青木隆幸氏は『地域文化』の最新号(117号 八十二文化財団)特集記事「「田切」が作り出す世界 伊那谷の「南と北」」の冒頭で、「「飯田からいらしているのですか、それは随分遠くから大変ですね」 単身赴任七年目。長野市に住宅を借り、千曲市にある職場に勤務している。この七年、多くの方からこのような言葉をかけられた」と記すとともに、「車窓に流れる田切の美しい景観を楽しみながら、そんなとりとめないことを考え毎週車を走らせている。」と記して記事を閉じている。これは伊那谷で生まれて、北信の職場に勤めている多くの人が共感できる思いではないだろうか。おそらく青木氏は、週末自宅に帰り、再び長野へ向かう、を繰り返す中で、伊那谷を縦断しながら伊那谷を堪能し、そして地域外に出ては、「遠くからよくまあ」といった具合にねぎらいの言葉をもらいながら、あらためて伊那谷をいろいろ考えているのだろうと想像する。もちろん、その気がなければそんな思いを育むこともないが…。
先日も記したようにわたしは高速道路も利用するが、時間があれば一般道を走る。なんとかのひとつ覚えのように、ひとつの道に執着することはない。青木氏も「田切地形を体感するには、中央道伊北インターの南から飯田方面に向かって天竜川右岸を走る伊那中部広域農道をお勧めする」と記している。おそらく青木氏自身、長野から飯田へ帰るとき、あえて伊北インターで高速を降りて伊那谷をこの道を使って南下することがよくあるのだろう。おっしゃる通り田切地形を体感できる。なぜならば広域農道は、田切地形の典型的な線形を見せる。飯田線が駒ヶ根市か松川町にかけて谷を越えるごと蛇行するように、この広域農道も飯田線ほどではないものの、谷を越えるためにU字状に迂回するのである。扇状地面には水田地帯が展開し、谷の中には花崗岩の巨石がところ狭しと姿を見せる。高速道路は谷を直線で飛び越してしまう上に、最近は防音壁が続いて周囲の景観はほとんど見えなくなっている。時間は無駄に使ってしまうが、せっかく走るのだから無表情な路上ばかり見ていてもつまらない。
わたしは田切地形を体感しようと一般道を積極的に走るわけではない。いろいろな表情が見られるなら、とその時の気分で道を選択する。だから青木氏のお勧めの広域農道ばかり使うこともなく、火山峠越えの主要地方道伊那生田飯田線もよく利用するし、それ以外のふつうの人は使わないような道も時には走る。だから東信地域に峠越えする際にも、新和田トンネルはほとんど使わずに旧道和田峠を通る。それは冬場も変わらない。やはり地域らしさを体感するには、過去の道も走ってみることだ。
さて今回の『地域文化』は特集“-信州の町-「田切の里」”と銘打っている。特集の主旨について「信州のある町に焦点をあて、そこで生まれた文化・産業・人々の営み・人々のつながりなどを広く取りあげる「信州の町」特集。本号では伊那谷の田切という独特な地形が醸しだした里の風土・民俗・遺産、大地の成り立ちなどに着目していきます。」と冒頭宣言している。説明をされてもこの「信州の町」という副題にはしっくりこない。青木氏の文中に「上伊那郡南部地域概略図」というものが示されていて、そこには宮田村から駒ヶ根市、飯島町、中川村までのエリア、いわゆる上伊那南部地区が示されている。そのエリアをここでは「信州の町」として捉えているのだろうか。確かにあまりメジャーではないものの、「田切の里」に間違いはなく、もっとアピールして良い特徴だということはわたしの日記でも何度となく触れてきた。主旨に沿って特集では「土木遺産」という捉え方で「飯田線」を取り上げている。飯田線も前述したように田切地形を体感できるもの。がしかし、ここで「伊那谷の南と北」というものを引っ張りだすから、「信州の町」が吹っ飛んでしまう。加えて冒頭の宣言にもある「大地の成り立ち」を扱うから、ますます「信州の町」としての上伊那南部らしさの表現が消えてしまっている。どうも特集「信州の町」という内容ではないのである。『地域文化』については以前にも特集の違和感について指摘させていただいた。視点は良いのだが、記事の内容が特集にあてはまっていない、そう感じる「信州の町」である。
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