Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

畔の草、どこまで刈ってよいか

2014-05-07 23:43:28 | ひとから学ぶ

 あるブログで次のような記事を拾った。

どうしても下の水田との堺の土手が気になったので、その水田畔を歩きながら、うちの土手との境界付近をもう一度刈ってみました。そこは境界部分でも上の方3/4くらいはうちで管理しており、下の方1/5くらいを下の持ち主が管理しています。すると1/20くらい、どちらも管理しない部分ができているのです。また下の人はその1/5の部分も、かなり草を伸ばしてから刈る上に、刈草を燃やしたり、そのまま刈りっぱなしにしたり、あまりマメに管理する人ではないのです。うちの方からは、斜面が急なので、上からの管理作業は危険であり、下の水田畔を歩かないと管理できないため、普段は立ち入らないようにしてきました。

というもの。先日土手の草の刈り方で注意された話を知人がされて話が盛り上がったことがあった。親切ごころで土手の上の方まで刈ったところ、「そんな刈るものじゃない」と言われたというのだ。とっさにわたしが話した経験話も似たようなもの。妻の実家の草刈りをしていて、邪魔だったので我が家の畔の下の道の草を刈ったところ、義父が「そんなに刈らなくてもよい」と言うのだ。そのこころに知人の経験話の意味と同じものがあったかどうかはわからないが、そもそもかつては草は大切なものだった。「たんほ付き山」というくらい田んぼに入れる肥料が必要だったから地続きに山があることが好条件と言われた。競って草刈りを朝早い時間からしたほどだから、人さまの草を刈るなどと言うとネコババしたように咎められたものだろう。知人に注意された方は、そういう意味で注意をされたよう。今でこそ草など無駄なものなのだが、かつては大切なものだったから、親切ごころで刈るのにも用心というわけだ。ちまたを歩くと綺麗に刈ってある畔の横の土地が草だらけで悩ましく見えることがよくある。「よく隣の草も刈らないものだ」と綺麗にしている人に言いたくなるほどだが、きっと綺麗にしている人のこころの中には、人のものを勝手に刈ってはならないという意識が働いている。いい迷惑なのだが仕方がない。本当によく見る事例だ。

 冒頭の記事の方も言われているように、土手の草はそのままにしていては土手が脆弱化する。刈り倒した草の下はモグラの住処にもなりうる。だから刈り倒しただけではいけないのだが、最近の自走式草刈機の場合、かなり細かく砕いてしまうので、頻繁に刈っていればそれでも支障はないかもしれない。

 妻に言わせると「鎌ひとつ分」は下の水田の者が刈るものだという。土手の高さによっても条件は違ってくるが、そもそも土手が高いと、上の所有者にとって、畔の上からは刈り払い機が届かないので、畦畔の途中まで降りて刈らなくてはならない。当たり前のことなのだが、ようは、所有地である以上、土手の下まで上の者が刈るのは当たり前なのだが、妻の言うように、稲が成長してくると稲の邪魔になったりするから、管理方法として下の水田の所有者が影響線までは刈るのが許されているのだろう。このあたりは注意深くみてみても書物にはあまり記載されていないことだ。しかし地域によってかなりその認識は違っているとも思う。もちろん今どきの刈り払い機の普及によってもその意識は変化してきているかもしれない。


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