つは、烏が稲穂をもたらしたとする穂落神話に対応するもので烏にその功績に報いるために初穂を食うことを慣行として許したもので、それがのちに収穫儀礼や予祝儀礼として定着したという解釈である。もう一つは、山の神や田の神など神への供物を捧げる行事であり神の使いとしての鳥に食べさせることが目的となっているという解釈である。さらにもう一つは、事八日の厄払いのように烏に餅や団子を食べさせることによって人々の穢れを祓うのがこの行事の基本であるという解釈である。

と記載されている。烏勧請とは異なるが、昭和64年の正月3日に訪れた近江日野町の大屋神社の山の神神事にも同じような祭りが行われていた。このことは故田中義広氏が『まつり通信』337号(まつり同好会)に「近江の初春見学」と題して報告している。「日野町大屋神社」の項には次のように書かれている。

昭和64年1月3日撮影

 

 一月三日午前八時、日野ゴルフクラブの東に当たる杉の大屋神社へゆく。立派な門松を飾った入口から参道を進むと、石段上に拝殿があり、さらに数段上に彫刻の見事な本殿がある。左右に末社が並ぶ。
 拝殿をとりまいて杉、杣、川原三ケ字の戸主が総出で苞と大〆縄を作っている。三地区合わせて一五〇名位が奉仕する。二把の稲束を四遍返しにして川原の玉石を入れて手さげつきの球形の苞を作り、フクラソウの青葉をそえる。一ケは山の神に捧げ一ケは自宅へ持ち帰り柿の木などにさげる。豊穣を願うシンボルにあたる。山の神の苞は約五米の葉を払ったカナ木(地元でコウカンポーという)の枝に結んで地区(杣と川原)の人たちは帰宅する。大縄が出来上がると年寄りの一人が縄を両手で測り―一尋・三尋…十二尋・十三尋、ワセ・ナカ・オクテ豊年でございますと大声で呼ぼう。
 やがて榊を持つ神主を先頭に、抱の木の双体神(約30cm長)を三宝にのせて運ぶ社守、山の神餅(楕円の白餅)を運ぶ氏子総代のあと八米ほどの大〆縄をかつぐ人々、朴の木をひく人々の行列が、参道から外へ出て道を東に二百米はど進んだ山の神の森へ向かう。道路から二米はど左へ入った森の中にある二本の神木の根に大〆縄を二回めぐらし、竜の木は横に置く。村人は路上に横1列に並び、神主が祝詞をあげ、杜守・総代らが参拝する。杜守が三宝の餅を持って森の北東のアキの方角の田の畔(森より30米位)へゆき、神主はひとり神社の鳥居まで帰る。やがて社守が叫び、村人が応喝する。神主も叫び、村人の唱和が左のようにつづく。
 守「かかりよった」
 村「エンヤラヤ」
 神「ワセ、ナカ、オクテ」
 村「エンヤラヤ」
 神「今年の作り物皆よかれ」
 村「エンヤラヤ」
と三角三方で発声する。かかりよったとは烏が山の神の餅をくわえたことを意味し、他所の烏喰みを示す。神主の声は森からの神託のように聞こえる。能のシテとワキとハヤシのような応唱がこの山の神神事の終わりを迫力ある印象深いものにしていた。

 ちなみに本文は吉野裕子氏の『山の神』(人文書院1989)にも引用され、全文掲載されている。


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